戦後日本左翼の源流 極左からエコロジストへの変態

宮部彰2012年時点で59歳。2017年には、64歳。 緑の党 副運営委員長

 

緑の党は2012年7月28日結成され、

原発反増税、反TPPを掲げた。

なお、2013年には、緑の党グリーンズジャパンと党名変更。どうしたわけか、左翼というのは、とにかくやたらに党名を変える。

緑の党グリーンズジャパンは、2013年7月21日の参議院議員通常選挙では、山本太郎を支持。同時に山本太郎は、この緑の党グリーンズジャパン比例区推薦候補の三宅洋平を強力に応援演説した。

 結果、山本太郎はテレビタレント時代の知名度を利して当選。

 三宅洋平は176,970票の「最多得票落選」となった。

 

2012年登録者数自称 900人

地方自治体の議員が70名参加と自称。

寄付金1000万円実績と自称

ドイツ、オーストラリア、台湾の緑の党と連携と自称。

 

民主党に裏切られた」と発言。(増税問題と思われる)

 

 加入を誘導する広告を週刊金曜日公式ブログ2012年7月23日が掲載した。

 

 宮部彰はプロレタリア革命派全国協議会代表であった。

 プロレタリア革命派全国協議会1996年8月設立。2012年5月解散した。

 2012年7月28日には、「みどりの未来」が解散している。 

 この「みどりの未来」の前身は、2002年1月に解党した「新党さきがけ」党員の一部が作った「みどりの会議」である。

 

 つまり、緑の党とは、プロレタリア革命派全国協議会の転身であり、共産主義革命党の正体をカムフラージュしつつ、政治ゴロ(ごろつき・寄食)として生き延びるため、極左狂信者たちが党名をソフトに仕上げた社会主義革命党の変態組織である。

 

 次のような経緯がある。

 1.1996年8月「共産主義労働者党全国評議会」を「自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ蒼生」と変名。この時、宮部彰、53歳。

同年同月

※「プロレタリア革命派全国協議会」の元代表が宮部彰。

 

宮部彰は、「プロレタリア革命派全国協議会」から転身して、緑の党の副運営委員長になる。

なんともまぎらわしい、姑息な連中である。

政治運動をやめるかと言えば、そうではなく、当時59歳の宮部彰が副運営委員長になって、緑の党を結成。週刊金曜日ステマ記事を書いてもらう。

 

 1966年共産主義労働者党が設立された。

これは、1971年に分裂。

この共産主義者労働者党は、戦後日本共産党中央委員の中で、党内論争で宮本顕治らに敗北して除名された者たちが、当時の学生を指導して作った組織。

 

中心人物は、いいだもも、内藤智周ともちか

内藤智周ともちかは戦後まもなく、32歳頃、日本共産党に入党

 

なんとも、この左翼連中は質めんどくさい事に、実に多数の党分裂を続ける。

日本共産党から、1961年、「社会主義革新運動」が分裂。

この「社会主義革新運動」→「統一社会主義同盟」からさらに、1967年「共産主義労働者党」を結党する。

 それだけではない。この「共産主義労働者党」から、創始者の内藤智周ともちかは脱党して、「「労働運動研究所」を組織し、理事におさまって、寄食している。74年死去

 

 1961年の「社会主義革新運動」すなわち、日本共産党の脱党者達が起こした運動体のメンバーは、春日正次郎、山田六左衛門ら除名された中央委員たち。同時期、離党した安藤仁兵衛は、1948年の水戸高校在学中に日本共産党入党、東京大学在学中に日本共産党の活動家として、宮本顕治の腹心でもあったが、後に離党。

 彼らは統一社会主義同盟を結成。

 統一社会主義同盟日本共産党離党組の共産主義新党として、安藤仁兵衛が「雑誌現代の理論」を発行して、日本共産党に対抗した。

 

 以後、1968年から、76年頃まで、「中核派」対「革マル派」「中核派」対「日本共産党青年部の民青」「赤軍派」によるテロ、三菱重工爆破事件などの極左党派のテロが荒れ狂う中、統一社会主義同盟は、日本社会党江田三郎江田五月の実父)と合流して、1977年、「社会民主連合」を結成する。ここで、日本社会党社会民主連合社会党に分裂。

 ※安藤仁兵衛はただ日本共産党社会党の間を右往左往して、齢を重ねて1998年死去。

 日本社会党を脱党した構造改革派の江田三郎は、労働組合「総評」と対立しつつ菅直人、安藤仁兵衛らとともに、社会市民連合を結成。(1977年結成、1978年社会民主連合」に変名)

 ※とにかく、この連中、次から次に党名を変更して、政治思想ロンダリングを繰り返しては離合集散を果てしなく繰り返すのである。

 一年後、社会民主連合に変名

 この「社会民主連合」は、1994年細川護熙小沢一郎小池百合子の「日本新党」と合流する。

 このあたり、小沢一郎、あるいは2017年以降の小池百合子都知事就任後の日本共産党系団体との野合の片鱗がうかがえるとも言える。

 1994年、社会民主連合解散

 当時の代表 江田三郎日本社会党脱党組

 代表委員 大柴滋夫は日本社会党脱党派

 代表委員 菅直人東工大在学中、非中核派系かつ非日本共産党系の学生組織で活動。

 市川房枝を勝手に推薦する会を結成。

 1977年、江田三郎の要請を受けて社会市民連合に参加。功名にはやってか、この時、市川房枝の反対を裏切っての、左翼政党への本格参加のこれがはじまりだった。

 菅直人市川房枝の人気を利用して政界に顔を売っただけで、本心は市川房枝に心酔していたわけではなかった疑いが濃厚。

 1980年、朝日新聞石川真澄記者が裏方の手伝いをしつつ、この年衆院初当選。

 

※なぜ市川房枝菅直人社会民主連合加入に反対したのだろうか。

 市川房枝は、実は、左翼でもなんでもない、真摯な愛国者であり、しかも、「党派に属さない気概のある女性」だったのである。ただ、かなり無教養で、明らかにマルクス主義を批判的に研究した形跡はかけらもない。

 社会党共産党と活動をともにしない意志を示した時点で、立派な非左翼ではある。しかも、非共産党系の新左翼でもない。というのも、戦前の市川房枝は、実際上、労働運動と無縁で、ただ「汚職反対」「母子保護」婦人参政権」を主張したに過ぎず、まったくマルクス主義と無関係だった。

 そして、石原莞爾を「高潔な人格者」と評価し、田岡一雄と懇意にしていたので、毛ほども、マルクス主義的教養のかけらもなかったと思われる。

 これが、市川房枝菅直人に対して、日本社会党分派の社会民主連合への参加を止めた真相であろう。

 市川房枝は東京都都知事選挙日本社会党日本共産党が推すマルクス主義経済学者である美濃部亮吉を支持したが、おそらく、マルクス主義を批判する理論的教養もない無知な婦人の権利拡張運動の愛国者に過ぎない市川房枝は、ただ、美濃部亮吉の人のよさげで物腰柔らか、思いやりありそうな物腰にひかれたと言ったところか。

 美濃部都知事時代、美濃部は北朝鮮シンパの共産主義者安江良介を特別秘書にしていた。この共産主義者安江良介の進言によって、朝鮮学校認可、これが全国に影響を与えて、朝鮮学校への認可、補助金支給が蔓延した。

 この補助金支給で浮いた資金もまた、北朝鮮への日本からの送金に利した。

 

 東京都特別秘書安江良介とは、北朝鮮に5回訪問して、北朝鮮一党独裁指導部の歓迎を受け、金日成を礼賛。岩波書店「世界」で、金日成の指導で北の民衆は経済的に恵まれた状態になっている、とウソ八百を並べて、日本国民が共産主義に期待を抱いて、国政選挙で社会党共産党のいずれかに投票するよう、誘導工作した狂信的共産主義であった。

 

 現在フリーの映画評論家として著名な町山智浩氏が、自己の在日の出自から、朝鮮の非人道的犯罪に強い関心を持って、北朝鮮の拉致犯罪を調査していたところ、安江良介は、「おまえには、関係ないことだ」と町山智浩氏を恫喝したという。

