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反米保守、反国際金融資本思想は、必然的に反米左翼と合体する

アメリカの建国は1776年の独立宣言ではなく、1787年9月の憲法制定

1788年11邦憲法批准

1789年「米国」統一国家誕生

 

独立の思想と憲法の思想はまったく違うもの。

憲法の思想、意図に着目しなければ米国の深層は理解できない。

アレグザンダ・ハミルトンという一人の天才政治思想家が書いた米国憲法

 

過去の相続を根幹とする「国体」設計

すなわち、自由の擁護

 

バークとハミルトンの共通点は「国民の美徳ある自由」の擁護

相違点

  • バークは「国民主権」「人民主権」「平等」「人権」「国家権力の肥大化」「デモクラシー」を危険視した。
  • ハミルトンは「デモクラシーをアナーキーの元として、中央政府権力機構を追求した。

ハミルトンが中央政府によって抑制しようとしたものは、「内戦」「国内対立」「外国からの干渉」

「個人の生命、財産、自由の価値を重要視するゆえの国家秩序」

 

フェデラリスト

第16篇が言うのは、「内戦」を防止するためには、邦と邦の間の戦争への憂い

 

 人々を法の枠内に抑えつけることなしに自由は保証できない。

 過剰な権力でもいけないが、かといって権力が欠乏してもいけない。

 

 イコール「共和主義」

 

 デモクラシーとはなにか。

  • 民衆参加
  • 民衆主導
  • いわゆる市民参加、市民主導

実際には、これは道徳の遺棄、道徳の無い自由につながる

 

自由社会とは、道徳ある自由の存続する社会のことであり、これが存続しているということは、統治機構が働いていることを意味する。

 

 自由市場→産業の発展→デモクラシーの進展→民衆参加不可避→衆愚政治のリスク増大

 

 そこで、議会(立法部)(民衆の代表)の暴走を阻止する防波堤を周到に用意した。

 

 日本では、権力を制限する憲法を「政府の暴走を制限する」と理解され、激しく強調されているが、実は、(フェデラリスト福村出版378ページ)議会の立法権に対しての制限(事後法の禁止)は忘れられている。

 

 司法の「違憲立法審査権」はまさに、議会に対する制限であって、政府に対する制限ではない。つまり、民衆の代表の権力を制限している。

 

 けっして国民にすべての権力があるわけではなく、まさに、司法によって、監視、制限されている。

 さらに、大統領に拒否権を与えることによって「国民の権利」に制限を加えている。ここで怪しまれ、制限されているものこそ、まさに「国民の主権の絶対性」なのである。

 

 これと対蹠的なのがフランス革命憲法の「議会権力の肥大性、無制限性」

 したがって、「国民主権」の語を言う者が、「国民の権利を制限しようという意志があるか否かは非常に重要。国民の権利を制限する措置なくして、道徳ある自由が存続できない。

 

 なぜなら、「制限なき国民の権利」とは、犯罪者の自由、暴徒の自由を含むからである。

 

 「違憲立法審査権」とは、米国憲法が皓歯であることは、非常に重要。

 「違憲立法審査権」「大統領拒否権」こそ、米国建国の基本思想が「国民主権」{国民絶対権力)否定に貫かれている証拠。

 

 「国民主権」を言うものは、「法主権」を忘れがち。

 なぜか。実は明治憲法もまた、「法主権」であって、「天皇主権」ではなかった。これを「天皇主権」を否定したいために、「国民主権」を強調するとき、忘れ去られるものは、「国民主権」の危険性と「国民主権」よりも大事な「法主権」なのである。

 

 「法主権」「憲法主権」の言葉がまったく脳裏にない日本国民。

 

 反米思想、反国際金融資本、アメリカ国家の侵略性を強調する視点の大きな陥穽は、この米国憲法の反全体主義、反「国民主権」の精緻さへの視覚が奪われてしまうところにある。

 

 草の根民主主義なる言葉の流行が日本人の頭にしみついて離れなくなり、「国民主権」の思想への懐疑を雲散霧消させてしまった。

 

 コモン・ローとは、英国の「制定法」の上位法としての慣習法

 

 このコモン・ローと同じ機能を成文法である米国憲法にもたせようとした。

 コモン・ロー化とそこからくる「違憲立法審査権」(司法優位)

 ただし、司法が議会よりも優位と明文化しない。理由は、コモン・ローとして自明だから。

 

 ※したがって、国民主権だから、国民が自由に変えられる、というものではない。

 

 「日本国民の総意による」とは、かねてより疑問視されているところではあるが、「総意」どころか、「過半数」とか「三分の二」の意志さえ確認されていない。ただし、これをウソとはいえない。「日本国民の総意による」「修飾語」なのである。

 

 米国憲法もまた、「国民投票」など抜きに十一邦が合意したことだけを持って制定しているが、「we,the people」われら国民は、としている。

 

 米国の男性普通選挙は1830年代。つまり、草の根民主主義を米国は建国理念として採用していない。

 

 市民とは、「何々国市民」であって、日本のように、「世界市民」という含意を強調する「市民」は通用しない。

 

 立憲的な貴族権力とデモクラシー権力・・・つまり、貴族院と選挙、憲法の存在が背景にあるという意味。

 

 このような場合の君主制とそうでない君主制は、大きく相違しており、たとえば、オランダは、君主がいても、「共和国」に分類すべき、とマディソンは主張した。

 この考え方からすると、当然、大日本国憲法も「共和国」ではないか、という考察もあってよさそうなものだが、いったんコミンテルンの32年テーゼの影響をかぶった日本人は、何がなんでも君主を無くする理念にのめりこんだ。

