China史ノート 1 春秋の晋 5

紀元前600年、晋の霊公。

重耳が艱難の末、秦の援助を受けて晋の王「文公」になったのだが、高齢のため、在位は9年だった。

 文公の跡継ぎ、襄公も即位7年で夭折。

 ここで跡継ぎをどうしようかという話になった。

 太子の夷皋が幼いので、正卿趙盾は晋国の覇権を維持するために、当時、にいて盛名が高かった晋王族のを呼び戻して晋公とすることにした。

 狐射姑は、にいた公子楽を晋公にしようとするが、趙盾は刺客を放って公子楽を殺してしまう。

 狐射姑は亡命する。趙盾は反対派の動向を恐れるようになり、考えを変える。

 夷皋の母もまた泣き叫んで晋の大夫たちを説得して回ったこともあって、夷皋を晋公に立てることに決定したので、秦に向けて軍を出して公子雍の晋入りを拒否した。

 こうして即位した幼い王が成人すると、暴虐の王になった。

 霊公は熊の掌を煮込んだ料理の煮込みが足りないと怒って、即座に料理人を殺させてしまうなど、手がつけられない王になった。

 趙盾は精練潔白の士だったが、王を諫めたために、霊公は趙盾を殺すために鉏麑と言う刺客を送った。

 趙盾の屋敷にやってきた鉏麑は、趙盾の身の修め方を見て、殺すことは正しくないと考え、自ら頭を木に打ち付けて自殺してしまった。

 「立派な人物を殺す罪も、君命に逆らうのも同じ罪だ」と言って、逃亡するのを潔しとしなかった。

 霊公はそれでも諦めず、宴に刺客を潜り込ませたが、趙盾は人の助けでこれを逃れ、亡命した。

 霊公はこれでせいせいしたと、物見台から往来の人に石を投げて、驚くさまを見て喜んだ。 

 霊公の傲慢暴虐な態度に腹を立てた趙穿が霊公を殺害した。

 まだ、国境を出ていなかった趙盾は慌てて宮殿に戻り、襄公の弟の公子黒臀を迎えて晋公に立てた。これが成公である。