 共産主義に利しさえすれば、拉致被害者とその家族の悲しみなど、どうでもいいというのが、共産主義者安江良介の非道なマルクス狂いの態度であった。

 

 話は戻るが、要するに「社会民主連合」とは、日本共産党除名、脱党組と、日本社会党脱党組の連合に(非共産主義者)市民無所属派の市川房枝を裏切った 菅直人が合流したものである。

 

 1966年に設立された共産主義労働者党は、1971年に分裂して、「労働者革命派」(「労働者党全国委員会」(と、これまたやたらに改名する))、「プロレタリア革命派」「赤色戦線派」に分かれる。

 

 わたしたち、共産主義者では無い者が、ただひたすら呆れるのは、日本共産党なら、日本共産党社会党なら社会党が長く延命して自民党に対抗するというなら、わかりやすいところを、このように、日本共産党から、脱党した者、社会党から脱党した者、それとは別にソ連スターリン批判を見てとった「共産党ににも社会党にも属した経験の無い共産主義者」が新しく共産主義政党を立ち上げ、それがまた二分、三分に分裂しては、それぞれに変名を繰り返し、新聞、民放、NHK,、官僚、などに入り込んで乱反射的、不統一に結果論として、同じ「反原発」「反核」「反基地」を唱えているというそのわかりにくさのいらだたしさである。

 そして、「緑の」「みどりの」と狂ったように「みどりの」を連発して離合集散を繰り返す様は、まさにマルクス主義の崩壊の阿鼻叫喚としか言いようが無い。

 結句、社会民主党が総崩れになり、いまさら日本共産党にも戻れない新左翼のなれの果てが、「ヨーロッパでは1980年の旧西ドイツにおける「緑の党」(直訳では「緑の人々」)結成(政治的組織化の動きは1970年代後半から)であり、その後フィンランドベルギーオランダフランスなど欧州各地で次々と結成されていった。」(ウィキペディア)とされるヨーロッパの緑の党興隆へのすがりつきである。

「1970年代から世界各国で台頭してきた、エコロジー反原発反核軍縮反戦人種差別撤廃、脱物質主義、多文化主義消費者保護、参加型民主主義草の根民主主義も参照)、フェミニズム社会的弱者人権などをテーマにした「新しい社会運動」の流れで結成が進んだ政治勢力。出身者の多くが市民運動家環境保護に関心の高い市民であった。」(ウィキペディア)という欧州の思想潮流をそのままなぞっているわけだ。

 こうした日本左翼の馬鹿げた果てしない分裂にかてて加えて、朝鮮総連、民団、が日本の国会議員に影響力を持っている。

 民団は2009年、「外国人在留管理制度」について公明党法務部会に押しかけて、在日韓国人への配慮をしろと、圧力をかけている。

 2009年6月13日には、「在日本大韓民国青年会」は「反日上等」、「日の丸にハーケンクロイツ」を描いた旗を掲げたデモに参加。凶暴に一般国民を恫喝している。

 

 また民主党に対してはパチンコ産業の保護、外国人参政権の付与等に関して、圧力をかけ、また抱き込みをはかっている。

 

 2007年12月19日、民団幹部と創価学会会長が永住外個人の参政権付与について、創価学会が支援を約束したことは非常に重い事実である。

 2008年には自民党田中和徳が民団の集会に出席。「地方参政権実現に努力する」と約束した。

 このようにして、非日本国籍者が、非日本国籍者でない立場を堅持しつつ日本の国政を左右しようという奇怪な行動に邁進しているのである。

 民団の幹部には、次のように、慰安婦問題について、分裂した見方が存在し、一枚岩ではない。

 大きく分けて、2017年に台頭してきた考え方は、「20万人」「少女の被害」「というのは、あまりに誇張の度が過ぎていて、抗議するにしても、もっと史実を直視しよう、また、「強制連行自体も疑問」というかなり率直な態度を示す兆しが出てきた。

 一方では、2007年8月29日、米国下院決議による「日本政府は慰安婦強制連行を認め、謝罪せよ」という決議を肯定的に、日本国内の在日韓国人に紹介して、日本人への憎悪、侮蔑意識を在日韓国人の子弟に扇動したのは、民団の指導部の悪質性を示す。

 彼ら民団の中の悪質な民族主義者は、日本=凶悪、韓国人=「善人と正義の民族」という幻想に凝り固まったあげく、朝鮮人性風俗業者と女性をないがしろにした朝鮮半島の親たちが娘を身売りに出したその残酷性の問題を一顧だにせず、すべては日本人が悪いというように、真実性を無視した曲がった人間教育を子弟に施して恬として恥じない。

 ただひたすら、日本における在日韓国人の立場の防御のために、史実を曲げてまで、日本人を悪逆非道の者と誇張して、かえって自分たち韓国人の子弟の人生観を奇矯で偏屈な者にしてしまっている事に気づかない。

在日韓国人連合会」韓人会は、大久保地域に飲食店、その他を開業するために、1980年以降に来日した在日韓国人を中心とする日本全国の「ニューカマー」韓国人の親睦団体である。1980年代に来日し、日本で商業活動をはじめた韓国人家族は20万人といわれる。

 「在日韓国人連合会」韓人会は、日本の法律を遵守する、と歌っているが、民団は、日本の法令を遵守する、と明記しないにかかわらず、一方で民族国家大韓民国憲法を遵守するとうたっている。

 それでいて、某氏は、「日本は日本人だけの国ではなく、日本国憲法の国民は「人民」の誤訳だと言って、憲法を恣意的に解釈して、日本国憲法を自らに都合良く解釈する言動さえみられる。(個人名、実名を書くと、訴訟をうける可能性があるので、控える)

 「在特会」は結果的に民団、総連のような日本国に対して悪質な政治介入を継続する在日団体とは異なる背景を持つ韓国系外国人に対して強烈な罵声をあびせていたことになる。

 

親北朝鮮派の金大中支援に積極的な一派が日本の民団の中に湧いて出て、そこから、始まったのが、「在日韓国民主統一連合」

この団体を韓国政府は、「反国家団体」としている。

なんとこの平和国家日本には、隣国韓国が「反国家団体」と正式に規定し、敵視する団体が、のうのうとお気楽に存在して太平楽に活動している。

 まるで日本共産党民進党のように政策は同じなのに、わざわざ二つの党があるように、「朝鮮総連」「韓統連」とうふたつの団体がひとつになりもせず、ふたつながら、韓国政府に敵視されているのだ。

 

 彼ら「在日韓国民主統一連合」は、韓国の「国家保安法」に反対して、韓国の労働組合組織の見解を反国家的考えに向けて誘導するべく工作し続ける。

 その結果、北朝鮮の優位性を保持、促進し、韓国を弱体化することが、未来の平等な社会実現につながると狂信しているのである。

 姑息なのは、朝鮮総連とは統一せず、あくまでも韓国籍保有者の在日韓国人民主化運動と称して、その実、北朝鮮に有利に情勢誘導するための工作機関と言っていい。

 

 1970年、「在日韓国民主統一連合」は、民団の「在日韓国青年同盟」を陣営に引き込んで、後世代の在日韓国人反韓国財閥、反保守の左翼思想に引き込もうと画策する団体である。

 朝鮮総連

 朝鮮総連は、一党独裁国家朝鮮民主主義共和国が、国民の自由を大きく損なって、「成分差別、出身差別」を行う身分差別社会である。

 日本、米国の場合、身分、出身に関わりなく、個人が、仮に貧困家庭に生まれても、多大な努力を重ねれば、人並みの暮らしを築く事は可能ではある。

 たしかに、日本、米国でも、貧困家庭に生まれれば、富裕な家庭に生まれた場合よりも多大な努力を強いられるだろう。しかし、中国、北朝鮮、では、共産党員が親であるか、否かで、すでに一生の境遇が努力、才能の如何に関係なく決定づけられると言っていい。

