立花隆「天皇と東大」を読む 2

盧溝橋事件が起こるとすぐ、尾崎秀実笠信太郎らが牛耳る朝日新聞は、盛んに、「シナ一片の反省もなく」「不遜!南京の回答」「今ぞ「断」の秋(とき)!」と「!」を連発して、新聞、論檀紙を読むほどの半知識人の情念を反中国国民党に向けた憎悪に駆り立てて、中国共産党を助けてあげた。

 

 それは、それはソ連よりも数倍巨大な工業国家英米両国との衝突をも、当然ながら、各界指導層に予感させ、これをおりしも、1940年の時点で1937年の80%にまで落ち込んだ個人消費支出に示される経済不況に対して、東京大学の通称「革新」派経済学者グループは、この経済の難局を「根底から革新」するためには、「本来営利目的を原理として構成されている」現存の経済機構は、「営利目的などと言っていては、特にこの財政逼迫の中では、国防さえおぼつかない。つまり、軍需品の大量生産と強健な兵士を供給できないのだから、列強に滅ぼされては元も子もない・・・というわけで、日中戦争の中で疲弊した経済が国力、国防力の脆弱化を怯えとともに予感させ、終わらぬ日中戦争がさらに、英米という巨大な敵との怯えとあせりを隠した強がりを伴って、国家総動員体制をせかすようになった。

 なんのことはない。満州から南のシナではなく、北へ進んでいれば、シナ大陸に兵力を投入する必要もなく、それほど、経済がおちこむ事はなく、さらには、英米との直接対決にすくみつつの強がりに立つこともないのだが、そうなるように仕向けたのが、近衛、風見、尾崎と昭和研究会という、そもそも、親ソ連派の偽装転向共産主義者たちだった。

 

 キリスト教というのは、ユダヤ民族がローマ帝国による支配に抗して立ち上がり、ユダヤ民族が血死の戦いを挑んで、しかし、奮闘むなしく、戦った指導者は皆殺しにされて、ユダヤ国家は滅亡。これをきっかけにして、ユダヤ人はエルサレムの地から立ち退きを命じられた事から、ほら見ろ、意地を張って大国に抵抗したって、戦った男はいいが、女子供も殺され、生き延びても奴隷と流浪の憂き目にあうではないか、正義が勝つなんてことはなく、徹底的に殺され、虐げられる運命が待っているだけだ。そんな運命を用意したのは、ユダヤ教だ。そんなユダヤ教を奉じた先祖が憎いという、ひねこびた恐怖と先祖に対する憎悪から生まれた新宗教だ。

 

 この成り立ちゆえか、キリスト教には、常に異常な精神の発露がつきまとう。

 その一例が、キリスト教徒にして、「満州事変は、独占資本の段階に突入した帝国主義日本の侵略」とマルクス主義まるだしで、非難した」矢内原忠雄である。

 

 矢内原忠雄は東大の経済学者で、満州事変の批判者だったが、矢内原がどういう信条の持主だったかがよくわかるエピソードが立花隆天皇と東大」文春文庫三巻529ページに紹介されている。

 

 矢内原は、キリスト教徒の先駆者、内村鑑三を尊敬していたのだが、その流れで、内村鑑三の晩年まで内村に寄り添っていたキリスト教徒である藤井武の書く預言詩(神からの言葉・・・のつもり)に深く傾倒していた。

 立花隆の引用によってその矢内原が傾倒していた藤井武の預言詩というのが、次のような、実に頭のおかしい内容なのだが、これを矢内原は大まじめに重要視していたのである。

 

 「亡びよ。この汚れた処女の国(日本)、この意気地なき青年の国!

