シナ革命戦争史
殷王朝の属国、周の姫昌がチベット系の知識人太公望呂尚を用いて国力を充実させて、その子、姫発初代武王が殷を滅ぼして、周王朝を樹立。
占いによる統治の時代。
主殺しとして、伯夷兄弟は周の粟は食べない、とワラビばかり食べて餓死する。
孔子はこれをほめた。
この時、封建制度が生まれる。
周は前256年に滅亡。
チベット・ウィグル系異民族によって王が殺害される。
正室を廃して、側室に狂ったので、正室の父に裏切られて、異民族が侵攻。
元太子を立てて、東周を樹立。
殷の紂王は妲己だっきにおぼれ、
周の最後の王は「褒じ」という側室におぼれる。
江南には、楚があった。
周時代の諸侯が独立して、「春秋戦国」時代となる。
「春秋」とは、「魯」の国の年代記の名称から。
春秋の覇者
第一号は、
前651年 斉せいの桓公
側近は鮑叔と管仲 管鮑の交わりの語源
管仲死後、ごますり三人組の権力闘争がはじまり、斉せいは衰退。
晋が台頭。
秦が台頭。晋、秦二大国。
楚と呉が台頭
呉対楚
呉の闔閭こうりょ 息子 夫差ふさ
伍子胥 楚の平王から血父、兄等一族皆殺しにされて追放された者
後に呉の将軍として楚を破った後、平王の墓をあばいて骸を鞭でうたせたが、その後、後悔して、「日暮れて道遠し。」(齢を重ねても思慮が足りないしがない愚者であった」と述べる。
呉を楚の攻略に導くが、伍子胥とともに、越への侵攻に反対して、呉の夫差に追放される。
※楚の都を占領したものの、楚の昭王は逃げ延びて、越国に呉を攻めるよう、依頼する。越に攻撃された呉は、越との戦争を決意するが、孫武、伍子胥のふたりは、楚との戦いで疲弊しているから、和議するべきと進言。しかし、呉王の闔閭はこの案を拒絶して、越の勾践と激突して、戦死する。
孫武、伍子胥のふたりとも、呉の国の中では、他国生まれの将軍で、常に生粋の呉人からは疑いの目で見られていた。これ、在日帰化人の官僚が日韓交渉、日朝交渉をする場合と同じ。
孫武が去る直前、呉の闔閭は、越の句践率いる軍との交戦中に戦死する。
呉の夫差は、臥薪して、越への復讐を誓う。
呉の夫差は、父を殺されて二年後、越を撃破。
句践は呉の地で命請いの末、奴隷扱いされるが嘗胆して、巻き返しを決意。
越の美女西施が夫差の側室になる。
越の范蠡はんれい、文種ぶんしょうなどの賢臣が句践を支える。
呉への服従を装う越の句践、ぶんしょう等にだまされなかったのは、わずかに呉の伍子胥だったが、越の句践は、呉の支配下にある越軍だと夫差に信用させて、一気に呉を滅ぼす。句践が呉に囚われて奴隷になってから、21年後だった。
前494年句践、敗北
前473年句践、呉を滅ぼす
少し以上の状況を言うと、
この楚に対して呉の闔閭が孫武、伍子胥、夫差、ふがいを従えて攻め込む。
越が呉の闔閭を殺害
二年後、
呉が越の句践を捕虜にする。
越が呉を滅ぼす。夫差は自害
(中原の晋と南の楚は休戦協定)
これを統一したのが、紀元前221年秦の始皇帝
統一の過程で、秦は楚の王朝を滅ぼす。その残党が、楚の項家一族で、秦朝打倒を目指す。
ちょうど、日本における在日朝鮮人が日本の皇室を滅亡させようと意思しているが如くである。
ところが、皮肉なことに、項一族は秦朝の打倒へ邁進するのだが、内部抗争の中で、項羽配下の劉邦に信望が集まり、項羽ら、楚復興の悲願に燃える者たちは、遂に敗北し、劉邦が、秦滅亡後の漢王朝の始祖となって、楚王朝の復興はついえるのである。
「魯」では、前551年、孔子が生まれる。
孔子が宰相になったことはなく、学派を率いただけ。
老子、孔子、墨子、商鞅、孟子、荘子、、韓非子、荀子の順に生まれている。
この間、礼と音楽の儒家が浸透する。兼愛、非攻、節倹の墨家は少数派になる。(墨守)の語源。
