朝鮮総連と朝鮮戦争
朝鮮戦争の通説は次のとおり。
「1945年2月、ヤルタ会談で米英中ソ四国が、「四国による共同統治」を密約していた。」
(この場合の中国とは、蒋介石国民党)
※朝鮮総連元副議長の白宗元は、1943年のカイロ宣言の「適切な時期に朝鮮を自由独立させる」という文言の「適切な時期」という言葉がなぜ入ったか、2013年にいたってもなお、在日朝鮮人にまったく教える気がさらさらない。
米英中ソがわざわざ「適切な時期に」と言った理由は、ほっておけば糸の切れたタコのように、混迷を極めるのではないかという懸念を持つような韓国人だったからである。
朝鮮総連元副議長の白宗元は、「1945年8月15日に南北朝鮮の民衆は民族としての強い一体感にあふれ、」と書いているが、まったくの嘘である。
当時朝鮮半島には、「信託統治を受け入れて、アメリカの援助を受けつつ発展したいという者」「ソ連の援助を受けつつ発展したいと言う者」「信託統治の期間を拒絶してすぐにも独立したいという者」というように、大きく分けても三つに分裂していた。
これがさらに、南の共産主義者と北の共産主義者に権力抗争が激化したので、白宗元の言う「そこにはどのような違和感も亀裂もなかった」というのは、嘘八百である。
朝鮮半島は、38度線の分断以前に、呂運亨の左右合作を構想したが、暗殺された。
宋鎮禹の反共派。李承晩、金九の親米派は、同じ親米派でも、袂を分かち、南朝鮮労働党の朴憲永と金日成は、同じ共産主義者でも、次のごとく、抗争した。
朝鮮戦争休戦後の1953年3月、朴憲永以下南労党派はクーデター容疑および「アメリカ帝国主義のスパイ」「反党分裂分子」などの容疑で一斉に逮捕され、同年8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ところが、李承燁・李康国・林和・裵哲ら南労党派の有力者が問われたのはクーデタ未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝のスパイ」「政権転覆・南労党派のクーデター陰謀」「戦時50万蜂起流言飛語」という名分のもと、朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された
曺晩植は、ソ連の提案する信託統治への反対に端を発した北内部の対立が原因で収監され、朝鮮戦争が勃発した直後に処刑されたとも病死したととも言われている。
以上のように、朝鮮人自身が四分五裂しぶんごれつ状態だったのであり、
アメリカが38度線分割提起し、ソ連がこれを承認する前から、朝鮮人は、左右合作派は暗殺され、左は左で、右は右で反目しあっていた。
朝鮮総連元副議長の白宗元は、「通説では、金日成がソ連の指示受けて朝鮮戦争に火をつけた事になっているが」というが、それ自体、嘘である。
通説では、金日成は李承晩を倒し統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。
1950年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(電報の 内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、ス ターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。また12月に はモスクワで、T34戦車数百輛をはじめ大量のソ連製火器の供与、ソ連軍に所属する朝鮮系軍人の朝鮮人民軍移籍などの協定が結ばれた。
これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。
これが「通説」であり、けっして、北朝鮮がソ連、中国に指導されて戦争にふみきったのではなく、北朝鮮が、のりきではなかった、ソ連、中国を説得した。