 そうした理不尽な社会を変えようと立ち上がれば、日本、米国の場合、言論の自由があり、反政府的言動ゆるにかえって一生、知識人として大きな収入と地位を得、道徳的に社会的尊敬を得ることさえありうるが、中国、北朝鮮で、政府を批判することは、政治犯収容所に収監されて強制労働を強要されて、職業を剥奪され、家族全員が飢えに直面することを意味する。

 さらに罪のない日本人拉致被害者を家族の切なる願いを無視して、拘束し続ける北朝鮮指導者のどこに正当性があろう。

 このような反自由、反人間性北朝鮮政府を露骨に支持し続けるのが、朝鮮総連であり、彼らの子弟をウソの教育でもって、北朝鮮社会の非人道性、反自由性、反人間性を隠蔽し続けているのが朝鮮総連である。

 その証拠に、2017年5月、東アジア空手道選手権でも、日本の朝鮮総連は、栃木の中学3年生と朝鮮大学2年生を「朝鮮国家代表選手」として出場させているのである。

 金正恩というただの一政治家一族が、司法立法行政すべての権力を掌握し、行使する文字通りの独裁主義者の国家、地方国民が極貧にあえぎ、政治的発言の一切許されない非道国家の代表選手にして真実を教えない異常な団体と言わないわけにいかない。

 

 「在日韓国民主統一連合」とは、北朝鮮の非道性、反人間性に気づいた朝鮮人が、韓国籍に移動して、北朝鮮を見捨てた時、左翼共産主義者が、韓国、および在日韓国人の新世代を共産主義反財閥思想に引き戻すために開発した新たな工作と思われるのである。

 

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朴裕河著 帝国の慰安婦 書評 1

 朴裕河パクユハ 「帝国の慰安婦」2014年11月30日

  

 痛恨の歴史は、各国にある。いたましい暮らしを送り、つらい人生を生き抜いた人々の歴史は、どの国の国民にもある。  韓国人ばかりが辛いのではないが、韓国人には、なにやら、世界で最も辛い過酷な運命を負ったのは、自分たちだと言っているかに見える。

  1.1990年代に問題となって20年以上経過した。  

 2.植民地支配に対してに謝罪の気持ちを慰安婦問題に込めて、日本がその気持を示してほしい。国会決議が望ましい。  

 ※韓国政府は法的責任の受認と措置を求めているが、法的責任ではな、国会決議によって、謝罪するのがいい。

というのが、朴裕河パクユハの主張だが、これは、自民党が党として、謝罪を是認することを意味するので、ありえまい。その意味では朴裕河パクユハは、南北が和解してほしい、アホみたいに言うほどの非現実的な望みを平気で言っていることになる。

  

 3.1965年に作られた映画「サルビン江の夕焼け」は、元朝鮮人学徒兵が40代の頃(1965年)に作られた。40代の彼らは、当時の記憶を持っていたが、映画の中で、朝鮮人の将校は、朝鮮人慰安婦慰安所「自発的にきた」と思っている。

  

 「4.少なくとも、1960年代には、韓国人自身が、慰安婦は自発的なのもの、と考えていた事は事実だ。  

 5.(朴裕河は、非常におもしろい事を言っている。「朝鮮人慰安婦強制連行されたのではないし、だましたことがあっても、だましたのは、朝鮮人業者だった。しかし、連れてきた背景は、日本帝国主義、と。)

※ 日本帝国主義だというなら、大韓帝国帝国主義ではなかったのか。

そう、弱いから、帝国主義ではないのだが、では、大韓帝国は民主的な良き国だったのだろうか。もちろん、そんなことはない。

 朴裕河は、「慰安婦は自発的な動員だ」と明記する。

  その上で、朝鮮人兵士には、傷病補償があり、平等に靖国に祀られるのに、慰安婦には補償がなかった、という。

  

 ※わたしに言わせれば、大企業や国家公務員には、大きな退職金、年金、ボーナスがあるが、場末の出前持ちや工場の職人にはない、という事と同じ話で、気の毒といえば、気の毒なのだが、なにも、慰安婦に限った気の毒な境遇ではない。  

 6.朴裕河は、日本に対する法的責任を追及する筋目はないのだという。上記の認識から言っても、朴裕河のいうのは、思いやりの表明で、解決しよう、という主張と言っていい。ならばなにも、「国会決議などという無理な案」を出すべきではないだろう。

 なにしろ、悪いのは、だました、朝鮮人業者。売った朝鮮人の親。

  

 7.(朴裕河の認識はかなり正確な認識だと言っていい。しかし、その認識の精妙さを、残念ながら、多くの人々は理解できないのではなかろうか。というのも、朴裕河の言い分を理解した日本人が朴裕河の主旨のとおり、慰安婦のおばあさん、大変でしたでしょうとねぎらったとしても、韓国国民の多くは、20万人強制連行を認めるか、認めないかにこだわるのではないか。朴裕河は正しいのである。しかし、韓国人の多くが20万人説の誤りに気づく事はあるまい。

  

  朴裕河は言う。日本は、個人賠償にしようと言ったのに、韓国政府が代表して受け取ったと。業者が媒介したのであって、軍隊が強制したのではないことは、明記している。  

 8.朴裕河は、日本の左翼は、韓国女性の事を言う前に、日本人慰安婦の事をおもえ、という。これまた、真実ではないか。  

 9.朴裕河の主張は、そのすべてに賛成するとはいえないにしても、「慰安婦20万人」とか、「強制連行」などというウソと誇張のほとんどを明確に否定している点で、貴重なのであるが、まさに、韓国社会は、この朴裕河の著書を出版禁止という形で拒絶している  

 10。(慰安婦のおばあさんたちが、「挺身隊としてだまされて強制連行された、仲間は20万人いた」と言っているわけではなく、また、おばあさんが主観において、被害者意識を持ってもそれ自体、同情に価するのである。問題は、日本と韓国の左翼が、おばあさんたちの人生を利用している事なのだ。)  

 11.朴裕河の認識の中で、間違いを指摘しておかなければならない。  

吉田清治証言」は韓国人の多くは知らない、と言うのだが、韓国人の多くが知っているかどうかではなく、韓国の知識人、ジャーナリスト、作家、脚本家に吉田清治の著書は大きな影響をおよぼし、強制連行を確信した原因になった、という事が問題なのだ。そして、その吉田清治証言を後押ししたのが、朝日新聞なのである。  

 12.朴裕河の知る慰安婦のおばあさんは、日本を許したい。日本を非難したくないと言ったという。  

 13.韓国の慰安婦問題は、女性学者ユン・ジョンオク教授の「挺身隊取材記」によって、はじまった。ユン・ジョンオクが挺身隊対策協議会の初代会長になった。  

 出発当初から、工場労働の挺身隊と風俗売春業の一部を混同していた。  

 14.村山内閣は、「総理の手紙」と日本国民から募った「200万円のつぐない金」によって、謝罪の意を表そうとしたが、それでいいとする慰安婦のおばあさんを押しとどめて、支援団体は、「国会の法制定による賠償金を求めるとともに、国際戦犯法廷を開いて、天皇有罪判決を出す。」と、朴裕河  

 15.2006年にいたって、韓国政府が個人補償の分を韓国政府が受け取っていたことが明らかになり、この年から、韓国政府から、慰安婦のかたがたに補償をすることになった、と朴裕河  

 16.その後も、謝罪の国会決議と法的賠償措置の要求が続くが、朴裕河自身は、「謝罪の国会決疑」だけでいいという。(私自身は、謝罪の国会決疑はいらないと思う。なぜなら、近現代の地方の貧困生活にしろ、現在の貧困国の悲惨な飢餓状況にしても、謝罪の問題だとは思えない。経済政策の失敗の結果を謝罪したからといって、失業がなくなるわけではないのである。)  

