吉田清治と日本人の謝罪碑

吉田清治が韓国国立墓地に置いた「日本人の謝罪碑」の文言

「あなたは日本の侵略戦争のために徴用され強制連行されて強制労働の屈辱と苦難の中で家族を想い、望郷の念もむなしく貴い命を奪われました

 私は徴用と強制連行を実行指揮した日本人の一人として人道に反したその行為と精神を深く反省して謹んであなたに謝罪します。

 老齢の私は死後もあなたの霊の前に拝跪してあなたの許しを請い続けます 合掌」

元労務報告会徴用隊長 吉田清治

 ※通常、この場合、本名を記すはずだが、なんと吉田は本名の吉田雄兎を使用せず、吉田清治というペンネームを記している。

 

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この「日本人の謝罪碑」は韓国の忠清南道天安市の国立墓地「望郷の丘」に1983年12月15日に吉田清治の私費で建てられた。

吉田清治は、この碑を「元勞務報國會徴用隊長」の肩書きで建てた。

が、この「元勞務報國會徴用隊長」は虚偽の経歴で、軍人であったことはなかった。勞務報國會徴用隊長などという職位自体、日本に存在しない。

 徴用隊長などというものはない。

 この碑は正しくは「日本人の謝罪碑」で、文言に「慰安婦」も「従軍慰安婦」の文言もない。

 しかし、2017年5月13日付け産経新聞デジタル版は「慰安婦謝罪の碑」と紹介。一方、韓国の中央日報は、「日帝強制徴用謝罪碑」と説明した。

 この謝罪碑は、正確には、「強制労働の屈辱」とあることから、炭鉱、工場等における「労務徴用」のことを指しており、「慰安所慰安婦業」のことを対象にしているのではないことは明らかである。

 吉田清治は、一方で慰安婦強制連行を虚偽告白しながら、もう一方で朝鮮半島生まれの青年たちの出稼ぎ労働を「労務徴用」労働であったという虚偽を作り出して、自分はその労務徴用担当者だったから、謝罪しますというフィクションを述べ立てて碑にしたためた。

 そこで、慰安婦ナチスまがいの強制連行の狩り出しの張本人と男性労務徴用の「狩り出し」めいた強制連行の張本人が同一人物であるというはちゃめちゃな主張を行ったのが実態である。

 産経新聞の「慰安婦謝罪碑」は事実誤認であって、吉田清治は、「慰安婦連行本」と「朝鮮人男性労務徴用強制連行告白本」の二つを平行して、告白していた。そして、この謝罪碑は「朝鮮人男性を引き立てた事への謝罪」に関わるものである。

※、1963年時点で吉田清治週刊朝日公募に応募した手記「私の八月十五日」において、吉田東司名義で書いた下関での労務調達風景がそれ「朝鮮人男性労務徴用強制連行告白本」である。

1977年、吉田清治は1973年の千田夏光の「従軍慰安婦」を参考に、「朝鮮人慰安婦と日本人」を発表する。

 1982年、吉田清治はこの年に至って、「朝鮮人の奴隷狩りがあった」と「慰安婦」すなわち、女性も、男性の労務徴用もどちらも「奴隷狩り」であったと主張し始める。

事実は、労務徴用については、朝鮮半島男子青年については、徴用ではなく、出稼ぎであり、女性については性的風俗業業者の募集にかかる売春職業のひとつである。また、だまされた場合は、加害者は朝鮮人業者と朝鮮人の親であった。

ここで重要なのは、吉田清治とその共犯関係の朝日新聞は、慰安婦強制連行説とともに、朝鮮半島の青年出稼ぎ者の「奴隷狩り強制連行」のプロパガンダも同時に行っていたのだという事実である。

 その後、慰安婦問題が沸騰し、青年出稼ぎ労働者の「徴用」説が主張されていることがすっかり忘れ去られていた。が、実はこの「日本人の謝罪碑」には、しっかりと「強制労働の屈辱」と記されていたのであり、「女性の尊厳」などとは書いていないのである。

 1983年、吉田清治は「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」という表題の本を書いて、そこで「済州島慰安婦をトラックに無理矢理乗せて連れ去った」と描く。だが、一方で、「謝罪碑」では、「奴隷狩りによる男性の強制労働の謝罪」を行っていたのである。

