「民進党の源流」 2

民進党の源流」の文章の続き

 日本左翼・革新勢力の成り立ち

 

 前回は平野義太郎が戦後、担った平和運動の意味を書いたが、林房雄は、「大東亜戦争肯定論」を1963年から、中央公論に連載し始めた。

 

 「大東亜戦争肯定論は、一般的に林房雄が、平和主義の共産主義に決別して、戦争という絶対悪を肯定するとんでもない主張に至った、保守反動の悪書とされ、その「大東亜戦争」は、15年戦争のことで、林房雄侵略戦争である「15年戦争」(アジア・太平洋戦争)を肯定したのだ、とされる。」

 

 出版当時、進歩的文化人、左翼側からする林房雄批判がこの解釈にたって、悲惨な戦争を正当化するなんてとんでもない、あの戦争は中国への侵略であり、その侵略暴走を民主主義に先んじたアメリカに制裁されたのだ、と批判した。

 

 ところが、これ、とぼけた猿芝居か、阿呆同士の喧嘩なのである。

 

 保坂正康、池田信夫などは、「大東亜戦争肯定論」すなわち、英米に対して日本にも戦争の正当性、言い分はあるという主張として、もっとも優れているとする。

 

 茶番である。

 

 林房雄大東亜戦争肯定論は、平和主義の日本共産党日本社会党に反するのが、特徴なのではない。もともと平和主義なのではない、マルクス・レーニン主義帝国主義列強の植民地支配否定、これそのものである。平和主義という戦後日本型の通俗左翼平和主義から、左翼の原点たる「欧米列強のアジア支配」批判の原点に返った左翼本なのである。

 

 これがなぜ、一般的には革新勢力社会党共産党のブレーンの知識人に嫌われたかというと、ソ連、中国の安全保障に寄与する日本の平和運動が、やっているうちに庶民受けして味を占めて、絶対平和党のことを共産党社会党というかのようなめちゃくちゃひどい、病的錯覚に陥ってしまったからである。

 

 この絶対平和観念は、日清、日露、朝鮮戦争ベトナム戦争、中国。ベトナム戦争のそれぞれの原因、意味などどうでもよくなり、日本の関わった戦争は全部侵略と解する強い傾向を生むもとになった。

 

 一方、日本共産党は元来、双面のヤヌスのごとき戦争論を抱えている。

 ひとつは、日本を憎悪するソ連の視点を取り入れた場合の、日清、日露その他すべては、日本の侵略という説明である。

 そしてもうひとつが、ソ連が冷戦以後、アメリカ軍事力を憎悪した場合のアメリカ建国以来のアジア太平洋侵略という視点を取り入れた場合には、上記の見方が一気にオセロゲームように、反転して、すべての日本の戦争は英米アジア侵略への抵抗戦争ということになる。

 

 なんのことはない、どちらも一面の真実であり、その真実の由来は、ロシアマルクス主義帝国主義批判から来ていることに変わりはない。

 米国との協調を主張する知識人とそれを支持する国民を愚民、ポチ、ジャパ公と罵倒する小林よしのり西部邁西尾幹二新右翼一水会、馬淵睦夫らが時に左翼と解される場合があるのは、反米国際金融資本、グローバリズム批判が元々レーニンソ連のアメリカ批判と基本的に同じ論理構造を持っているからである。

 

 以上の論拠の参考となる資料が、戦後平和運動の旗手、平野義太郎の戦前コミュストとしての米英観である。

 ※ 日本共産党は戦後平和運動の旗手、平野義太郎を、戦時中も節を曲げることが無かった、とする。

以下の文を立花隆は、戦争日本への迎合だと勘違いして解釈している。

 そうではない。これは、戦争日本への迎合ではなく、ソ連帝国主義アメリカに対する憎悪を暗に、代弁しているのである。

 平山義太郎の昭和19年「民族政治の基本問題」

 「大東亜戦争の戦争目的は、第一にわが帝国の自存自衛のためであり、第二に東亜の安定を確保することであり、そして究竟において世界各国がそのところを得、相寄り相扶けて、万邦共栄の楽をともにせんとするに在る。

 米英のかくのごとき道義に反する所行に対しては、断固としてこれを懲らしめ、これを反省せしめて、大東亜もまた、敵米英も、各々本来あるべき所に立ち戻らせることが道義の要請であって、大東亜戦争こそ、正にこのための東洋道義の戦なのであり、又、大東亜をして米英植民地隷属から解放せしめなばやまぬ独立戦争なのである。

 

 林房雄の「大東亜戦争肯定論」も平野の「民族政治の基本問題」も、反平和、反人類の侵略肯定思想だと考えるのは、中国、ソ連北朝鮮は被害者で、日本民族、日本支配層の侵略性という悪性の意思は、中国、朝鮮との連帯しての平和運動で対抗するしかない、という逆立ちした世界観が、共産主義者林房雄と平野の文章の真意を見抜く事を困難にさせているのである。

 

 既得権を手放すまいとする層があるとすれば、既成秩序を転覆して新たな、そして強力な支配体制を作ろうとする試みが、民族解放を偽装した共産主義侵略者の常套手段であった。

 

 

 この平山のソ連共産党米帝国主義憎悪の代弁論を1963年になって、再度変奏したのが、林房雄大東亜戦争肯定論」である。

 韓国の悲劇は「被害者史観」という過てる歴史観にはまり込んで抜け出せないことだが、日本にも深い悲劇がある。

 日本人もまた、一定の正しい自国の歴史を持っていない。それどころか、あまりにも、まことしやかな歴史観が、四つも五つも併存して、収束もままならないのが、日本人の歴史なのだ。

 1.侵略は明治維新以来

 2.侵略は日露戦争を含めず、それ以後

 3.大東亜戦争とは、アジア・太平洋地域への侵略の過程だから、満州事変を起点とする「14年戦争」または「アジア・太平洋戦争」と呼称すべき

 4.大東亜戦争は、ペリー以来の日本侵略と英国フランスなどの列強本意の植民地帝国の過酷な平和への異議申し立ての戦争。

 5.満州事変は日清日露の枠内に含まれるロシア南下防御戦争であり、日中戦争から、対英米戦争までが、大東亜戦争で、ソ連満州樺太、朝鮮侵攻は、共産主義覇権国家の侵略。

 と、以上の異なる解釈に接しては、新参の日本の歴史考察に赴くものとして、頭がおかしくなる思いをしないでいられようか。

 

 この日本人の歴史観の悲劇は、敗戦がもたらしたものではない。

 なぜなら、戦前戦中の東京大学の中には、マルクス主義経済学国家社会主義計画経済の学の二つが主流だったのであり、日本の思想混迷は、敗戦前から継続しているのである。

 

 

 

 

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