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立花隆批判 「天皇と東大を」を読む 6

 

 平泉澄きよしは、226事件に北一輝とともに平泉澄きよしも関与していたのではないか、あるいは、平泉澄きよしの陸海軍将校に対する講義がクーデター決行の心情を形成する動因になったのではないか、という疑義が広まった事について、こうとぼけた態度で発言している。

 

 「羹に懲りて膾を吹くにいたり、私はあらぬ疑いをかけられ」と言うのだが、膾どころか、平泉澄きよしの国史解釈こそ、これ以上ない羹、過激な国史解釈だったから、昭和天皇平泉澄きよしの後醍醐天皇賞揚を平泉澄きよしの進講で聞いて、不機嫌になったというので、以後、昭和天皇への進講を宮中側近が平泉澄きよしに依頼することはなかった。

 

 昭和天皇の知らぬままに平泉澄きよしの陸海軍将校への洗脳はどんどん進められていたわけだった。その後押しをしたのが、近衛文麿と当時少将だった東條英機である。

 

 226事件の直後に、何食わぬ態度で平泉澄きよしが海軍大学校にいつもの通りに、皇国思想の講義に行くと、海軍の教官が226事件は不届きだと興奮して怒鳴っており、平泉澄きよしに向かって、あんたも気をつけてくださいよ、と言ったので、平泉澄きよしは、これに色をかえて、「教頭がわたしを疑われる以上、私は本日の講義、辞退してこれから帰ります。お別れに臨んで御忠告申し上げる海軍大学校よ、これから疑わしい人物に講義を依頼されないがよい。」と、私は海軍でそう、言ったのです、と大いばりで平泉澄きよしは、「悲劇縦走」昭和55年1980年(平泉澄きよしは1984年に死去)で、とくとくと語っている。

 

 ここで平泉のもうひとつの怪しい点をあげておくと、平泉が東大助教授時代にドイツで会ったハインリッヒ・リッケルトとクローチェのこの二人。この二人がまさに、戦後マルクス主義歴史学者国会議員羽仁五郎の特に影響を受けた思想家としてあげる二人とピタリと一致する。おまけに、平泉澄きよしは、パリでフランス革命を研究している。

 あの王族全員ギロチン処刑の革命である。

 

 ここで羽仁五郎について、簡単にまとめておくと、羽仁五郎は、全共闘学生によく読まれたと言われる岩波新書ミケランジェロ」の著者。

 そこで、羽仁五郎は、「ミケル・アンジェロ」とわざわざ書いた。

 羽仁五郎は、日中戦争のさなか、軽井沢の別荘でEHノーマンに、マルクス主義史観による「明治維新」を講義している。

 羽仁五郎明治維新解釈は、「明治維新は<民主主義革命>の未完成版であるから、専制的な天皇制が確立した」とするもの。

 だが、この羽仁五郎天皇制度観は現実とは異なるものであることは、昭和天皇が自己を立憲君主制天皇として自覚して、専制君主となろうとしなかったこと、後醍醐天皇賞揚を拒否したことからみても、もし、ロシア革命によるコミュニズムの台頭、アメリカ発の世界恐慌、清国崩壊による中国の分裂と軍事統一の混乱がなければ、次第に日本の天皇制度は英国型に近づいていったと思われる。

 この流れを無理に「天皇親政」に押し戻して「専制天皇」を演出したのが、平泉澄きよしであり、「天皇親政」を実現化した末に天皇が親政を拒否するならば処刑してしまおうとしたのが、北一輝と推定される。

 英国は民主主義革命などしていないが、王室ファシズムによっての第二次世界大戦も第三次世界大戦も起きない。むしろ、王室のあるままに民主化していくのが、英国。

 つまり、日本であたかも、天皇ファシズムが戦争を推進したかのように、丸山真男らが定着させた見方は、天皇ファシズムを擬態とした「資本主義制度転覆革命」が英米では起きず、日本では起きたというのが、実態であり、天皇制の膨化と見えるのは、「資本主義制度破壊思想の爆発」のとった天皇制の衣をかぶった擬態だったのである。

