人権とマルクス主義

現代とマルクス主義マルクス主義の変種)

フランス革命が「キリスト教会と家族の紐帯」を革命達成のために破壊。

これに学んだレーニンが

「学校と家族の紐帯」を破壊

 

レーニンを継承し、日本共産党新左翼に影響を与えたフランス共産党ルイ・アルチュセール資本論を読む」の、「学校制度をイデオロギー装置と見る見方」

 

 これに基づく「子どもの権利」条約の「旧社会党」と日本共産党にの協力よる推進。

 (村山首相時代に批准)

 この「子どもの権利条約」の内容を盾に共産党員、社会党員の教師が、県立所沢高校の「反政府行動は正義」の妄想に駆られた生徒を、任侠道にチンピラを引き込むと同様、支持したのが、1998年所沢高校の君が代ボイコット事件

 1997年3月には、京都府立桂高校で、「制服反対」闘争を生徒がはじめて、これを日本共産党社会党系教師が支持。

 「学校の主人公は生徒です」と校則拒否運動を展開。

 1998年には、校則拒否、管理補導否定の風潮が強まり、栃木県黒磯北中学校の英語教師、越塚佳代子教諭が中学一年生にナイフで刺殺された。

 

子どもの権利条約」とは、

  • 「子どもには自由に自己の意見を表明する権利がある」というもの。

すなわち、各国の伝統教育に子どもが抗って、半ぐれ、デモに生きがいを求める者、反原発、反政府に闇雲に生きがいを見出す人間を育てて、社会秩序に犯罪とテロ、自殺が増加することを祈念する運動。

 

 こうして、日本では、「いじめ」が急増するが、校則と道徳否定の学校では増加は必然で、しかも、いじめが起きると学校は必ず「生命の大切さ」を訴える、というのを常套句として、決して「道徳、しつけ」が衰退している結果なので、道徳の教科書をしっかりと輪読させる、とは決して言わないし、言う頭も心もない。

 

 国連の二重性。米国の自由世界秩序維持のための国際軍事協力活動機能。

 ソ連共産主義残党による共産主義イデオロギープロパガンダ組織。

 

 日本人の頭に「人権」の文字ばかりが浮かび上がり、わが日本の国民の法に規定された国民の権利、という発想がすっかり消え失せた。

 たとえば、子どもの髪を勝手に切るのは、なさに国民の権利たる日本の刑法によって、拒絶できるのだが、「人権問題」と思ってしまう無知。

 

中国、北朝鮮に人権は欠けている。

国法自体が人間の基本権を政治犯に認めていないからだ。

ところが、日本、アメリカ、英国は典型的に弁護士を要求する権利など、国法が国民の権利を規定している。

 

 1776年のヴァジニア権利章典は、政治権力の存続を大前提に、権力の抑制を図ったものだが、これをフランス革命の「人権宣言」は「権力それ自体を全否定して、「人権の最大化を図る新規の権力樹立」を目指した。

 

 これを日本でいうならば、「マイノリティの完全平等の実現」すなわち、非国籍だろうが、二重国籍だろうが、違う国籍だろうが、すべて国政から地方まで、参政権生活保護国民健康保険、管理職公務員になる権利、国民年金加入権、すべて同等にするべし、という人権運動である。

 人は平等であり、平等は正義だというのが、「人権」だが、国民の権利とは、「国籍」を条件とするから、「人権」の強調は、究極には、ある国家内部のすべての国籍条件の区別を取り払え、という主張に他ならない。

 

 ルソーの「人間不平等起源論」は、「貧乏人は気の毒だから、いたわろう」というものではない。「各国の宗教、歴史、慣習、伝統」が「貧困と富裕の差」を生んだ。伝統も慣習も道徳、しきたり、マナー、の無い時代は皆平等だったのだから、。伝統も慣習も道徳、しきたり、マナー、を破壊してしまえ、そうすれば、平等は実現できる、というものである。

 

 そこで、福島瑞穂の「離婚を簡単にできるようにしよう」「不倫を自由にやろう」

 「夫婦別姓にしよう」

上野千鶴子の男女の相違は社会的に形成されたもので、本来は差異がないのだから、その自然の姿に戻すために、「おひとりさまになろう」「ひな祭りも端午の節句もやめよう」という主張になる。

 辛淑玉のホモ・ゲイ・レズ・子どものない家庭を祝福して、子どものない家庭を日本に増やそう論になる。

 

 フランス革命マルクス主義における「人権」のある人間は、「労働者階級」と「労働者階級の擁護者」だけで、他の人間に人権はない。

 その具体例が、次の諸例である。

  • 日本共産党におけるスパイの処刑(反革命のスパイには、人権がない)
  • 労働者階級ではない、革命の参加者としてのハウスキーパーには、人権がない。
  • 中核派にとって、警察官、の家族には、人権がない。
  • 革マル派にとって、労働者は殺害対象になってはならないが、学生に人権はないから、殺してもよい
  • 人民革命に反抗するチベット・モンゴル・ウィグル人の反体制活動家に人権はない。
  • 沖縄の基地反対活動家にとって、防衛施設庁の公務員に人権はない。
  • 共産党社民党中核派にとって、放射能を恐怖して地域から出ようとしない福島県民には、人権がない。
  • 政治的に過激な在日朝鮮人には、自分たちの思うように動かない公務員の命という人権は存在しない。