この真理を愛することを知らぬ獣と虫けらの国よ。

 亡びよ!」

 

 キリストの「愛」どころではない。藤井も矢内原も、日本を憎悪し、亡びよと呪っているのである。そこに、仮に現在の日本の成り行きが過ちの道をたどっているとして、全力で自分のできる範囲で、良き心映えの人間を育てようという優しい気持ちはかけらもない。

 ただ、アナーキーな憎悪に陶酔して、神の「預言」と称して、日本憎悪を書き散らしているのである。

 

 私たちは、どうしてもキリスト教徒というと、善良なやさしいく、品のいい態度の人物を想像しがちだが、案外、キリスト教のこういう本格的な、生涯キリスト教の伝道なり、キリスト教団体の指導者であったりするほどこういうキチガイじみた妄念をふとこっている場合があるのである。

 

 従軍慰安婦問題で、北朝鮮の息のかかった韓国の団体と共闘したり、フェミニズムの運動のどこがキリスト教と関係があるかわからないが、夫婦別姓ジェンダーフリー天皇皇位継承反対などの政治運動に現にのめりこんでいるのが、2017年の「キリスト教矯風会」「YWCA」などのキリスト教団体である。

 

 立花隆は矢内原自身がこの狂的な日本呪詛の詩を書いた藤井武の追悼集会における発言内容を紹介している。

 

 「「今日は偽りの世に於いて、われわれのかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失ったる日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがお分かりになったならば、日本の理想を生かすために、まずこの国を葬ってください。」

 果たして、信仰者にとって、「日本の理想」などというものが必要なのだろうか、という疑いがまず生じるではないか。アメリカの理想、ロシアの理想、チャイナの理想などという国家の理想を、宗教の信仰者が求めねばならぬ事自体が理解しがたいのだが、矢内原は当然のように語る。そもそも、あえて日本を愛することさえ、不要ではなかろうか、クリスチャンでも、仏教徒でも。

 こういう日本亡びよ、皆さん、日本を葬りましょう、と繰り返した矢内原が東大に辞職届を出して去る時、静まり返った中にかすかにすすり泣きが聞こえ始めたと「帝国大学新聞」伝えている。

 

 相当おかしな人たちが東大の学生にはたくさんいたことになる。

 

 矢内原忠雄が東大総長、長與に恐れをなさしめて、つまりほっておけば自分まで右翼に殺されるんじゃないかしら、と恐れて、矢内原に辞職してくれと迫っることになった問題の文章は、2017年の日本のキリスト教連盟が象徴天皇制までもを目の敵にする理由もかくやとばかりの、天皇否定である。

 

 昭和8年1月号雑誌「理想」「日本精神の懐古的と前進的」

「日本精神の根底は国家本位であり、国家の中心は天皇であり、しかして天皇はあるいは国民の真自我としての至善、あるいは実行力の根源としての人格、あるいは国家の至尊であると為すのである。したがって、わが日本精神の中心は、天皇に統率せられ天皇に帰せられ天皇に帰一する国家至上主義であると解されるのである。」

 

 この矢内原の論理は、キリスト教国家において迫害されたユダヤ教徒イスラム教徒の目から見れば、キリスト教はさしずめ、国家本位ということになろうし、パレスチナの人々からすれば、イスラエルの国軍のパワーのもとにパレスチナ難民に攻撃を加えるユダヤ教は国家至上主義だという論理になりうる。

 

 要するにこれは、伊勢神宮、村々の神社になんの愛着も持たない人間・・・すなわち、少数派のキリスト教徒、あるいは、唯物論を宗的信条とする無神論者が、体制を破壊したい心情を、屁理屈でこねあげて、天皇という伝統存在に難癖をつけようとしたにすぎない。

 

 立花隆の要約を借りると、矢内原は、「天皇も、造物主たる神を前にすると、他のすべての人間と同様、人性を持つ存在だから、キリスト教の教義と矛盾しないと結論した。

 が、ばかげているではないか。日本人の多くは「造物主」というものをイメージできないのだから、矢内原のようなごく特異な西洋のクリスチャンよりもさらに大真面目に原理主義的なクリスチャンに天皇も造物主の前ではただの人間。(キリスト教天皇も信じろ、ということなのか)と言われても納得できる日本人はほとんどあるまいが、日本人が納得できようが、どうであろうが、およそ、キリスト教徒、特に日本では少数派にならざるを得ないキリスト教の頭ではこういう妄想が渦巻いているようなのだ。

 

                       続く

 

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