 吉田清治の長男もまたこの謝罪碑の撤去意志を表明するにあたって、「慰安婦像をクレーン車で撤去したい」と述べて、謝罪碑が慰安婦への謝罪碑であるという錯覚に陥っている。

 実は吉田清治は、著作で「慰安婦強制連行」を、「謝罪碑」で「炭鉱、工場等労務男性の奴隷狩り説」をねつ造していたのである。

 この吉田清治のけったいなウソ、すなわち、私は男性の奴隷狩りも女性の奴隷狩りも両方やったというウソがあまりに突拍子もないゆえに、「強制労働」という文言は無意識に無視されることになった。

 そこで、韓国中央日報は次のように滑稽な説明をせざるを得なくなった。

 「日帝強制徴用謝罪碑」は、 日本による慰安婦の強制連行を謝罪するために吉田が建てた、と。

 この表現が正しいなら、慰安婦は「徴用」さrたということになるではないか。

 そうではなく、吉田清治は「慰安所慰安婦は奴隷狩り」した。「炭鉱、工場の男性労働の労働者も、奴隷狩りで連れて来た」と言ったのである。

 馬鹿馬鹿しいウソであはあるが。

 そうでなかったら、慰安婦について「労働」(謝罪碑の表現)というはずがない。

なんとも奇妙な事に、韓国では吉田清治の謝罪碑が真実だという主張があるが、これが真実だというなら、「慰安婦」は「労働」であり、「徴用」だということになってしまうのである。

 つまり、2017年になって、中国によって強力に主張されはじめた「性奴隷」と呼ぼうという主張と吉田清治の言う「労働」という表現があまりにかけ離れることになる。

 「強制労働の屈辱と苦難の中で家族を想い、望郷の念もむなしく貴い命を奪われました」とは、どう見ても過重労働における傷病死のイメージを喚起するのであって、到底、慰安婦を指すとは考えられない。慰安婦のことならば、かならずや、「女性としての尊厳を否定され」等の表現になり、「労働」と表現するはずがない。また、いくらなんでも、慰安所を当時の軍人が「徴用」されたものと言われて信じるはずもない。

 青線、赤線の延長上のもので、「徴用」であるはずがなかったのである。

 中央日報もまた誤解しているが、吉田清治の建てた「日本人の謝罪碑」は、韓国人のもうひとつの主張である「戦時日本の炭鉱、その他重労働施設における朝鮮人青年の労働は強制連行によってのものだった」という幻想への謝罪なのである。

 けったいなことではあるが。

 そして、この朝鮮人に対する「労働徴用」は、1944年9月から、1945年3月までの7ヶ月間にすぎず、これ以外の期間に日本で働いた労働者は、すべて出稼ぎ労働者である。

 この7ヶ月間に徴用労働を行った朝鮮人で、戦後も朝鮮に帰らなかった者がいたが、その数は245人に過ぎなかった。

 7ヶ月間の徴用期間に該当しない時期に日本で就業した者何十万という朝鮮人はすべて出稼ぎ労働者なのである。

 ただし、「終戦直後の1945年9月28日付の千葉県東金警察署長から千葉県知事宛「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」では、「大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きでしかも自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた」という資料も存在し、吉田清治はこのような「強制労働説」に基づいて、自分がそれをやったのだと労務報告会徴用隊長なる実在しない職位を名のって強制労働説の全面普及を試みたのである。

「戦時中に自らが三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬は、当時1000名の鉱夫募集に対して7000人の応募者が殺到したために1000人が選考試験を受けたこと、「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言している」ともされ、「徴用」はかならずしも強制ではなく、当時「志願」と徴用がマッチしていたケースもあった。

 強制労働はまったくなかったわけでもないのは、慰安婦がたしかに、だまされたケースもあったと同様、被害者としての朝鮮人もいたと思われる。

 しかしあくまでも、戦時の賠償請求の当事者は出稼ぎにすぎない者がなりすまして訴訟を起こしている場合も多いことも確かであろう。

 なにしろ、北朝鮮の主張では、強制労働700万人。韓国教科書は650万人を長らく主張してきた。しかし、実際には、主として出稼ぎ労働者が1939年から1945年までに72万4727人だと

崔基鎬は主張している。

 どうしても、韓国、朝鮮の場合、慰安婦20万人のように、とほうもない誇張がつきまとって、被害の実態を正確に把握することを困難にしてしまうのである。