昭和22年6月23日、端山豊蔵関税課長が、どぶろく密造摘発公務を恨まれて、朝鮮人8人に殴る蹴るの激しい集団暴行を受けて、殺害された。

 もし、彼ら在日朝鮮人8名に人権意識があれば、一人の人間である公務員として勤務した端山豊蔵氏の人生を奪い、家族の人生を奪うことはなかったろう。

 

 この実行犯は傷害致死でたった懲役7年に過ぎない刑に服した。

  • 1971年「渋谷暴動事件」において、中核派の大阪正明は、21歳の中村恒夫巡査長の残り多い生涯の人権のすべてを奪いつくしたのである。

彼ら中核派という革命集団は21歳にしか過ぎない公務員、中村恒夫巡査長の命という人権をなんら法の裁きも受けさせず、つまり、法的罪を問うことなく、人権を一切考慮せずに、鉄パイプで殴打したうえ、火炎瓶を投げつけて、全身火だるまにして焼き殺したのであるが、自分自身はその後、革命組織から、金銭的保護を受けて、67歳まで、春夏秋冬を謳歌し、日本の文明的な住居と食事を堪能して生き延びたのである。

  • 政敵には、一切「人権」はないから、狂暴なまでに、追い詰めるだけ追い詰め、自殺に追い込む。この実例が、世羅高校の石川校長自殺事件である。
  • マルクス主義者にとって、労働者に人権はあるが、労働組合員ではない退職者「生活者」やその娘に人権は無きに等しいので、拉致被害者の存在を長年にわたって否定し続け、事実が明るみになってもなお、朝鮮の人々は強制連行されたのだから、それに比べればたいした問題ではないと「人権」を無視したのは、「反差別」の辛淑玉だった。
  • 香山りかという精神科医は、反原発に同意しない者に人権はない、とばかりに「再稼働に賛成する者は、精神科医として申し上げますが、精神に異常をきたいしています」と異なる意見を持つ者を精神異常と決めつけた。

 仮に香山りかが時の権力者と組んだら、反対派は皆、精神異常判定されて収容所に入れられる事は確実であろう。

(安部首相に対して)「お前は人間じゃない」発言(これも人権無視ではないのか)

  • あさま山荘事件とは、人権派マルクス主義者がただの生活者である小さな保養施設の管理人の女性を10日にもわたって、人質にして死の淵に立たせた人権無視の犯罪である。罪のないこの女性を救出しようとして、自ら身代わりを申し出た一般人を、私服警察官だと誤認して、頭部に弾丸を撃ち込んで死亡させた人権無視の犯罪でもある。彼らが一般人(非労働組合員であり、デモ活動家でもない普通の生活人)の人権を無視する気がないなら、自ら官憲につかまって、まず、無関係の人間の人権を最優先にしたことであろうが、そうはせず、人権をないがしろにして、普通の人を自らの逃亡のために、人質に取ったのである。人権意識が高いはずがないではないか。

 

 他者のいのちを人質、拘束行為によって、人権を棄損しておいて、当時犯人の加藤倫則みちのりは、警察が大きな鉄球を山荘の外壁にぶつけて破壊して強硬突入して、人質を救出しようとしたところ、なんと、警察に対して「卑怯だよ、あんなの」と言っており、これを40年以上経っても、本人が悪びれず、発言しているのである。つまり、単なる保養所の管理人を自分たち政治犯の逃亡のために拘束した人権侵害と卑劣非道性をまったく気が付いていない非道徳性なのである。

 

 人権派朝日新聞毎日新聞山崎朋子が、「地球市民」「世界市民」を強調するのは、まことに筋が通っている。彼らは国家未成の原始時代が「人権のある平等」の理想だから、国家なき、「地球」「世界」の市民を「人権のある無国家」社会と信じているのである。

 

 けだし、彼ら「地球市民」が世界の危険地帯に放浪しては、イスラム過激派のふところに飛び込んでは、時に処刑されたがるのも、「地球市民」の妄念ゆえである。

 

 また、韓国の反大統領デモや従軍慰安婦デモに日本の労働組合や、民主党国会議員が参加したがるのも、逆に韓国民主労総の組合員が沖縄基地闘争に参加したがるのも、「国家消滅後の世界と国家未成原始」にルソーの自然状態の平等を妄想して地球市民になりたがっているからだ。

 

 だが、実際には、国家未成の状態、国家死滅の社会とは、法のない状態、道徳のない状態に他ならない。

 というのも、社会が形成されない前の人間に、道徳はなく、殺し合いと奪い合いしかないからである。だからこそ、ルソーは、人類は出合頭に性交した、と言った。恥も道徳もないその状態で平等だった、とルソーは言ったのである。

 そこに民族の歴史の思い出も、知恵の思い出もない。個別の獣性の生存あっての平等があるだけだ。

 

 そして、地球市民世界市民の人権とは、「民族史」「国柄」「慣習」「お祭り」「祭祀」「民族文化」の否定なくして「地球市民」はありえないのは、当然だろう。だからこそ、彼ら革命の徒は「国家」「国旗」を否定したがるのである。

 

 

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