「許されざる者」と慰安婦問題

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許されざる者

1992年 米国 アカデミー賞作品賞受賞作品

 

この作品の主人公は「登場しない人物」であるという点で非常に特別な脚本である。

 わたしはそう見たのだが、意外に、他の鑑賞者の感想文を見ているとその点語られていないので、書き記しておこうと思う。

 見巧者の町山智浩なら、言及しているかもしれないと思って確認してみたが、やはり言及してはいなかった。 

 イングリッシュ・ボブという高名な賞金稼ぎのドキュメンタリーを書くために随いてきた雑誌のフリーライターが、本で読んだがこのイングリッシュ・ボブさんは、英雄的な人だと思っているから、随いてきたんだ、というと、保安官は「それに書いてあることは、嘘だ。なぜ嘘だとわかるかというと、俺はその場にいたからだ」と実際にあったことを説明する。

 それで、そのフリーライターは、その誰かが書いた記事はフィクションだったことを知る。実はこのシーンがラストの伏線になっていて、作品の最後に「登場しない主人公」である「クローディア」の母が長旅をして、娘クローディアに会いに来るが、すでにクローディアの夫もその子どももクローディアもどこかに引っ越していていない。母は、娘クローディアが病気で死んだことさえわからないまま、帰るわけだが、その時、最後まで疑問でならなかったのが、なぜあの娘がならず者なんかの妻になろうとしたのだろう、不思議でならない、という思いだった、と説明される。(正確には、このクローディアの母は、娘が病気で亡くなったのは人伝てに聞いたが、ただ一人娘の孫に会いたかったのかもしれない)

 なぜ、このクローディアの母が、そういうふうに思うかというと、主人公のウィリアムマニーが「許されざる者」たちに敢然と立ち向かい、闘って、最後に「娼婦を人間らしく扱え」と叫ぶ男だということを目撃していないからであるのだし、その前に、生前の一人娘クローディアがウィリアム・マニーと若き日に出会って話したり、食事したりする時のマニーの態度を見てはいないからである。

 この実際には見ていない場合、人はまったく違う事実を事実と信じ込んだまま、真実は埋もれていく、ということが、すでに保安官とフリーライターの「あの記事は嘘だ。なぜなら、あの場に俺はいて、見ているからだ」という場面が伏線になっている。

 

 町山智浩は保安官がファシストだというが、そうではない。

 ※町山はファシストを暴力と強圧で支配する者という意味で言っているらしい。

 専制君主のようにふるまっている、とか独裁者のようにふるまっている、という表現のほうが近い。

 この保安官はどういう人物かというと、犯罪行為に対する裁きを下す権限を持っている状態で、その判断に対する批判を暴力を行使して許さない、その上で、その町における地位と自己の人生の安定を確保しているのである。

 ところが、実際にやっていることは、娼婦を人間扱いしないことだ。

 つまり、カッとなっただけで女の顔をナイフで切るような卑劣な行為をした町の男を、半殺しの目にあわせて町から追放するくらいが妥当なところを、何頭かの馬を売春宿の経営者に差し出せ、という罰だけで済ませる。

 憤懣やるかたない娼婦たちはお金を出し合って、賞金を出して、顔を切った卑劣な男を殺してくれ、と依頼を出す。そんな賞金目当てに来た賞金稼ぎによって卑劣な男は殺された、これは保安官にとって自分の治安を差し置いた無法ということになる。

 本来、保安官は賞金稼ぎを許さないというなら、それはそれで賞金稼ぎで殺人を犯した者を追及するべきだったが、感情的になって、賞金稼ぎの名前を隠しただけの男を殺してしまう。だから、「許されざる者」なのである。

 

 「許されざる者」とは保安官で、この保安官がなぜ「許されざる者」なのかというと、「娼婦を人間扱いしていない」ということ。そして「人を殺してもいない男」をそうと「知りながら殺して」いるからである。

 

 もうひとり「許されざる者」がいる。売春宿の経営者である。(ただ経営者だから、許されないというのではなく、その経営者の態度が、女たちをないがしろにしていて、人間扱いしていないというように描かれている。

 

 この映画は、ウィリアム・ビル・マニーが、なぜ女房が亡くなった後も酒も飲まず、友人から、女を買って遊ぼうじゃないかと言われても、いや、俺はいい、死んだ女房に申し訳ないというのか、・・・そんな女性とは、いったいどれほど人間的魅力にあふれる女性だったんだろう、という謎を提示しているのである。

 

 ウィリアム・ビル・マニーは、俺が多少ともまともに生きられるようになったのは、死んだ女房のおかげだ、とも言っている。

 

 顔を切られた娼婦デライラは、自分の顔を切った卑劣な男の殺しを依頼するお礼に、私を抱いてもいいよ、というが、マニーはそんなことしなくていいから、という。

 すると、デライラは、自分が顔を切られていて気持ち悪いからなのかな、と思うそぶりを見せる。

 マニーは、「あっ、そうじゃないんだ。君は顔に傷がついていても、美人だと思うよ。それに他の娼婦も含めて誰かを選べと言われたらきっと君を選ぶと思う。おれがそれを望まないのは、妻に申し訳ないからなんだ」

 

 デライラは驚いて、「そうだったんですか。わたしはいままで、不実な男性ばかり見てきたものですから、気がつかなかった」

 

 マニー「そうだね、不実な男は多いよね」

 

 という会話があり、さらにこの後、デライラは、娼婦の館に帰ってから、仲間達に「あのマニーさんは立派な男だわ。奥さんに申し訳ないから、抱かないって・・・」と言う。

 

 「マニーに奥さんはいないわよ。もう亡くなってる。」

 

 デライラはマニーが帰ってから、奥さんに隠し事をしたり、バツの悪い思いがするのが嫌だというのではなく、亡くなった奥さんを愛し続けてるのだと知って、いったいそこまで、ひとりの男性の誠実さを引き出す女性とは、どんな女性だったのだろうという厳粛な思いになる。

 

 マニーが娼婦たちを人間扱いしなかった許されざる者たち5人を皆殺しにして立ち去る時、デライラの顔がアップになって、畏敬の念さえ浮かぶのは、マニーに対する畏敬の念ではなく、マニーの亡き妻への畏敬の念を示す表情なのだ、という演出が施されている。

 

 娼婦を人間扱いしろ、というウィリアム・ビル・マニーの叫びは、殺した五人のごろつきと遠巻きに見守る町の者たちに向けられている。

 けっして米国という国には向けられない。

 それは国家の擬人化された善悪の悪ではなく、ひとり一人が負うべき倫理だからだ。

 

 ひとつ言っておけば、韓国の慰安婦問題とは、人間の個人倫理の問題を国家の擬人化された善悪問題における悪として抽出して、むしろ問題を矮小化してしまっているのである。

 だからこそ、朝鮮人の親、朝鮮人の売春業者の倫理が、卑劣軽薄にも放擲されて平気なのである。

 この映画は日本映画でもリメイクされたが、日本のリメイクでは、わたしがここで説明した「登場しない人物」が実は主人公だという側面、そして、物事の真実は語られない限り、埋もれてしまうというメカニズムのこと、この二点重要なモチーフはまったく理解されていないようだ。

  この文章を書くにあたって他の複数の映画ブログを確認したが、ほとんどの人は町山智浩氏の解説にひきづられているようである。

 マニー自身が許されざる者という感想が多いのだが、もしそうなら、五人を殺してひきあげるマニーを畏敬の念を持ってみつめる娼婦も許されざる者となり、全員が許されざる者だというなら、およそそれは相対的でそこに善も悪もないというアノミーになってしまう事に気づかない人が多い。

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