無法松の一生
小林信彦は週刊文春連載「本音を申せば」883回で次のように書いている。
「みにくい「戦後という時代」をなんとか生きのびて、もう一度、「みにくい時代」に入っているのは残念であり、口惜しくもある。
「仕方がない。若い人に協力して、平和がつづく時代へと方向を持っていこう。こんなひどい時代が二度とくるとは思わなかった。」
わけがわからない書きようである。もう一度みにくい時代に入っている、というのがいっそうわからない。小林信彦は、中核や革マルやらその他様々な新左翼が入り乱れて殺し合いをしていた時、なんと考えていたのだろう。なんとも思わなかったのだろうか。
社会党が北朝鮮と友党だったこと、大江健三郎や小田実らが、北朝鮮を絶賛していた時代を小林はいったいどう見ていたのだろうか。そうした事には、なんとも思わず、いま、なにかが、はじまりつつあるかのように、小林信彦は言うのである。
「もう一度、みにくい時代に入っている」と。
若い人に協力して、平和がつづく時代へと方向を持っていこう。と小林信彦はいうのだが、まるで北朝鮮のミサイル発射や核実験、中国の軍拡と関係なしに、日本だけが無防備になれば平和がつづくとでも言うようなのだ。
1943年「太平洋戦争」さなかの「無法松の一生」について、小林信彦はとても奇妙な事を言っている。
小倉の名物男・松五郎が
松五郎は小倉の名物男だったろうか。映画では、松五郎が名物男だったようには、描かれてはいないと思えるが、小林信彦には、「名物男」に見えているらしい。
名物男なのではなく、実際は、ひょんな事から吉岡大尉と社会的地位が違いながら、心の奥底で男同士の友情が芽生えた関係になり、吉岡大尉が亡くなった後も、松五郎は未亡人と息子を見守り、亡き大尉の息子をかわいがる。
松五郎が「自分のこころは汚れている」というのは、おそらく、途中から、次第に吉岡未亡人に恋心をいだき、当然ながら、その恋心には、半ば情欲も含まれていることに、葛藤して、「自分の心は汚れている」とみずから、身をひいたのだろう。
ところが、小林信彦はこれを「戦時中のファシズムへの抵抗」「軍国主義の時代には、夫人への滅私奉公などとんでもないことだったのだ」と、わけのわまらない解釈をする。
第一、映画の中で、松五郎は未亡人宅への出入りを誰に指弾されているわけでもない、ただ自分で自分を「汚れている」と裁いているだけであり、恋愛よりも国家への奉仕が大事だと思っているわけでもないし、そう思えと強制されたわけでもない。
松五郎のこの思いは、戦争中であることとは、まったく関係がないと言ってもよい。
向田邦子の「あ・うん」は、親友同士が存命の間柄での、三角関係だが、富島松五郎の三角関係は、相手がすでに死者であり、もし、親友が生きていれば、松五郎は未亡人宅に足繁く出入りするきっかけはなかったはずのものだった。
そこに松五郎の引け目があり、自分は卑怯ではないか、人の良さそうに、善意だけで、吉岡未亡人とその息子と会っているようで、心の奥底に未亡人への恋慕と情欲があるのではないか、という自責の念がある。
ただ、それだけの作品に、小林信彦は、「戦時中のファシズム」への抵抗という。
それはおかしな解釈である。というのも、この作品の物語の構造は、戦時中ではなくとも、戦後初期でもまったく通用する心情だからだ。
なぜ、戦後初期でも通用するかというと、さすがに現代日本人は、戦後初期の日本人ほど一途でまじめではないからだ。