 17.朴裕河は、きわめて適切にも慰安婦問題の起源を1973年の「千田夏光従軍慰安婦声なき女8万人の告発」だとしている。 

 ここで、まず、「従軍」という言葉が付加され、造語された。「従軍看護婦」や「従軍記者」は史実だが、「従軍慰安婦」は、史実ではない。

 18.朴裕河は、千田夏光も、朴裕河自身も、慰安婦とは、愛国者だったのだ、という。  

 (その通り。当時、朝鮮の人々も、日本人も愛国者であった。それは、慰安婦に限らない。多くの職業人が、愛国者だった。国が滅びるかもしれず、同胞が戦死していたからである。このことは、風俗業であることと矛盾しない。食堂のおばさんでさえ、当時、ご武運を、と言っていたはずであるが、食堂のおばさんが、空襲で焼け出される場合の補償を、愛国者のもとに、単なる食堂のおばちゃんではない、と言い張り、軍人同様、補償せよ、というのも、どこかずれている。それと同じ錯覚を千田夏光朴裕河もしている。慰安婦とは、単に売春婦なのではなく、ともに国を思った愛国者なのだ、と。だから、補償されるに価するというのは、飛躍している。  

 19.朴裕河は書く。朝鮮人業者が、「ヒマの日は、君たちがちゃんと働かないからだと容赦なくぶんなぐった」と。(この記述は、朝鮮人業者の気質を証しており、仮に日本人が朝鮮半島にかかわらなくても、朝鮮では鮮の金持ちをもてなせと、朝鮮の女性がなぐられていただろうことを容易に想像させる。頬を打ち、足で蹴り、と言うのだが、韓国ドラマ「名家の娘ソヒ」では、両班小作人を足でこづく場面がある。日本で、使用人の頭を足でこづくなど、聞いたことも見たこともない。)  

 20.朴裕河は、当時の朝鮮半島の新聞を引用して、朝鮮人は、幼い少女をだまして連れて行っては、人身売買したと書く。それなら、朝鮮の人々は、日本帝国主義にのっかって、抵抗することもなく、やりたい放題の事を同じ朝鮮の子どもたちに、していたことになる。  

 21.日本に行けば、よい暮らしがある、と云われて、行った日本には、朝鮮人夫婦がいて、女郎に売られた、というのだ。これで、朴裕河は、日本帝国主義に抵抗しなかった朝鮮民族自身の道徳的責任に気がつかないのだから、残念千万だ。  

 もしかすると、朴裕河は、全面的に、日本無罪論を展開すれば、とうてい韓国社会が受け入れない事を察するゆえに、中身は史実としての日本弁護を書き、拒絶されないように、「日本帝国主義」が原因を作ったと書いたのではないか、と思われるフシさえある。  

 22.朴裕河は、日本の責任は、「強制」ではなく、「黙認」にある、と言う。わたしもそれには、賛成だ。そして、この理解が共通理解になる時、アメリカも、韓国(朝鮮戦争ベトナム戦争)も、ヨーロッパ諸国も、皆同じか、それ以上の罪を犯しているという認識に立つことができる。したがって、朴裕河の認識が韓国で理解されればどんなによいか、と思う。

 だが同時に朴裕河は、「日本の責任が黙認にあるとすれば、他国も罪を免れないか、もっとひどい事をやった」というべきではないのか。

  

 23.朴裕河は、軍の需要に応じた朝鮮の風俗業者が、悪質に朝鮮人女性をだました事を許すことはできない、と言う。「糾弾すべきは、朝鮮人業者だ」朴裕河32ページ。  

 24.日本帝国主義の犯したのは、「倫理的な罪」だが、朝鮮人業者の犯したのは、「違法な犯罪」だという。だが、違法なばかりではなく、道徳的にも大罪であろう。  

 25.朴裕河は、日露戦争以降、日本の地方の貧しい家の女性たちが、からゆきさんとして、東南アジア、朝鮮、満洲身売りしていった事を書くが、そうした悲惨な境涯は、アメリカ、中国、インド、ヨーロッパ、中東、アフリカ各国にあったことも忘れてはならない。アジア以外の諸国が家父長制にしばられていないために、女性の人権が守られていたと考えたら、大間違いなのである。

続く

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テロ等準備罪と日本人共産主義者の残虐性

日本共産党中核派革マル派の暴力性

中核派革マル派の考えの本質

 

革マル派の基本的発想

森茂「現代革命の条件」革マル派1969年

「既成の国家権力を打倒していくことにおいて決定的に重要なことは、その主体の革命的組織化であり、ソビエトの強固な組織化である。暴力はこの革命の主体が革命を遂行する過程において発揮する機能なのである。」

「街頭武闘とテロをするのではなく、組織を固める」

※組織を固めて、政権を奪取したその後に、激烈に財閥家、資産家、大地主、反対知識人を処刑する、という意味。

 

 中核派の基本的発想

革マル派は、「革命は困難である→革命は当分やってこない」として、革命を先の事、対岸の事として、党組織によりどころを求め、無限の未来に追いやっている。」

 

 「そのときにおける諸情勢と力関係の下で最も焦点となっており、ぶち破らねばならない階級戦の環を探り当て、大胆不敵に戦闘しぬき、その成果を職場や地域に結実させ、生産点における直接の反乱も可能な現実的力関係を創造し、最終的には一斉武装蜂起に立ち上がる」

 

 以上のような考えのもとに、彼ら極左集団、すなわち、資本主義市場経済の完全否定のために、政権を奪取しようとする集団は、「沖縄基地闘争」「反原発」「9条護憲」を行っている。

 民進党共産党、に混在して、である。

 

 NHK、TBS,テレビ朝日の姿勢の気持ち悪さは、そのスタッフがそれぞれに、民進党シンパ、共産党シンパ、革マル派中核派創価学会員などが混在しているゆえの気持ち悪さなのである。

 

 またどのコメンテーターにせよ、朝日新聞毎日新聞の社説を反芻しているタイプ、民進党共産党シンパ、革マル派中核派創価学会員なのか、判然としない。というのは、民進党共産党シンパ、革マル派中核派創価学会員は、護憲、反戦という点では、みな、結論は同じだからである。

 

 1984年8月4日 海老原俊夫東京教育大学三年生虐殺事件

 4日早朝、新宿更生年金病院玄関前に上半身裸の撲殺された若い男の死体が転がっていた。検死したところ、角材、鉄パイプ、金槌、で殴打され、キリのようなものでついた跡が20カ所以上あった。両眼ともつぶされていた。

 被害者は革マル派の活動家で、中核派の学生集団にリンチを受けて殺害されたのである。

 戦前の特高の拷問でも数例しかない虐殺でも、これほどの残虐なやり口ではない。

 共産主義者平和運動、平和主義、9条護憲の活動の裏面にはこのような残虐行為におよぶ心情をふとこっているのである。

 

 日本共産党の「民青」の暴力性も際だっていた。暴力闘争を放棄して、議会制民主主義に参加すると言っている共産党は、国民の知らないところで、凄惨な暴力事件を起こしていた。

 

 「文藝春秋」1969年3月号

全共闘学生座談会」

「(東京大学の)「民青」のリンチは凄惨ですよ。私のしっている人は、夜の12時半につかまって、4時間もやられた。もともとほっそりしている人が、顔の原形をとどめないくらいにふくれちゃった。」

 右翼学生がここまでするだろうか。やくざ極道でさえ、これほど残虐でないかもしれない。

 革マル派もまた、反戦連合の学生が革マル派の邪魔だというので、「テロ」をしている。

 1975年8月号月刊「現代」稲垣真美「続全共闘活動家はいまこうしている」

「学内で鉄パイプで殴られ、蹴られたりして、肋骨を二、三本折られた後、トラックに載せられて半分意識不明のまま、気がついたら埼玉県の狭山の山道を走っていた。

 いっしょにテロられた仲間は、一人一人道路わきに放り投げられ、最後はぼく一人です。そしてぼくも山中に捨てられた。」

 

 同じ時、テロを受けた女子学生はその後、自殺した。

 

 北野武監督「アウトレイジ」さながらの暴力性である。

 むしろ、中核、革マル日本共産党の青年部の暴力性のほうが、実際には凄惨なのではないか。

 

