戦前日本の治安維持法時代の実相

戦前戦中の日本の実相

 日本共産党ソ連の誤りは我々が以前から指摘していたことだった、などと言っているが、戦前日本共産党の武装闘争指令も、武装闘争をやめろという指令も、天皇制を打倒せよという指令も皆、他ならぬソ連が日本に指導したもので、それを鵜呑みしたのが日本共産党だった。

 その組織が現在に至るも続いているのが、日本共産党である。

 現在街頭で日本共産党員として演説している者たちは、皆、不破書記長の言葉の、内容も口調も酷似して、物真似大会みたいなのは、彼ら共産党民主集中制原則が、党中央の批判を許さない言論統制体質だからである。

 日本共産党や旧社会党系の民進党員、社民党員は、口を開けば「治安維持法」を非難するが、実態は、日本は世界各国の政治犯弾圧拷問に比べると、非常に温情のある対応を、日本の特別高等警察はしていた。

 小林多喜二の場合は、むしろ例外なのであるが、その例外について日本共産党は鬼の首でもとったように言い立てるのである。

 当時小林多喜二のような共産党員を自由に思う存分に活動させていたなら、日本は確実に、中国、北朝鮮ソ連エチオピアカンボジアのように、大地主、財閥一家を皆殺しにして計画経済社会になって、餓死者が多数出ていただろう。

 朴烈という在日朝鮮人なんて、辛淑玉姜尚中徐京植なんかとちがって、死ぬ覚悟を決めて、摂政宮に爆弾を投げつける計画を立てて捕まったが、日本の警察権力はやさしいもんだから、本人が共産主義はやめた、と申し出ただけで、無期懲役に変更した。

 しかも、実際は、絶対、刑務所から出してやらんぞなんていう無期懲役ではない。

 結局、実際は、看守がようかんを食べさせてあげたりというようなこともあり、敗戦後は、戦後の反マルクス主義者の田中清玄が身元引受人になって、在日朝鮮人の朴烈氏を刑務所から自由の身にして生活の面倒を見てあげた。

 朴烈氏は、辛淑玉姜尚中徐京植なんかとちがって、死ぬ覚悟のある義のある朝鮮人だったから、北朝鮮に行って、韓国との統一を説得する、と言って、田中清玄に礼をした後、北朝鮮に行ったのだが、処刑されてしまった。

 

 いま、日本で日本批判をしている辛淑玉姜尚中徐京植なんかも、朴烈氏のように命をかける覚悟があるなら、北朝鮮で処刑されたあとに、せめて韓国人、在日朝鮮人に覚醒を促すのに、役立とうけれども、現代はまったく朴烈氏のような偉大な必死の人物は絶えてなくなってしまった。

 皆、日本の大学に寄生して、高給を受け取って、日本社会の豊かな生活を享受しながら、いい気な言論活動をしているばかりである。

 戦前の治安維持法がいかにゆるかったか。

 たとえば以下のような例は枚挙にいとまない。

 小宮山新一は東大卒業で定年時は川崎の高津保健所所長だったが、小宮山は、青年の時、親に対して「革命運動をして、日本に社会主義革命を成功させれば、今のようなひどい不平等な世の中はなくなるんだ、みんながしあわせになるんだから」と言って、東大の学業を放擲して共産党の地下活動に入ったが、特高に検挙される。

 しかし、ちょうど同じ時期に病気になると、日本の特高はなんとやさしいことに、保釈してあげるのである。

 そして、千葉の思想犯の改心道場のような修養施設に行って、そこを通して、東大の復学を世話してもらう。

 なんのことはない、その後、東大小石川分院の助手、青森県の組合病院院長、東京中野の組合病院院長、そして定年を保健所所長として平凡に終えている。

 共産主義国ソ連、中国、北朝鮮ならたちまち政治犯収容所で処刑だろう。

 若月俊一は1971年にマグサイサイ賞を受賞した無医村医療に貢献した医師だが、若月俊一もまた、治安維持法逮捕された経験があるが、日本の治安維持法とは、ソ連、中国、北朝鮮政治犯収容所とちがって、けっして人生の終着所ではなかったのである。

 治安維持法で検挙された後は一年間目白署に拘留されたが、社会的に抹殺されるということもなく、1945年には早くも長野県佐久病院院長になっている。

 また、警察署拘置ではなく、刑務所の懲役になると、日本の場合、歴史書、宗教書をかなり豊富に読む事が可能だった。

 この条件が、日本共産党の幹部党員を刑務所懲役中に、マルクス主義はやはり間違っている、と考え直すきっかけにもなった。

 これなども、中国、北朝鮮、韓国の政治犯に悠長に仏教関係の書物や歴史書を読みたいからといって読ませるだろうか。

 日本の刑務所では、禅宗の老師に刑務所で講演をしてもらって、収容者に聞かせて人生を考えてもらうということもしていたのである。

 血盟団事件の被告、四元義隆と共産党委員長の田中清玄に向かって、玄峰老師は言ったという。

 「世の中をああしよう、こうしようという、あんたは自分自身がなんであるか、わかっていなさるか。」

「あんたはけったいな人やなあ。自分自身がなんであるかわからなくてどうして人のことがわかるんや。どうして世の中がいいか悪いか、わかるんや。どうして人の道がわかるんや。けったいな人やなあ。」

そもそも自由と平等は両立せんのじゃ。考えてもみよ。

 ゆっくりと書物を読むのも、自由だ。世界一周旅行するのも、アフリカの秘境に行くのも楽しい自由だが、みんな金がいる。

 その自由の希望を、平等の皆が皆、かなえてくれろと主張したら、どうなる。

 平等にな。そしたら、あんたの希望もわかるあんたの希望もわかる。みんな平等にかなえてあげたいから、近場でがまんしてくれ、とこうなるいだろ。

 そうじゃなくて、いや、おれはどうしても、パリにいきたいんだ、となったら、わかった、みんなに、金のかかる自由をかなえさせる、平等にな、だが、順番を待ってくれ、それは、平等省が決めるから、とこうなるだろう。

 国家が本当に公平に決められるか?だから、中国、北朝鮮みたいに、結局、党にべったりのものが、自由を満喫できるのや。

 それなら、運のいい奴、努力した奴、親がかしこく貯めたくれた者が自由を享受するほうがいいんじゃないのか、ということになるわな。

 と言って、白隠禅師全集を刑務所にさしいれてくれたという。

 こんな状況が、北朝鮮、韓国、中国、ソ連にありうるだろうか。

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