天皇退位論の源流 東大総長クリスチャン南原繁
立花隆の日本戦前戦中史にどこかピントがずれたところがあるのは、戦後、全面講和論を主張した南原繁の戦争観を無批判に信じている事も要因になっている。
南原繁の考えていた日本の戦争の原因は、「日本人全体が精神的に独立していなかったことにある」というものだった、そんな事を言い出したら、戦後70年も経った今でもオルテガの説く「大衆の反逆」のような「専門人」、専門のことしか知らない、人間としての深みのある省察とは無縁な大衆なのが、日本人であり、中国人、アメリカ人、フランス人が特別自立しているということもないだろうし、ましてや韓国人などはひどいものなので、戦前特有の問題でもなんでもない。
第一次世界大戦には、知らぬふりして、すっかり脇にのけて、日本の戦争の原因は、日本人の精神の独立性・・・すなわち天皇への依存を含意、とするのが、南原繁の魂胆。
ヨーロッパ人は日本人とちがって、ルネサンスと宗教改革で、精神的に自立したというのだ。
それならば、第一次世界大戦を起こしたのは、自立した個人たちということになって、矛盾極まりないではないか。
さすが吉田茂首相が名指しで「、曲学阿世の徒」と南原繁を非難しただけあって、つじつまのあわないへりくつを言っているのだが、立花隆をこれを褒めているのである。
この南原の演説は、昭和21年2月21日に行われた。
そのときの朝日新聞の記事がまた、ふるっている。
南原繁の、「戦争の原因は、国民の人間性が確立していなかったことが原因」という発言を受けて、朝日新聞は見出しに
「起て、人間性の確立へ」
「満州事変以来軍国主義者達に災いされ、シナ事変、太平洋戦争と展開して今日の状態に置かれるようになったが、これ必ずしも一部の者によってゆがめられたばかりでなく、国民自身の主観に誤りがあったためである。」
あきれるほどに、いけずうずうしいではないか。シナ事変で「許すまじ!国民党」と、国民を煽り立てたのは、朝日新聞自身だったのに、この言い草である。
南原繁の演説は典型的な空理空論でありながらも、その演説に戦後から今日に長く続く日本的左翼の思想の原型が闡明されていた。
「国民は国民たると同時に世界市民を形成する」という一語がそれ。
「戦後民主主義者のぼくら」だの戦後民主主義者の「わたしたちは殺されもせず殺しもせずきました」と言うある種の市民主義者の多用する「世界市民としての自覚」「地球市民」というのは、この南原繁の昭和21年2月21日の演説に始まる。
「新日本文化の創造と道義国家日本に建設」とも南原は言っているので、これなどは、自民党政権の安倍内閣の防衛大臣稲田朋美が、2017年から「道義国家」と言い始めているから、いつのまにか、南原の言は保守政治家にまでひきつがれていることになる。
次いで4月29日にも南原は演説してそれをまた朝日新聞は持ち上げているのだが、南原はそこで「天皇に法的責任はないが、道徳的責任は感じておられるだろう、と遠回しに退位をほのめかしているのである。
これに朝日はこう書いた。
「道徳的に責任あり
拝察される陛下の苦悩」
実際、南原繁と安部能成のふたりは、当時しきりに天皇退位を周囲に語り、また、ご進講の時に直接進言しようかと言っていたという。
立花隆は天皇が自ら退位することが「国民と天皇の信頼を回復することだというとんでもないへりくつを言う。
南原は、おそろしく腹黒いか、よほどの馬鹿で天皇の退位を本気で「信頼回復」の意味と、思っていたか、あるいは、きれい事を並べて退位、皇室全廃を狙っていたかどちらかである。
354ページ
「権力は道徳に優越しないということを示さなくてはいけません」
つまりどういう意味かというと、天皇という最高権力と言えども、道徳が優先するから、悪いことをしたと思うなら、退位しろ」という意味である。
立花隆が引用する南原回顧録の最後の言葉は、おそらく立花隆自身の思いでもあるだろう。
(360ページ)「この空襲が、私が法学部長として、東京帝国大学の法学部は(その卒業生は)どう動くべきか、非公式にせよ、なんらかなすべきことはありはしないかという確信を深めさせたひとつの出来事でした。」
ばかばかしい。現在も、あきれた事に法曹界、各界で皇室継承問題で、女系天皇導入から、人権の観点からの退位自由の取り入れまで、なんとか国民の納得する形で、気がつけば皇室消失という状態にもっていこうと画策する知識人、国会議員が引きも切らない。
英国王室があるからと言って英国人が戦争好きだというわけではない以上、日本の皇室も特段戦争の原因ではあるまいと考える向きには不思議でしかたがないほど、皇室が消失するよう、なくなるよう、動いている人は少なくない。
その原点は安部能成と南原繁から、立花隆に引き継がれているのである。
南原繁は戦後最初の東京大学総長になった人物で、戦時中は法学部教授だった。南原は終戦時には、法学部長だった。戦時体制下で、うまく生き残ってきた人物である。
大学が、学徒出陣という戦時体制に組み込まれていることに反対の気持ちを持っていた、と南原が言うのであるが、「なぜ教授から学部長」に地位昇進することを辞退しなかったのだろうか。