 1984年8月14日には、当時中核派の最大拠点だった法政大学に、中核派のヘルメットをかぶった革マル派40人と一般学生をよそおってキャンパスにたむろしていた200人の学生がいっせいに革マル派のヘルメットをかぶって30人の中核派を制圧。

 そのうち、10人の中核派学生を拘束して凄惨なリンチにかけた。

 「手足にキリのようなもので突かれている者もおり、4人が重傷。学生達は電気コードで足をしばられ、後ろ手にしめられて、イスから逆さづり。

 すぐ隣の学生は頭からすっぽり白いビニール袋をかぶせられて目隠しされ、両手から血を出してのたうち回る。」朝日新聞

 1970年には大阪万国博覧会があり、大学の学内では、学生運動が衰退したが、新左翼は過激性を増していった。

 

 極左共産主義者日本共産党共産主義の共産)の爆弾闘争は、

 69年に11件爆発した。

 70年に9件

 71年に37件が実際に爆発している。

 1970年3月31日には、共産主義者同盟赤軍派9人が日本航空351便に乗って、乗務員を制圧して、北朝鮮に行くよう、強要する事件が起きた。

 目的は北朝鮮で革命活動の訓練を受けて日本政府の破壊工作に従事すること。

 実際にその後彼らは、日本人旅行者の拉致を実行した。

 共産主義革命の妄念にとりつかれて、無辜の生活者の一生を北朝鮮に拘束するよう、仕向けたのである。

 1970年12月18日赤軍派が板橋で交番を襲撃して、拳銃を奪おうとする。

 71年2月17日、栃木県真岡市で京浜安保共闘により、銃砲店が襲撃されて、ライフルが奪われて、これが連合赤軍軽井沢銃撃戦に使われる。

 

 71年6月17日 明治公園で開かれていた沖縄返還調印阻止の集会で警官に鉄パイプ爆弾を投げ込み、37人の警官が負傷する。

 

 71年8月22日 麹町の警視総監公舎に時限爆弾を仕掛ける。

 1972年2月19日には、連合赤軍あさま山荘たてこもり事件によって、

 1974年には、「反日武装戦線狼」が東京駅に近い丸の内の三菱重工本社ビルを爆破して、負傷者376人、死者8人が犠牲になった。

 これはアメリカの911同時多発テロが国際貿易センタービルを狙ったと同様、三菱重工という日本の代表的民間企業をねらって、結果として罪のない生活者の命と平穏な暮らしを侵害したのである。

 この時、犠牲になったのは、

51歳の三菱重工主任。

41歳のデザイン会社役員。

38歳のメーカー所長代理。

23歳の会計士事務所事務員

49歳の鉱業会社社員

50歳の三菱重工社員

 こうした犠牲者について、2017年5月のテロ等準備罪法案では一顧だにされず、忘れられた人々になってしまった。

 この事件の公判予定日である1982年10月29日に、当時銀座と新橋の中間にあった南部小包集中局で、、小包の局内搬送中に突然小包が爆発して郵便局職員が片腕を切断する結果となったが、この事件については、三菱重工爆破事件の衝撃があまりに大きかったためか、インターネットで検索しても出てこない。※三菱重工爆破事件の「その他」として記述。

 

 しかし、ひとりの罪のない郵便局員が片腕を失う事になったことは重大である。また、運転助手は内蔵破裂の重傷を負った。

 1975年8月4日、クアラルンプール事件では、日本赤軍が、マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館職員50名を武装して拘束。

 人質にして、日本政府に対して極左テロリストの釈放を強要した。

 1975年9月4日、中核派テロリスト3名が横須賀綠荘で消火器爆弾を密かに製造中に誤爆して、隣室の住民2人を巻き添えにして死亡させた。

 

 1977年9月28日、日本赤軍が、インドのムンバイ空港を離陸したパリ行きの日本航空472便を拳銃、手榴弾で制圧した。ダッカ事件

 妊婦、病人なども含め、多くの罪のない乗客を恐怖のどん底に陥れて、彼らは、要求を吞まなければ、乗客をひとりづつ殺害すると言った。

 要求内容は、16億円と収監中のテロリストの引き渡しであった。

 

 この時代に幼児だった世代を含めて以降の世代は、2017年においてもっとも年長な者で50歳である。つまり、2017年の日本とは、50歳から20歳までの社会の中心になっている世代が、共産主義者の暴力性、破壊性について、まったく無知無防備な世代なのである。

 

 日本共産党小池晃は1970年に10歳であったから、共産主義者の暴力性についてまったく実感が無かったと言っていい。

 山尾志桜里は74年生まれなので、共産主義者がどのように暴力的なのかまったく、実感がない世代とっていい。

 辻本清美は60年生まれだから、70年には10歳である。

 ちなみに蓮舫は67年生まれで、70年の左翼の凶暴性をまったく知らない。

 

 玉木雄一郎は69年生まれである。

 有田芳生は52年生まれであるから、74年の三菱重工爆破事件当時、22歳で、18歳には、日本共産党に入党、立命館大学の学生であった。そして、有田芳生は、ダッカ事件のあったその年、日本共産党関連出版社「新日本出版社」に政治的縁故入社している。

 

 有田芳生は、日本共産党員のまま、フリーランスの記者になり、日本共産党員という立場を利して、「朝日ジャーナル」で記事を書き、そのうち、「日本共産党への手紙」というどうでもいい本を編集したことが、日本共産党中央の逆鱗に触れて除名処分を受けるが、統一原理教会やオウム真理教などの俗受けする話題の専門家然として日本テレビ、TBSに重宝されて、これが国民に名前を売るきっかけになって、参議院議員になった。

 

  中核派は「成田空港反対三里塚闘争」「北富士演習場反対闘争」「部落解放同盟」「在日朝鮮人」「在日中国人」「被爆者」「「身体障害者」「フェミニズム」「護憲」「反原発」「沖縄基地反対闘争」等あらゆる反政府運動に介入してきた。

 この手法は、福島瑞穂、辻本清美、日本共産党朝日新聞なども同じ事である。

 興味深い事に「革マル派」も「日本共産党」もソ連を否定しているには変わりがない。共産主義を否定しさる立場からすれば、ソ連を否定しようが否定するまいが、共産主義すなわち市場否定だけでも、とんでもない過ちなのだが。

 「革マル派」は、「日本共産党」が一党独裁の労働者の国家を実現するための暴力統制自体をも放棄したニセの革命党派だと断じた。

 たしかに、日本共産党は、決して一党独裁を目指しません、国民が圧倒的多数の支持を日本共産党にくれる場合をのぞいては、と言っているのだから、革マルにとっては、ありうるはずもない国民の圧倒的多数の支持などというウソを言う時点で日本共産党は詐欺に見える。

 

 そこで、革マル派は、ある程度の規模まで日本全国の労働組合と学生組織を革マル派で固めたら、創価学会公明党を国会に送り込むように、革マル派労働組合国会議員という順で送り込み、過半数を掌握したら、一気に警察権力を掌握して反対派を弾圧して労働者の国家を樹立してしまおうというのである。そのためには、中核派のように、過激な街頭闘争をしていては、労働者が革マルに加入しないから、合法的活動にとどまりつつ、組織を拡大しようとした。

 

 だが、この思惑は、日本の青年層の関心をひかず、いつまでたっても、日本共産党労働組合と旧社会党民社党労働組合のシェア優位のままに、すべての労働組合員が減少してしまうだけの結果に終わり、いまや、街頭デモは旧革マル派の老人元組合員が合法的に行うものだけに収束しつつある。

 

 やがて元革マル派の老人、日本共産党労働組合の老人たちがが寿命を迎えてこの世から消える時、街頭デモはなくなるのでは無いか。あるいは、再び民青から反旗を翻す新種の革命党派があらわれるかもしれないが、それも必ず、「中核派」「赤軍派」のようなテロリズムに走るか、日本共産党イデオロギーの異なる、しかし、合法行動を守る方向に進むしかあるまいと思われる。要するに日本共産党社会党革マルにとって、大きな誤算は、新しい世代の労働者が、なべて「労働組合」を忌避するようになるとは、夢にも思わなかったということだろう。