 これを見えなくする作用を果たしたのが、元来、天皇を敵視するロシア・コミンテルン史観だった。

 この羽仁五郎とともに、戦前日本のマルクス主義研究雑誌「振興科学の旗のもとに」を創刊した三木清が、昭和研究会に参加して近衛文麿にブレーンになって、日中戦争泥沼化と天皇思想の過激化を演出して、英米に皇室制度を諸悪の元と思わせるよう、仕向けたと推定されるのである。

 ノーマンは後に、アメリカ政府にソ連のスパイの容疑を受け、自殺している。

 1968年に羽仁五郎が出版した「都市の論理」は、68年当時の全共闘学生のバイブルになり、現在の自民党リベラル、民主党の多くはこの羽仁五郎の影響を受けたにちがいない。

 

 平泉澄きよしの回顧録「悲劇縦走」によると、昭和7年11月、大阪府下の陸軍大演習に際して、その地の戦績について国史学者が天皇に進講する習わしだったという。

 この習わしたる天皇陛下へのご進講は、平泉澄きよしよりも以前の国史学者のそれは、当たらずさわらずの、NHK大河ドラマ の最後の史跡解説のようなものだったのである。

 だから、有馬良橘大将は、何の気なしに、習わしにしたがって、東大国史科の平泉澄きよしを推薦したにすぎなかった。

 ところが、この平泉澄きよしが、ドイツとフランスで革命哲学を研究してきた胸の一物を持つ、異様な人物だったのである。

 有馬良橘大将はまず荒木貞夫陸軍大将に平泉澄きよしを推薦した。

 この荒木貞夫がまた、日ロ戦争講和後に、将校になって、ロシア駐在武官としてロシアに長らく滞在したことから、むしろ、ロシアに親近感を持った親ロシア反米という異様な思想形成をした陸軍トップだった。

 後にこの親ロシア、反英米はの荒木貞夫大将と反ソ警戒のために満州事変を起こした石原莞爾は対立していく。

 

 こうして、有馬良橘大将が、意図なく、慣例にしたがって推薦した平泉澄きよしご進講は、皮肉にも天皇その人よりも、むしろ、そばで聞いていた木戸幸一ら、宮中側近を感激舞い上がらせる。その内容は、後醍醐天皇楠木正成の話で、「天皇親政」革命の物語に他ならない。そして、木戸幸一もまた、近衛文麿とともに、京都大学のごりごりのマルクス主義者で資本論の翻訳者、河上肇に心酔した親共産主義思想の宮中人なのである。

 

 この時期に平泉澄きよしは小畑敏四郎と知遇を得、この小畑が阿南惟幾大佐に平泉澄きよしを引き合わせる。阿南惟幾大佐の陸軍人脈はそのまま、平泉澄きよしによって狂信的皇国思想信者でもあり、陸軍最高指導部層を形成して、終戦の日を迎えるのである。

 

 それは、ヒトラードイツが民衆ファシズムとは言ってもナチス最高指導部こそ、純度の高いヒトラー思想狂信指導者であったと同様の狂信集団が陸軍に形作られていたことを意味する。荒木貞夫という親ロシア反英米路線が、反資本主義反英米の革命をふとこった平泉澄きよしによって、宮中の木戸幸一ら、陸軍の阿南惟幾大佐グループらの有能将校を席巻していき、そうした状況を醸成したのもまた、近衛・木戸・風見章という河上肇の直接・間接の弟子たちだった。

 

 小畑敏四郎も陸軍大学校幹事。東條英機陸軍大学校幹事時代にそれぞれ平泉澄きよしを陸軍大学に招き入れてやまなかった。

 こうした背景のもと、昭和8年1月に小畑が近衛文麿を紹介。

 その年、2月に近衛が平泉澄きよしを近衛の自宅に招き、二時間半にわたって懇談。さらに、木戸幸一、近衛が二人で平泉澄きよしと四時間におよぶ懇談を持つ、という過程をへて、近衛は日本社会を天皇狂信社会へ持っていく算段を固めたと思われる。

 

