民進党 絶対平和主義の源流
1955年2月の総選挙の際に、日本の「左翼お花畑が満開」になる。
すなわち、社会党156議席のうち、社会党左派(親ソ連派)が、17議席増の89議席となった。89議席がこれを象徴しているのである。
この時、日本民主党は「憲法改正」をかかげたが、124議席から185議席に増勢したものの、単独過半数を取れなかった。
護憲勢力は社会党156、労農党4 共産党 2 で、三分の一以上を確保していた。
右派社会党は、この時点では、明らかに反ソ連、親米国の立場にたった上で、勤労者、中小企業、農漁民、の利益を代表していたのだが、この考えに立つ右派社会党はその後、一部は民社党に、一部は自民党に吸収されて、社会党は極左化していく。
右派社会党に勝利した社会党とは、「議会制民主主義」の否定「日本国憲法」の否定を党綱領としたことは、すでに日本人に忘れられて久しい。
社会党(左派)「労農派マルクス主義」は、次のように構想していた。
1.議会で絶対多数を取る。次にこの絶対多数を恒久化すべく、「憲法改正」を行う。
行政、教育、新聞、出版を社会主義の方向に適応させるように改正する。
永久政権論である。
※おそらく、天皇制廃止は、皇位継承の困難な状況を暫時つくることによって、いわば無痛抜歯手術方式を取った。
2.アメリカは日本の同盟国ではなく、日本はアメリカに従属していると見る。
これは、ちょうど2017年時点で、チャンネル桜の視聴者の中に多く見受けられる反米保守と共通する心情である。
この認識は、社会党の目標である社会主義革命達成時は、アメリカとの同盟関係の切り離し、すなわち「民族独立の回復」論を含んでいた。
3.中国、ソ連観
「中国、ソ連はけっして日本に対して直接侵略はやらない」と断言する。
※「北朝鮮はけっして日本に対して直接侵略はやらない」と確信する人々も出てきた。
さらに、「中国、ソ連はけっして日本に対して直接侵略はやらない」と断言するのではあるが、万が一、中国、ソ連が日本に侵略した場合には、絶対に武力防衛は不可能であるから、「無防備」「無抵抗」を積極的に選び取る。
※つまり、2000年以降に、やくみつる、香山リカや辻本清美、日本共産党議員などが言う絶対平和主義めいた言説に対して、「お花畑」みたいに、言って嘲笑する風潮があったが、これは「労農派マルクス主義」の練りに練った確信的な結論だったのである。
(※もっとも、日本共産党はこの社会党左派を、風下に立った位置で憎み続けていたのであるが。)
これに対して、右派社会党(非マルクス主義の、すなわち資本主義のもとでの、富の再配分と福祉重視政治)は、明白に「中国、ソ連」(北朝鮮)の侵略性に危機感を抱き、アメリカとの軍事同盟を肯定する立場に立っていた。
安保闘争の中味は、二つあることは、すでに忘れ去られている。 もっとも、当時から二つあったという意識を持っていた人物はほんの数名だったろう。
ひとつは、労農派マルクス主義の社会党が考え出した「安保廃棄論」からする反対。
なぜ、改訂時に大騒ぎになって、安保締結時に大騒ぎにならなかったかと言えば、単純に、安保締結時には、総評と左派社会党の盟友関係が確立していなかったからである。
もうひとつは、反米、反ソ、反中共、反日本政府の「真性左翼」を標榜するブント
の考え方からする反対論で、ただし、これは敗北覚悟のやってみただけ闘争だったらしい。
彼らはその後、日本共産党、日本社会党、新左翼を腹の中で軽蔑しつつ、地方で病院を開業したり、哲学の研究や資本主義経済の研究にのめりこんでいった。
日本防衛義務のなく、ただアメリカの好き勝手に基地を使用していいという協定内容が本質であった日米安保条約に、日本が基地を提供する代わりに、アメリカは日本防衛義務を負うという双務化の進展であることを理解している国民は少なく、ただ平和のための反対闘争なんだと理解してデモに参加している人々が多かった。
1959年3月社会党書記長浅沼稲次郎が、中国において「台湾は中国の一部であり、その中国の一部である台湾に米国は力を及ぼしている。米国は沖縄を占領しているのだから、米国は、日中共同の敵だ」と発言。
本来、浅沼稲次郎は戦前は国家社会主義に傾倒して「国体護持」を唱えた右派だったが、中国に行く役目を担うと、何を言えばいいかわからなくなって、うろたえて中国に喜んでもらう台詞を思いついたのが「米国は日中共同の敵」「台湾は中国の一部」だった。
浅沼訪中団の5ヶ月前には、日中戦争から日米戦争へと誘い込んだ主役近衛文麿の官房長官(当時は書記官長)風見章が、本性を現して、日中国交回復訪中団を率いて「社共統一戦線」の旗を振っていた。
ソ連ではなく、アメリカに戦いを挑むように仕向けた風見は、戦後も、一貫して、中国共産党、ソ連との友好と反米活動を持続したのである。
この1959年当時、日本共産党はソ連共産党、中国共産党と太いパイプを持っていたのであり、社会党は訪中して、会うこと以外には、取り立ててパイプを持っていない。
ところが、現在、日本共産党は、共産党は一貫して、ソ連の干渉と戦ってきましたとウソを言っている。
浅沼稲次郎が「米国は日中共同の敵」と発言して、はじめて中国は社会党に好意を示したのであって、その発言を聞くまでは、中国は日本共産党だけを支持していた。
「日本共産党はソ連と親密にしていたので、社会党は日本共産党にかなわない、引け目を感じていた」と社会党国際局の山口房雄は感じていた。
安保条約改定後、最初に行われた総選挙1960年11月の議席数は、自民党300議席、社会党144議席であった。自民党は前回総選挙に比べて2議席増やしているので、安保闘争という大衆闘争はなんら一般国民の政治意識に変化をおこさなかったと言っていい。
※総選挙の40日前には、社会党の浅沼委員長が右翼青年に刺殺される事件が起きたが、それでも、自民党の議席数は減少していない。
1957年4月号岩波書店「世界」での社会党ブレーン大内兵衛の発言
※1956年10月、ハンガリーで労働者が反政府暴動を起こすと、ソ連が鎮圧した。
これについて大内兵衛は、「ハンガリー民衆は政治的訓練が相当低いから」「外国の力を借りるのもやむをえあないじゃあないか」
つまり、社会主義国家では、民衆はデモを起こすべきではないというのである。
毛沢東は社会党訪中団に「「日本の社会党は不思議な政党ですね」と語った。
「反資本」「反米帝国主義」なら、反米なのかと言えば「中立」を唱えたからである。
実は社会党の党内闘争で敗れた江田三郎は、「日米対等友好」を言っていた社会主義者だったが、社会党の主流は、「反米」「中立」という奇妙な立場に収斂していった。
これが1966年の「非武装平和中立への道」でこの著者の石橋政嗣が66年から1986年までの20年もの間、社会党の理論的支柱となって、「絶対平和」「非武装中立」をかかげ続けたことが、現在の60歳代、70歳代のデモ好きのじいさんばあさんに大きな影響を与えたことは間違いない。1950年生まれから1960年生まれの世代が20歳から30歳の頃がちょうどこの日本に「絶対平和」「非武装中立」論が根を張った時期に当たるのである。
この「絶対平和」「非武装中立」論の前提には、民族独立運動の解放勢力とソ連、中国を平和勢力、アメリカとの軍事同盟を結ぶ側を「戦争勢力」とみる認識があった。