 

 

 

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左翼といわれると、怒るけれど若い頃は左翼「党派」だった人たち

日本には、次のようなマルクス主義者がいる。

この吉本氏の思想は、死後、見向きもされなくなったし、ますます見向きもされなくなるだろう。

 この吉本氏よりわずか一歳年少の黒田寛一が29歳の時、日本共産党を否定し、なおかつソ連トロツキーを教祖とする共産主義組織、オウム真理教のような結社、を作った。

 

 この黒田寛一、何のことはない、父親府中市の医師会会長で資産家だったから、病気で大学を中退してもなんら困らず、働く必要もなく、ただ読書三昧のおぼっちゃんだったが、なぜか、マルクストロツキーに凝って、後に日本の青年、そして、長じれば中年、高年になる者たちを反日共産党系革命運動に誘うのである。

 

 いわば、1956年頃から、ソ連スターリン批判を知って、スターリンはダメだが、マルクストロツキーはいいと言う理屈を考え出したぼっちゃんのひまつぶしに大勢の優秀な秀才がひきずりこまれたのである。

 その時、黒田寛一日本共産党のことを「腐敗しきったスターリン主義者党」と盛んに批判したが、日本共産党もまた、「ソ連スターリンを偽物の社会主義者」と批判した。

 

 この時、反スターリンで、日本共産党を見限って、なおかつマルクスは死なずという発想で盟友関係になったのが、太田竜黒田寛一

 この二人が分かれて、太田竜アイヌ解放運動に力をいれ、このアイヌ解放運動の基礎があって、これが辛淑玉の興味をひいたのではあるまいか。

 

 そして、辛淑玉は、朝鮮民族アイヌ民族少数民族なら、沖縄の琉球少数民族とみなせばよいのではないか、と発想したのだろう。

 

 一方で太田竜日本共産党を口先だけの反スターリンで、本物の革命を実行する気はないものと見て、社会党乗っ取り計画を立てるが、これはしりつぼみになる。

 

 1955年に日本共産党が武装闘争方針を放棄すると、その直後に入ってきた学生たちは、社会主義の運動を日本共産党に指導されて、そんなものかなとばかりに、歌声運動で、ロシア民謡を歌ったりして、盛んにソ連との融和を醸成していたのである。

 韓国との協調を盛んに公明党がやりたがるみたいに。

 話はそれるが、韓国との協調運動や日本の素直、従順な謝罪姿勢は、韓国の左翼にとっては都合がわるい。日本の資本が韓国の資本と良好な関係になるからである。

 そこで、韓国の左翼としては、できる限りあくどく、日本に謝罪要求をして、日本側に反発させたいのである。そして、日本の公明党自民党リベラルは韓国の保守が、韓国左翼に扇動された国民に指弾されないように、に気をつかって、慰安婦問題に譲歩しようとするわけだ。

 

 2017年現在、日本共産党狂信者の考え方は、はっきりと「反米愛国」を自覚したものである。

 まず、社会主義革命の前に、日米安保を廃棄して、日本のアメリカに対する従属を解決してから、社会主義に向かう、というのである。

 そのため、盛んに、アメリカの拝金性、好戦性を非難するが、従属を脱するという妄念にとりつかれているために、中国の軍事主義には一切関心がない。

 

 この日本共産党の基本路線の起源において、島成朗らブントの創始者は、60年安保条約は米国の日本防衛義務を課したものだから、日本はすでに独立している、もはや従属していると言えない。日本の国家権力そのものに対抗するべきだ、とかなんとか、そういったようなことを考えて反日共産党共産主義団体をたちあげた。西部邁がその時、そこまでわかってブントに入ったかは不明。

 ※島成朗なりおは、日本共産党の東京都委員で、武装闘争の責任者でもあったが、日本共産党と袂をわかつ。

 

 「思想の科学」を鶴見俊輔丸山真男都留重人武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子、久野収共産主義者が文化運動を始めて、ここから、佐高信上野千鶴子が育っていくことになる。

 

 だから、現在の「反核」「反原発」「反差別」「護憲」は、かつて1946年から1960年にかけて、日本共産党日本社会党、ブント、中核派革マル派革労協などそれぞれに敵対関係にあった左翼諸党派がかつての先輩達の血で血を洗う抗争をすっかり忘れたか、あるいは知らずに、一路、自民党政権を倒すことに心を合わせて闘っている状態なのである。

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左翼といわれると、怒るけれど若い頃は左翼「党派」だった人たち

日本には、次のようなマルクス主義者がいる。

この吉本氏の思想は、死後、見向きもされなくなったし、ますます見向きもされなくなるだろう。

 この吉本氏よりわずか一歳年少の黒田寛一が29歳の時、日本共産党を否定し、なおかつソ連トロツキーを教祖とする共産主義組織、オウム真理教のような結社、を作った。

 

 この黒田寛一、何のことはない、父親府中市の医師会会長で資産家だったから、病気で大学を中退してもなんら困らず、働く必要もなく、ただ読書三昧のおぼっちゃんだったが、なぜか、マルクストロツキーに凝って、後に日本の青年、そして、長じれば中年、高年になる者たちを反日共産党系革命運動に誘うのである。

 

 いわば、1956年頃から、ソ連スターリン批判を知って、スターリンはダメだが、マルクストロツキーはいいと言う理屈を考え出したぼっちゃんのひまつぶしに大勢の優秀な秀才がひきずりこまれたのである。

 その時、黒田寛一日本共産党のことを「腐敗しきったスターリン主義者党」と盛んに批判したが、日本共産党もまた、「ソ連スターリンを偽物の社会主義者」と批判した。

 

 この時、反スターリンで、日本共産党を見限って、なおかつマルクスは死なずという発想で盟友関係になったのが、太田竜黒田寛一

 この二人が分かれて、太田竜アイヌ解放運動に力をいれ、このアイヌ解放運動の基礎があって、これが辛淑玉の興味をひいたのではあるまいか。

 

 そして、辛淑玉は、朝鮮民族アイヌ民族少数民族なら、沖縄の琉球少数民族とみなせばよいのではないか、と発想したのだろう。

 

 一方で太田竜日本共産党を口先だけの反スターリンで、本物の革命を実行する気はないものと見て、社会党乗っ取り計画を立てるが、これはしりつぼみになる。

 

 1955年に日本共産党が武装闘争方針を放棄すると、その直後に入ってきた学生たちは、社会主義の運動を日本共産党に指導されて、そんなものかなとばかりに、歌声運動で、ロシア民謡を歌ったりして、盛んにソ連との融和を醸成していたのである。

 韓国との協調を盛んに公明党がやりたがるみたいに。

 話はそれるが、韓国との協調運動や日本の素直、従順な謝罪姿勢は、韓国の左翼にとっては都合がわるい。日本の資本が韓国の資本と良好な関係になるからである。

 そこで、韓国の左翼としては、できる限りあくどく、日本に謝罪要求をして、日本側に反発させたいのである。そして、日本の公明党自民党リベラルは韓国の保守が、韓国左翼に扇動された国民に指弾されないように、に気をつかって、慰安婦問題に譲歩しようとするわけだ。

 

 2017年現在、日本共産党狂信者の考え方は、はっきりと「反米愛国」を自覚したものである。

 まず、社会主義革命の前に、日米安保を廃棄して、日本のアメリカに対する従属を解決してから、社会主義に向かう、というのである。

 そのため、盛んに、アメリカの拝金性、好戦性を非難するが、従属を脱するという妄念にとりつかれているために、中国の軍事主義には一切関心がない。

 

 この日本共産党の基本路線の起源において、島成朗らブントの創始者は、60年安保条約は米国の日本防衛義務を課したものだから、日本はすでに独立している、もはや従属していると言えない。日本の国家権力そのものに対抗するべきだ、とかなんとか、そういったようなことを考えて反日共産党共産主義団体をたちあげた。西部邁がその時、そこまでわかってブントに入ったかは不明。