 というのは、この平泉澄きよし、近衛、木戸、小畑、荒木貞夫の画策のない皇室は、ただ英国皇室に似た政治的位置づけに似た性格の皇室になるしかないもののはずであったが、異様なる皇国思想の膨化を企図したグループが出現した。近衛の陸軍、宮中における仕掛けがこれであり、一方世論と言論界の仕掛けが尾崎秀実に担われ、政界工作は、風見章という元マルクス主義解説記事執筆者の政治家によって担われた。

 こうして、反ロシアは失せて、反英米でなおかつ日本資本主義解体を最終目標とする計画(陸軍はのせられた側で、海軍ものみこまれていく)が進められたと推定される。

 

 この木戸、近衛、平泉澄きよしの三者が4時間の懇談をした時点で、近衛は、貴族院副議長、数えで41歳、木戸は内大臣秘書官長43歳、平泉澄きよし東大助教授39歳だった。

 

 木戸幸一日記によると、この時平泉澄きよしが話した内容は、明治維新天皇親政になろうとしてなりきれなかったから、昭和維新は、天皇親政を実現するべきだというのである。

 これは、実は、当時のマルクス主義講座派と羽仁五郎が、「明治維新ブルジョワ民主主義革命の不発版だったから、日本の共産主義者は、明治維新のやり残したブルジョワ民主主義革命を実行してし遂げなければならぬ、という理論を逆さまにしたものである。

 

 もちろん、実際には、どちらもおかしいので、皇室は次第次第に、暫時、穏便なものになっていくはずのものだし、民主主義もまた、ゆっくりと暫時、民主化が進行するべきもので、「天皇親政維新(革命)」も「ブルジョア民主主義(暴力暴動)革命も必要ないのである。いずれにしても、「現状の強力否定」を宣言したのが、共産主義講座派と近衛・木戸平泉澄の三者会談だった。

 

 この現状否定とは、象徴的には、ワシントン海軍条約におけるような、英米との妥協話し合いと英米との穏便な貿易によって支えられている日本国内の財閥と腐敗政治の体制を英米と衝突することによって、全面破壊せよ、という事を意味していたのである。

 

 これが、ソ連にとっては高見の見物の状況であったことは言うまでも無い。

 この平泉澄きよしの構想は、後醍醐天皇に似ない昭和天皇を嫌悪するという地点に陸軍最上層参謀本部内の中堅将校を洗脳することになった。

 

 8月15日の時点で軍務局軍事課はほとんどが平泉澄きよしの心酔者で、特段平泉澄に心酔しているわけではないが、亡国の危機を憂えた愛国軍人というタイプの人物はほとんどいない、という状況にまで至っていた。

 

 彼らは「側近の屈服和平派要人を保護(逮捕)禁足し、大臣の上奏(天皇への事後報告)によって目的を完遂(本土決戦に進む)しようと計画」を立てた。

 

 竹下中佐は、思い詰めて考えあぐねて、わざわざ平泉澄きよし博士を陸軍省に招いて、(それほど、いちいち、国史学者に軍人のクーデター計画を「やるべきですよね?」と念押しするくらいに依存していたというのが事実。

 

 竹下中佐は、降伏するな、本土決戦せよ、と激励してくれるものと期待して平泉澄きよしと陸軍省内で対面したが、平泉澄きよしは、「固く握りしめた手をぶるぶると震わせながら最後まで一言も発しなかった。」

 まことに日本人の悪いところが現れているではないか。

 まともに、論理立てて、抗弁するのではなく、平泉澄きよしは、このとき、一切、口を開かず、ただ黙っていた。

 竹下中佐はこの当時のことを「(沈黙は)反対の意思表示に他ならなかったが、なぜ反対なら反対とはっきり意思表示しないのか、不可解だった」と書いている。

 

 しかし、一国史学者を軍事クーデター計画の激励追認をしてほしいと呼ぶ軍人も軍人ではないか。

 

 平泉澄きよしがなぜこのときクーデター計画を激励して本土決戦しようといわなかったか、謎というしかない。

 事敗戦必至の状況で平泉澄きよしが本土決戦の首謀者のひとりにあからさまに加われば、米軍に責任を問われて処刑されるんが、嫌だったのか、さまざまな可能性がありすぎるし、忖度してもしかたがない。要するに重要なことは、これほどまでに平泉澄きよしの思想が陸軍中枢に食い込んでいたということだ。

 

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