朝鮮戦争 2
三一運動後の抗日運動が共産党と民族(両班支配復興)派に分かれた事を見れば、ソ連からすれば、アジアにおける共産主義の希望とも見えたし、アメリカからすれば、抗日運動は共産主義の偽装運動と見えたから、彼らに独立を認めることは、共産主義国家の成立を指をくわえて見るに等しいので、アメリカは共産主義国家の成立を防止するために、建前として、「連合国の信託統治」が唯一の選択肢だった。
スターリンにしてみれば、(アメリカ優位の信託統治という)ルーズベルト構想に露骨に反対すれば、戦勝国の一員としての発言権をできるだけ引き伸ばして、中国共産党に手を貸すことができなくなるから、とりあえず朝鮮半島信託統治案に賛成してみせたというところだろう。
ソ連に比べてアメリカの弱みは、自国の国民の戦死戦病者被害をなるべく少なく抑えなければ、政権および与党が選挙によって信任を受けることが不可能になるということだった。そのため、ルーズベルトは、スターリンに対日参戦を促した。
スターリンにとって、対日参戦は戦後のアジア圏における領土分割を少しでも優位にするために非常に価値ある行動だったので、日本の国力が風前の灯になったのを見計らって、降伏7日前、そして、原爆投下の二日後に日本に宣戦布告した。
この時点でアメリカはソ連の対日参戦を押しとどめたかったが、すでにルーズベルトは死去しており、なぜソ連の対日参戦はもはや必要ないか、痛切に自覚するはずの当人はすでにこの世にはいなかった。また、ルーズベルトが生きていたとしても、すでにスターリンに対日参戦を依頼してしまった以上、もう対日参戦しなくてもいいとも言えなかったかもしれない。
ルーズベルトの死後、アメリカの政策を担当した者たちは、ルーズベルトがスターリンに対日参戦を促した事を、やっかいな失策をしたものだと考えたであろうが、いまさらどうにもならない事だった。
ソ連が対日参戦したのは、8日であり、その二日後の10日には、日本はスイスに降伏の意思を伝えたのだから、実質的には、ソ連参戦はまったく不要であり、ただソ連のアジア進駐の口実にほかならなかった。
8月13日の時点でルーズベルト死後の政局を託されたアメリカの要人たちは、ソ連のアジアへの強引な進駐をあわてて、ソ連の永続的な支配地域に転化するのではないかという警戒をあらわにするが、その警戒を軍事的に解消することは、ソ連との直接衝突を意味し、それはまさにトルーマン政権がアメリカ国民から、いったいいつまで戦死者を出せば済むのだと指弾されるリスクを意味した。
そこで、アメリカはソ連の満州、朝鮮北部の占領を容認せざるをえなくなったのである。
8月10日、日本の降伏意思を受けて、アメリカがただちに重要な課題としたのは、いかにソ連のアジア進出を食い止めるか、という事だった。
アメリカ軍を北海道、朝鮮、満州に急行させて占領してしまえばいいのだが、そこまでする余裕が太平洋軍になかった。そこで、アメリカは苦肉に策として、急ぎ陸軍省参謀部のディーン・ラスク大佐に命じて、ソ連との妥協案を作成させた。
ラスク大佐は、38度線を持って分割線を引き、ソ連軍の38度線以北占領を認めるから、ソ連は38度線以南には入るないと認めるよう求めるべきと進言して、この通りになった。
ソ連はこの案を、受け入れた。なぜなら、少なくとも38度線以北まではソ連の影響下に入れることができたからである。
38度線提案を「日本軍の降伏接受のため」というキム・ハクジュンの見解は誤りである。なぜなら、日本軍の降伏を接受するのに、半島を分割する必要はまったくない。
ソ連とアメリカの信頼関係が確固としたものであれば、淡々と協力して、日本軍の降伏撤退処理をすればいいだけのことだった。問題は、日本軍の降伏撤退処理にとどまらず、蒋介石中国、英国ならばアメリカの言い分を聞くはずとアメリカには予想できたが、ソ連のアジア侵攻とは、とりもなおさず、ソ連のアジア支配のはじまりを意味することをアメリカがよく知っていたから、いかにソ連のアジア進出を角が立たない名分をつけて止めるかという課題が、この時アメリカにのしかかってきた。
ソ連側からすれば、対日参戦を要請したのは、アメリカなのだから、アジア侵攻は非難されることではなく、いったん占領してしまえば、その地域の人士のうち、共産主義者を「自主独立派」として盛り立ててやれば、ソ連派の国がそこでひとつ出来上がるというものだった。少なくともひとつソ連の衛星国ができれば、あとはそのまま分断固定化しようと、あわよくば共産主義統一しようと、どちらでもかまわないというのが、ソ連の立場だった。アメリカは、半島全域が共産主義化するか、せめて南半分でも、とりあえず非共産主義にとどめる事ができるかの危機に立たされていた。
金日成を擁立することに成功したソ連にとって、北のソ連圏は確保できたが、アメリカびとって南朝鮮の政治団体はやっかいな事に、南朝鮮共産党、信託統治拒絶派の民族派、王制時代の両班支配体制復古が主流で、近代的意識のある親日派は劣勢に立たされていたことだ。アメリカは南朝鮮の主流派をけっして好ましい連中とは考えていなかったが、かといって見放せば、半島全体がソ連の支援を受けた金日成グループに呑み込まれることは火を見るより明らかなことだった。
38度線を境に米軍の領域とソ連の領域を区切る必要があったのは、早く、区切ることをスターリンに了承させなければ、半島全体にソ連軍が入り込んでしまい、半島全体にソ連軍がはいりこめば、ソ連軍を押し戻す理由はなくなるからだ。「降伏接受」とはなんの関係もない。
トルーマンは回顧禄で「朝鮮半島の真空状態を解消するため」と言ったが、これが英国軍、中国軍(蒋介石)だったなら、38度線を提案する必要はなかった。
蒋介石中国、あるいは英国軍なら、そのまま交渉して、予定通り、「国連信託統治」をすればよかったからである。ところが、ソ連の進駐は、「国連の信託統治」を期待できなかったのだ。だから、「38度線提案」が行われた。
いずれにしても、アメリカはソ連にとって朝鮮半島は日露戦争以来、重要な意味を持つ地域であることをよく承知していたから、拙劣な交渉をすればスターリンに満州、朝鮮半島に食い込まれることになり、そうなれば米中資本主義体制は脆弱化しると常に懸念していた。
したがって、朝鮮半島の共同統治がそう容易に進むものとは毛頭考えていなかった。
当時「強国」といいうる国は、アメリカとソ連以外に存在しなかった。
したがって、キム・ハクジュンが「半島がある一強国によって独占支配されると紛争が起きるから、アメリカがあえてソ連をひきこんだ」というのはまちがいである。
ある一強国とは、ソ連が半島を全面支配すれば、アメリカに不都合であり、アメリカが全面支配すれば、ソ連に不都合であるのだが、他の国ならば、ソ連に屈服しても、アメリカは屈服せず、アメリカに屈服してもソ連はアメリカに屈服しないということが両国に自覚されていたという以外にない。キム・ハクジュンはまるで中国、英国などが半島に入ることがありえて、それを防止するために、ソ連を引き込んだというように言うのだが、当時、中国の蒋介石も英国もアメリカに打診することなく、半島に介入する事などありえなかった。
ただ、米ソ両国だけが、相互に、相手にしたてに出る必要を感じず、同時に相手に配慮せねばやっかいな事態が起こるから、配慮せねばならぬ必要を十分知っていた。
続く