 ※島成朗なりおは、日本共産党の東京都委員で、武装闘争の責任者でもあったが、日本共産党と袂をわかつ。

 

 「思想の科学」を鶴見俊輔丸山真男都留重人武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子、久野収共産主義者が文化運動を始めて、ここから、佐高信上野千鶴子が育っていくことになる。

 

 だから、現在の「反核」「反原発」「反差別」「護憲」は、かつて1946年から1960年にかけて、日本共産党日本社会党、ブント、中核派革マル派革労協などそれぞれに敵対関係にあった左翼諸党派がかつての先輩達の血で血を洗う抗争をすっかり忘れたか、あるいは知らずに、一路、自民党政権を倒すことに心を合わせて闘っている状態なのである。

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テロ等準備罪と左翼思想の残虐性と暴力性

日本人社会主義者テロリズムの危険性、残虐性の本質

 1968年から1969年にかけて台頭した大学卒業生出身の共産主義思想党派に属する暴力行動を伴う活動家は1969年時点で5万3千5百人いたとされる。

当時20代だった彼ら5万人の暴力を辞さない共産主義者は当時北朝鮮への共鳴者でもあった。そして2017年には、彼らは70歳前後になっているはずだが、今頃、なにを思うのだろうか。反原発集会に出ているおじいさん、おばあさんなのだろうか。

1975年3月

中核派の書記長、本多延嘉が埼玉県東川口のアパートで待ち伏せされ、(工業用ハンマーで後頭部を馬乗りになって、滅多打ちにする場合が多かった。)殺害される。

前川全学連委員長、まさかりで頭を強打されるが、一命はとりとめる。

 

 7,8人が集団になって、目星をつけた他の政治党派の幹部がひとりになったところを狙って、パンストで覆面をして、鉄パイプ、ナタ、手斧、包丁で襲撃するのである。

 このテロは殺害を目標としたのではなく、瀕死の重傷を負わせて、相手に政治活動から手をひく気にさせることが目標だったこともあって、中核派革マル派の抗争は、1973年に全国各地で北海道から九州まで千件を超えた。

 山口組などの暴力団抗争は時に流れ弾が市民にあたって無辜の市民を犠牲にすることがあるが、左翼共産主義者の暴力性は、市民に被害を及ぼす事が滅多になく、よそ事として人々の記憶に残らない仕儀となった。

 

 だが、共産主義思想にのめりこんだ者には、この種の残虐性がつねに爆発する危険性があることは、私たちは肝に命じておかねばならない。

 

 2016年から2017年5月に現れたCRACやら、男組やらの入れ墨集団がいかに紳士的でおとなしい暴力威嚇集団にすぎないか、わかろう。だが、いつまた、かれら共産主義に駆られた政治党派が壮絶な暴力、暴走をはじめるか何の保証もない。

 

 社会党の青年層→社会主義青年同盟社会主義青年同盟解放派→1969年革命的労働者協会。その学生部が「反帝国主義学生評議会

 

 この解放派革マル派を1975年までに、4人殺害している。

 

 中核派革マル派を22人殺害

 日本共産党の学生部にあたる「民主主義青年同盟」が革マル派を1名殺害している。

 

こうした凶悪な殺害は、ほとんどが逮捕起訴されることなく、容疑者不明のままに終わっている。

彼らが大学を卒業して入り込んだ就職先は、小中高教師、鉄道員郵便局員、自治体職員であった。

現在の民進党支持者の中核は、彼ら極左共産主義運動体出身の上記職業人であろう。

 

1975年の時点で川崎市職員には、20名の中核派、6名の革マル派、10数名のセクトがおり、東京都では1600人の非日本共産党系の暴力革命集団に属する者たちがいるありさまだった。

 

革命的共産主義者同盟全国委員会」が「おとな部」で、この「こども部」が「マルクス主義学生同盟・中核派」である。

革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派」というのが、まったく、別組織で、血で血を洗う抗争をしているなど、左翼に興味のない生活者に理解できようはずもない。ところが、「ひだりまき」と言ってすませていると、実は「ひだりまき」なるものには、「「日本共産党」「旧社会党」「マルクス主義フェミニズム」「革命的共産主義者同盟全国委員会」「革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派」がそれぞれちがうものとして自己主張しているのである。

 

中核派全学連革マル派全学連とそれぞれに対立する「全学連」があって、「全学連」というひとつの組織があるわけでもないようだ。

 

 破壊活動防止法案は、まさに日本共産党の武装闘争に対処するためにもうけられた。

 1951年から、1955年にかけて日本共産党は破壊活動をしていたのである。

 戦後民主主義は、「殺しもせず殺されもせず」民主的な善良な人々が現れたような「市民主義者」の主張は真っ赤なウソである。

 日本共産党員が主体となって、このような暴力デモが行われたのである。

 ウィキペディア「血のメーデー事件」より。

広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった[2]

 

以下の「吹田事件」も、当時の過激な在日朝鮮人活動家と日本共産党の暴力デモの典型的な例である。

 現在のデモも、あわよくば大衆の暴発を期待して、彼ら共産主義者はデモを呼びかけているといって、間違いない。

 デモ隊の行動について、「うさぎ狩りのようでした」などという証言もなされたものの[2]、検察は「暴徒そのものだ」と形容した。実際にデモ隊は暴徒化し、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク英語版)陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負った。また午前7時ごろ茨木市警察のウィーポン車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げて、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負った。この後、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などした[3]

その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となった。吹田駅の助役は裁判時に「デモ隊が順調に乗ってくれたので、『うまいこといきましたな』と駅長とも話していた」[4]と証言している。解散したデモ参加者らは大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとした。そこに約30人の警察官が追いつき、デモ隊はこれと衝突した。これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出た。事件では200人を超える大量逮捕が行われ、111人が騒擾罪で起訴された(被告人の1人が裁判中に死去、1人は韓国に強制送還され「行方不明」となったため最終的に109人)。

反米保守、反国際金融資本思想は、必然的に反米左翼と合体する

アメリカの建国は1776年の独立宣言ではなく、1787年9月の憲法制定

1788年11邦憲法批准

1789年「米国」統一国家誕生

 

独立の思想と憲法の思想はまったく違うもの。

憲法の思想、意図に着目しなければ米国の深層は理解できない。

アレグザンダ・ハミルトンという一人の天才政治思想家が書いた米国憲法

 

過去の相続を根幹とする「国体」設計

すなわち、自由の擁護

 

バークとハミルトンの共通点は「国民の美徳ある自由」の擁護

相違点

  • バークは「国民主権」「人民主権」「平等」「人権」「国家権力の肥大化」「デモクラシー」を危険視した。
  • ハミルトンは「デモクラシーをアナーキーの元として、中央政府権力機構を追求した。

ハミルトンが中央政府によって抑制しようとしたものは、「内戦」「国内対立」「外国からの干渉」

「個人の生命、財産、自由の価値を重要視するゆえの国家秩序」

 

フェデラリスト

第16篇が言うのは、「内戦」を防止するためには、邦と邦の間の戦争への憂い

 

 人々を法の枠内に抑えつけることなしに自由は保証できない。

 過剰な権力でもいけないが、かといって権力が欠乏してもいけない。

 

 イコール「共和主義」

 

 デモクラシーとはなにか。

  • 民衆参加
  • 民衆主導
  • いわゆる市民参加、市民主導

実際には、これは道徳の遺棄、道徳の無い自由につながる

 

自由社会とは、道徳ある自由の存続する社会のことであり、これが存続しているということは、統治機構が働いていることを意味する。

 

 自由市場→産業の発展→デモクラシーの進展→民衆参加不可避→衆愚政治のリスク増大

 

 そこで、議会(立法部)(民衆の代表)の暴走を阻止する防波堤を周到に用意した。

 

