立花隆 「天皇と東大」を読む 第7の書 風見章という男

立花隆 「天皇と東大」を読む 第7の書 風見章という男

 

 立花隆 著「天皇と東大」記載の事実によると、第一次近衛内閣の書記官長(官房長官格)の戦後に書いた回想録「近衛内閣」は次のように書く。

 

 「政友会の中島知久平鉄道相と、民政党の永井柳太郎逓信相の二人が、(中国をこの際、徹底的にやっつけたらどうかと発言した」

 「陸軍が対中国強硬論を説いてあおり立てたので近衛と風見は心配していた」

 という主旨のことを書いている。

 

 だが、風見章はすっとぼけて、素知らぬ顔のほっかむりで回想してみせているだけで、風見章は、仲間の尾崎秀実が盛んに対中国強硬策を煽り立てているからこそ、内務大臣から中国強硬策が出てきていることを知っていたし、陸軍にたいしては、風見の盟友、近衛文麿が、狂気かわざとか不明の常軌を逸した戦闘的皇国論を陸軍将校に対してふりまくよう、セッティングを完了していたことを知っていたはずなのである。

 

 近衛内閣とは、牛場友彦首相秘書官、風見章書記官長、内閣嘱託記者(特定の新聞社、特定の新聞記者個人を首相執務室にほぼ出入り自由にするという異様な立場)朝日新聞記者にして、論壇雑誌中央公論などの常連執筆者、尾崎秀実、そして三木清などのマルクス主義哲学者などを含む昭和研究会という共産主義オールスターキャストであった。

 これに宮中側近グループで、近衛の親友、木戸幸一もまた、京都大学河上肇に私淑する親共産主義仲間であった。

 

 首相秘書官牛場友彦のラインでは、牛場が設立した「東京政治経済研究所」の主要メンバーが蝋山政道、松本重治らで、彼らは公家出身の共産主義も露わな西園寺公一(きんかず)とツーカーの親ソ仲間だった。

 

 近衛、木戸両<親共産主義者>に平泉澄きよしを会わせたのが、陸軍大臣小畑敏四郎少将であるが、小畑にそう深い意図があって、近衛と平泉澄きよしを会わせたわけではないと思われる。

 尾崎秀実を近衛と風見両親共産主義者に引き合わせて、尾崎を内閣嘱託という地位にしてスパイ行為をしやすくしてあげたのは、牛場友彦秘書官長にほかならない。

 牛場と尾崎は太平洋問題調査会を通して、親ソ反英米政策を進めるべく、相談したと思われる。万国の貧困労働者の幸せを願って、日本財閥、アメリカ財閥の衝突を願って、である。

 

 近衛のもう一つのブレーン組織で、1936年に作られた昭和研究会のメンバーの素性は次のようなものである。

 蝋山政道は、イギリス社会主義の研究者

 高橋亀吉は雑誌「マルクス主義」「前衛」「社会主義研究」などの常連執筆者

 笠信太郎は、ソ連の5カ年計画に真似た計画経済型社会の理論的支柱

 三木清は元共産党員の哲学者

 などで、のきなみ親ソ親共産主義なのである。

 

 戦後、朝日新聞は、戦後に朝日の取締役になった笠信太郎が、なんのことはない、近衛首相ともども、まずなによりも、ソ連派だったのであり、「民主主義者」とか「平和主義」というわけのものではなく、オール親ソ連、反アメリカは戦前から戦後の朝日新聞まで一貫しているという事実にできるだけ日本人が気づかぬよう、朝日の記事には、日本軍国主義の悪なるものをのせて、昭和研究会の存在や「当時の日本知識人のオール計画経済志向、ソ連計画経済好みの状況を話題から避けてきた。

 

 なぜ避けてきたか。

 「戦争」という父を殺し、兄を殺し、母を空襲で殺す戦争、母を路頭に迷わし、子供は飢えに苦渋をなめる戦争を、革命のために推し進めたのが、他ならない親ソ親共産主義の良心的な趣の学者たちで、それらの学者たちが、社会党共産党の理論的支柱であるというありさまに気づく事を恐れたからである。

 

 これでは、戦後、「ジャーナリズムは政府に疑問を呈するのが存在理由」といううまいアイディアを思いついても、親ソの良心的学者たちが、戦争推進内閣のブレーンで、陸軍が穏健な内閣を押し切ったのではなく、陸軍をたきつけたのが、近衛のお膝元の朝日新聞記者の煽り立てによって陸軍が強硬化したのだという事を知られれば、「平和」主義そのものが揺らいでしまうからである。

 

 そこで、近衛は「貴族の誇りで自死したのだ」というイメージが、共産主義の巣窟、岩波書店の新書、書籍から語られる。

 では、なぜ近衛は、近衛上奏文で「軍部、官僚コミュニストの日本破壊計画がシナ事変泥沼化の意図で、これにしてやられた」と書いたのか。

 

 「昭和研究会」「東京政治経済研究所」そして、私、風見章もまた戦争を敗戦革命のために仕向けた張本人・・・とばれないため、そこに書かれなかった人々が戦後、平和主義者、軍人にやむを得ず敗北を強いられた良識派として、戦後の革新陣営に復活できるようにするためである。

 戦後、風見章は、何食わぬ顔で社会党顧問の平和主義者として、「反台湾反蒋介石」を表明し、「中国への日本侵略の反省」を表明した。

 しかし、風見本人は内閣書記官長として、当時日本がどこと戦って、どことは戦っていなかったかをよく知っていた。

 台湾の蒋介石国民党がシナ大陸にいて最も大きな勢力を持っていたときに、その蒋介石を屈服させるために、蒋介石国民党兵士と日本兵は、風見章、近衛、尾崎ら戦わせられていたのであって、生活者、シナ人でもなければ、中国共産党でもなかった。

 

 風見は救った相手が中国の最高権力に就いてから、謝罪してみせた。

 侵略してもうしわけありません、と。だが、この謝罪は大芝居なのである。

 シナ事変当時、中国の民衆は共産党政権を肯定する共産党政権下の民衆ではなく、軍閥割拠の藤一政府なき地方ごとにばらばらの生活民衆と正当な手続きなしに、国民党や共産党、その他の軍閥の地域支配者に政治資金を半強制的に徴収されていただけの状態にすぎない。

 その状況下で日本は、軍閥張作霖と戦い、国民党と戦ったりはしたが、民衆と戦いはしなかった。

 これは、日本がアメリカのような焼夷弾空襲を住宅密集地域に行わなかったことを考えればわかろう。

 戦後進歩主義知識人の多くは、中国に日本が侵略した事への贖罪意識を協調して謝罪しようと言うが、謝罪相手は中国教案党政権であり、中国共産党政権は抗日戦争の主役を自己主張する。だが、日本は中国八郎軍ともシナ民衆とも戦っていないのが事実である。

 戦った相手は、蒋介石国民党とであって、謝罪するとすれば、蒋介石国民党政権に対してであろう。申し訳ない、わが日本が親ソ派優位になったために、中国国民党による安定政権化を破壊して、最終的にシナから台湾に逃れるような目に会わせて、と。

 

 ただし、実際はシナ民衆にとって、蒋介石国民党兵士も共産党兵士も実にしつけの悪いけだもの、ならず者集団だったから、日本は、本来謝罪しようにも、日本の謝罪で喜ぶ民衆は、共産党に洗脳されたか、国民党に洗脳された人々だけである。

 

 その証拠に、国民党に洗脳されない台湾人は、日本統治時代を懐かしがる。 

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