 

 米国の「共和制」「共和党」とは、「反君主」「反封建君主」という意味ではなく、(そう信じられているが)「反絶対民主権力」という意味の「共和制」である。つまり、「大衆多数決を価値と見る考えに対抗する「少数エリートによる合議重視」の「共和制国体」である。「君主を排除した共和制」という意味ではない。だからこそ、オランダの「君主にいる国体」を「法と貴族が君主の権力を制限しているから」共和制だとマディソンは言ったのである。

 

 その点、明治憲法下の天皇もまた、貴族院、元老、憲法に権力を制限されていた。

 

 大東亜戦争敗戦後、日本は米国が日本の国体を変更するのではないか、と恐れたがそこに「米国の建国の根本理念に君主否定思想が含まれているのではないか」という誤解があったことは間違いあるまい。

 しかし、実際は、米国の知識層の(非マルクス主義者)にとって日本の欠陥は、憲法の不備と議会の暴走ではあっても、君主の存在悪ではなかった。

 

 すなわち、明治憲法には、違憲立法審査権がなかったのである。

 多くの日本人は、米国は民主主義の先進国だから、さぞかし、君主の存在を遅れた、廃止すべきあるまじき存在と考えているであろうと勘違いして恐れたのである。

 

 だが、もともと、米国の国民はいざしらず、米国の憲法の精神を理解している知識層が問題にしているのは、君主の存在の危険性ではなく、むしろ、君主による拒否権の機能しない大権という矛盾した規定が通用する法支配の不全な国体というべきだったろう。

 

 アメリカであれば、大統領が拒否権を行使すれば、(国民の代表者たる)議会の立法は無効化するが、なんと日本の天皇は「大権」「統帥権」と言いながら、実際には「拒否権」を遂行しえなかったのである。かといって、司法権が優位でもなかった。つまり、大東亜戦争とは、天皇の拒否も司法権の掣肘も発動しない議会(議会)と行政府の暴走だったということができる。

 

 これが見落とされて、戦後共産党シンパの知識人のヘゲモニーのもと、「天皇の戦争責任」と検討違いな指摘が横行することになった

 

 君主主権を否定した進歩の過程に現われた「人民主権」「国民主権憲法が米国憲法・・・と言う理解は間違いである。

 民衆が主人公。国民が主人公であるという理想に基づく憲法であるというのも、間違いである。

「人権」の尊重という理念に基づくというのは間違いである。

「平等」社会を理想としているというのは、間違いである。

 

 

 「人民主権」「国民主権」の危険性を意識し、人民、国民の権力の暴走を抑える仕組みを施した憲法である。

 「人権」ではなく、「国籍」重視を基本としている。

 「平等」を否定している。

 

 斉藤真の「アメリカ革命史研究」の「連邦憲法の下で、主権者が人民であることを前提としつつ」というのは、まったくの間違い。

「人民」ではなく、アメリカ国籍を前提とした国民であり、主権者はアメリカ憲法にはない。あるのは、対外的な国家主権のみ。

 「国民の権利」はあるが、「国民の主権」はない。

 

 保守主義には、「現状を肯定する」「現状の多数派を支持する」という意味で受けとめられている。

 

 しかし、政治学上の保守主義という「政治思想」は、「美徳に満ちる自由社会」「道徳性を向上する自由社会」を創造するという意味である。美徳には、自分の運命の責任者になるということ、他者に迷惑をかけないということを含む。

 

 「政策の倫理性・道徳的正しさ」が重要で、「政治家の倫理性」はさほど問題にならない。

 

 したがって、宗教の自由は擁護される。宗教は道徳の源泉だからである。

 「不平等はまさしく自由があるから、不可避的に発生する。」ハミルトン

 

 努力する自由も、努力しない自由もあるのが、自由社会であり、全体主義社会に、何かを選んで努力する自由も、努力しない自由もないからだ。

 

 ただしこの米国の「保守思想」の「連邦派」フェデラリッツ党は、デモクラシー派の当時の名称「共和党」に政権が移るや、1981年まで保守は政権から離れた。

 

 「私有財産制が、財産を所有している人々のみでなく、財産を所有していない人々にも、自由に対して最も重要な保障を与えている。」

                ハイエク「隷従への道」

 

 「法治主義」「法治国家」の意味とは。

 制定した法律によって動く社会のこと。

 法秩序が社会秩序を支えること。

 正当な制定手続きによって定められた法を遵守する社会。

(ケルゼンの人定法主義。(正当な手続きによって定められた法は正当)

 「法の支配」とは、

 この場合の「法」とは、「制定法」のことではなく、「慣習法」のこと。

 伊藤正美著1950年「英米法における法の支配」が、「法の支配」のまっとうな解説書。

 

 「法の支配」のある「法治国家」と、「法の支配」なき、「法治国家」がある。

 

 上位法に支配された下位法という法体系がある社会という意味ではなく、

 「慣習法」に支配された制定法

 あるいは「自然法」に支配制約された制定法  ×「自然法は間違い。

 (正しくは、「祖先の叡智として発見される価値」に照らして判定される制定法)

 主権者は「国民」でも「君主」でもなく、「法」であり、その場合の「法」とは、制定法のことではなくて、「慣習と道徳」の下位に憲法も、「国民」も「君主」もある、ということ。

 

 できれば、慣習法を取り入れた憲法が制定法を制約するのが良いが、日本国憲法の場合は、慣習法を取り入れた憲法とはいえない。

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