韓非子は前233年死去、荀子は前235年死去。こういう時代に、前221年始皇帝が統一シナを建国。
秦の「政」という人物が、前246年に即位。
その3年後、始皇帝死去
李斯は長男を始皇帝の娘と結婚させて権力の近づいていたが、始皇帝が病死すると、宦官の趙高の謀略によって、謀反の嫌疑をかけられて一族が処刑されてしまう。
このころ、ローマとカルタゴの闘争の時代で、カエサル登場の百年前。
秦の始皇帝とは、13歳で即位して、呂不韋という大商人の後見を受けて育った。
呂不韋は、秦の始皇帝の実父を秦の王にするよう謀略した人物である。
秦の敵国であった趙に人質として拘束されていた秦の王の孫、子楚を見かけた呂不韋は、「奇貨居くべし」と、子楚を育ててから、子楚を土台に自分の地位を高める企てをする。
呂不韋は子楚に特に目をかけ、資金を与えて、広く交際させたうえで、秦の安国君の妻に、子楚を後継者にるよう、吹き込んで、面倒を見た子楚を秦の君主に育てあげるとともに、自分自身が13歳の子楚の後見人として権力を手中にする。
成人した子楚は王となり、その子が、政王となって、呂不韋を流刑し、遂に呂不韋は自殺に追い込まれる。
政王は始皇帝となって、15年後、50歳で病死する。
末子が後継者となるが、わずか三年後には、農民蜂起、陳勝、呉広の乱、項羽、劉邦の乱が重なり、項羽が首都を焼き払ったことによって滅亡する。
そうした秦崩壊の革命の中で、項羽は配下の劉邦との分裂抗争に敗れて楚の再興に失敗、亡びてしまう。
これを楚漢の戦いという。
復興を目指す楚の項羽と漢の劉邦の抗争であるが、当初、項羽は連戦連勝するも、最終的に項羽の側近が人望の厚い劉邦について、項羽の軍を包囲する。
この時、劉邦は項羽軍を包囲する漢軍に楚の歌を歌わせて、項羽に自分を包囲しているのが、楚の人間なのか、と絶望的な気分に陥る。
これが四面楚歌である。
また、劉邦の青年時代から劉邦を支援してきた郷土の先輩格、嘯何や、後輩、曽参、樊かいらが、強い絆で劉邦を支えた。
韓信は韓信のまたくぐりで有名な大志の前に、小事の屈辱には忍耐する器量の持ち主だったが、劉邦に仕えて劉邦を漢の高祖にまで押し上げた後、その能力を恐れられて、劉邦に処刑されてしまう。
この時、「狡兎死して走狗煮らる」と、自分は「敵を破ることには貢献したが、用済みになった途端、殺されるのだな」と自嘲する。
韓信を殺すように仕向けたのは、劉邦の妻、呂后りょこうの深謀遠慮だった。
この呂后の態度は、後に史書に記されて、唐の則天武后に対する批判勢力にとって、漢時代にも、でしゃばりな皇后がいたという引き合いにされた。
しかし、宦官、官僚の対立、抗争が激化する中、黄巾の乱が勃発。漢は統治力を劣化させ、董卓とその配下の(赤兎馬に乗った)呂布が台頭する。
こうした混乱した状勢に、宦官の孫養子の曹操、漢室の末裔、劉備、呉の孫堅、袁紹、袁術などによる三国志が幕をあける。
孫策は26歳で戦死する。
孫権の臣下が名将、周瑜であり、名参謀の魯粛。孫権は71歳まで生きた。
三国志演戯では、
曹操側の豪将軍、華雄を倒したのは、関羽だが、正史では、孫堅。
また、三国志演戯や派生物語では、劉備の腹心趙雲と曹操の配下の
夏侯 惇の娘、夏侯 軽衣がロミオとジュリエットのように、恋仲であったりする。
劉備は漢室の末裔を自称したので有名だが、真実かどうかは不明。
結局、劉備も、曹操も志半ばで病死し、息子の世代になって、曹操の配下の司馬氏がのっとってしまい、劉備の蜀は、諸葛孔明の病死以後は衰退し、司馬氏の魏に滅ぼされてしまう。
司馬氏は魏を廃して、「晋」を建国して、孫権の死後衰退した呉を滅ぼす。