China史ノート 1 列伝 2 伍 子胥(ご ししょ)

起源前522年頃、楚の太子、建は、父に追われて鄭国に亡命した。鄭国は歓待したが、建は、晋に行った。 晋王は「建よ、鄭国はおまえを信用している。おまえはもう一度鄭国に行き、鄭国の政策に関与して、わが晋と呼応して動け。晋が鄭国に攻め入れば、鄭国は滅びる。」と言い、建は、鄭国に戻る

建と晋の策謀は、太子建の従者の密告によって、鄭国の知るところとなり、殺害されてしまう。  この時、建についていた伍 子胥ご ししょが、逃亡して呉に行き、将軍となり、呉王を補佐して、楚を敗北させ、父の仇敵である平王の墓を暴いて死体を鞭で打つことによって、復讐を遂げる。

 伍 子胥ご ししょが太子の建と楚を逃亡した理由は、父が楚の平王に父と兄を処刑されたからだった。

「(古代歴史家)トゥキディデスの罠(The Thucydides Trap)」海上交易を抑える経済大国としてアテナイが台頭し、陸上における軍事的覇権を事実上握っていたスパルタとの間で対立。30年不戦条約をしたが、ついに戦争になる。新興国が先進国に挑む危機として米中対立を捉えている見方。 対して中国は他のトップはともかく、少なくとも毛沢東三国志資治通鑑をしきりに読んでいたとされる。  

 春秋左氏伝、史記で最も三大逸話とされるのは、「趙氏孤児」、「伍 子胥(ご ししょ」「越王勾践こうせん」(どれも近年長編ドラマ化された)これがテーマが同一で、「奴隷的境遇に陥り、20年以上の長い月日を、復讐の念を忘れずに生き抜き、ついに最後に復讐を遂げる」という物語で共通している。

「日暮れて道遠し」というのは、学問業績をものにするには、寿命は長いという意味ではなく、「復讐を遂げるには、老い先短く、急がねばならず」 復讐相手の仇敵が死んでしまったなら、墓を暴いて死体を出して、鞭でうちのめし、これで復讐を果たしたことになる、というのが、「伍 子胥」の逸話である。  

 Chinaにも、やりすぎだと否定する論もある。だが、司馬遷は、若き日に絶望自殺しかねなかったのに、復讐の念を忘れずに生き抜いて遂にし遂げたのは傑物だったと評価する。