 日本では、権力を制限する憲法を「政府の暴走を制限する」と理解され、激しく強調されているが、実は、(フェデラリスト福村出版378ページ)議会の立法権に対しての制限(事後法の禁止)は忘れられている。

 

 司法の「違憲立法審査権」はまさに、議会に対する制限であって、政府に対する制限ではない。つまり、民衆の代表の権力を制限している。

 

 けっして国民にすべての権力があるわけではなく、まさに、司法によって、監視、制限されている。

 さらに、大統領に拒否権を与えることによって「国民の権利」に制限を加えている。ここで怪しまれ、制限されているものこそ、まさに「国民の主権の絶対性」なのである。

 

 これと対蹠的なのがフランス革命憲法の「議会権力の肥大性、無制限性」

 したがって、「国民主権」の語を言う者が、「国民の権利を制限しようという意志があるか否かは非常に重要。国民の権利を制限する措置なくして、道徳ある自由が存続できない。

 

 なぜなら、「制限なき国民の権利」とは、犯罪者の自由、暴徒の自由を含むからである。

 

 「違憲立法審査権」とは、米国憲法が皓歯であることは、非常に重要。

 「違憲立法審査権」「大統領拒否権」こそ、米国建国の基本思想が「国民主権」{国民絶対権力)否定に貫かれている証拠。

 

 「国民主権」を言うものは、「法主権」を忘れがち。

 なぜか。実は明治憲法もまた、「法主権」であって、「天皇主権」ではなかった。これを「天皇主権」を否定したいために、「国民主権」を強調するとき、忘れ去られるものは、「国民主権」の危険性と「国民主権」よりも大事な「法主権」なのである。

 

 「法主権」「憲法主権」の言葉がまったく脳裏にない日本国民。

 

 反米思想、反国際金融資本、アメリカ国家の侵略性を強調する視点の大きな陥穽は、この米国憲法の反全体主義、反「国民主権」の精緻さへの視覚が奪われてしまうところにある。

 

 草の根民主主義なる言葉の流行が日本人の頭にしみついて離れなくなり、「国民主権」の思想への懐疑を雲散霧消させてしまった。

 

 コモン・ローとは、英国の「制定法」の上位法としての慣習法

 

 このコモン・ローと同じ機能を成文法である米国憲法にもたせようとした。

 コモン・ロー化とそこからくる「違憲立法審査権」(司法優位)

 ただし、司法が議会よりも優位と明文化しない。理由は、コモン・ローとして自明だから。

 

 ※したがって、国民主権だから、国民が自由に変えられる、というものではない。

 

 「日本国民の総意による」とは、かねてより疑問視されているところではあるが、「総意」どころか、「過半数」とか「三分の二」の意志さえ確認されていない。ただし、これをウソとはいえない。「日本国民の総意による」「修飾語」なのである。

 

 米国憲法もまた、「国民投票」など抜きに十一邦が合意したことだけを持って制定しているが、「we,the people」われら国民は、としている。

 

 米国の男性普通選挙は1830年代。つまり、草の根民主主義を米国は建国理念として採用していない。

 

 市民とは、「何々国市民」であって、日本のように、「世界市民」という含意を強調する「市民」は通用しない。

 

 立憲的な貴族権力とデモクラシー権力・・・つまり、貴族院と選挙、憲法の存在が背景にあるという意味。

 

 このような場合の君主制とそうでない君主制は、大きく相違しており、たとえば、オランダは、君主がいても、「共和国」に分類すべき、とマディソンは主張した。

 この考え方からすると、当然、大日本国憲法も「共和国」ではないか、という考察もあってよさそうなものだが、いったんコミンテルンの32年テーゼの影響をかぶった日本人は、何がなんでも君主を無くする理念にのめりこんだ。

 

 米国の「共和制」「共和党」とは、「反君主」「反封建君主」という意味ではなく、(そう信じられているが)「反絶対民主権力」という意味の「共和制」である。つまり、「大衆多数決を価値と見る考えに対抗する「少数エリートによる合議重視」の「共和制国体」である。「君主を排除した共和制」という意味ではない。だからこそ、オランダの「君主にいる国体」を「法と貴族が君主の権力を制限しているから」共和制だとマディソンは言ったのである。

 

 その点、明治憲法下の天皇もまた、貴族院、元老、憲法に権力を制限されていた。

 

 大東亜戦争敗戦後、日本は米国が日本の国体を変更するのではないか、と恐れたがそこに「米国の建国の根本理念に君主否定思想が含まれているのではないか」という誤解があったことは間違いあるまい。

 しかし、実際は、米国の知識層の(非マルクス主義者)にとって日本の欠陥は、憲法の不備と議会の暴走ではあっても、君主の存在悪ではなかった。

 

 すなわち、明治憲法には、違憲立法審査権がなかったのである。

 多くの日本人は、米国は民主主義の先進国だから、さぞかし、君主の存在を遅れた、廃止すべきあるまじき存在と考えているであろうと勘違いして恐れたのである。

 

 だが、もともと、米国の国民はいざしらず、米国の憲法の精神を理解している知識層が問題にしているのは、君主の存在の危険性ではなく、むしろ、君主による拒否権の機能しない大権という矛盾した規定が通用する法支配の不全な国体というべきだったろう。

 

 アメリカであれば、大統領が拒否権を行使すれば、(国民の代表者たる)議会の立法は無効化するが、なんと日本の天皇は「大権」「統帥権」と言いながら、実際には「拒否権」を遂行しえなかったのである。かといって、司法権が優位でもなかった。つまり、大東亜戦争とは、天皇の拒否も司法権の掣肘も発動しない議会(議会)と行政府の暴走だったということができる。

 

 これが見落とされて、戦後共産党シンパの知識人のヘゲモニーのもと、「天皇の戦争責任」と検討違いな指摘が横行することになった

 

 君主主権を否定した進歩の過程に現われた「人民主権」「国民主権憲法が米国憲法・・・と言う理解は間違いである。

 民衆が主人公。国民が主人公であるという理想に基づく憲法であるというのも、間違いである。

「人権」の尊重という理念に基づくというのは間違いである。

「平等」社会を理想としているというのは、間違いである。

 

 

 「人民主権」「国民主権」の危険性を意識し、人民、国民の権力の暴走を抑える仕組みを施した憲法である。

 「人権」ではなく、「国籍」重視を基本としている。

 「平等」を否定している。

 

 斉藤真の「アメリカ革命史研究」の「連邦憲法の下で、主権者が人民であることを前提としつつ」というのは、まったくの間違い。

「人民」ではなく、アメリカ国籍を前提とした国民であり、主権者はアメリカ憲法にはない。あるのは、対外的な国家主権のみ。

 「国民の権利」はあるが、「国民の主権」はない。

 

 保守主義には、「現状を肯定する」「現状の多数派を支持する」という意味で受けとめられている。

 

 しかし、政治学上の保守主義という「政治思想」は、「美徳に満ちる自由社会」「道徳性を向上する自由社会」を創造するという意味である。美徳には、自分の運命の責任者になるということ、他者に迷惑をかけないということを含む。

 

 「政策の倫理性・道徳的正しさ」が重要で、「政治家の倫理性」はさほど問題にならない。

 

 したがって、宗教の自由は擁護される。宗教は道徳の源泉だからである。

 「不平等はまさしく自由があるから、不可避的に発生する。」ハミルトン

 

 努力する自由も、努力しない自由もあるのが、自由社会であり、全体主義社会に、何かを選んで努力する自由も、努力しない自由もないからだ。

 

 ただしこの米国の「保守思想」の「連邦派」フェデラリッツ党は、デモクラシー派の当時の名称「共和党」に政権が移るや、1981年まで保守は政権から離れた。

 

 「私有財産制が、財産を所有している人々のみでなく、財産を所有していない人々にも、自由に対して最も重要な保障を与えている。」

                ハイエク「隷従への道」

 

 「法治主義」「法治国家」の意味とは。

 制定した法律によって動く社会のこと。

 法秩序が社会秩序を支えること。

 正当な制定手続きによって定められた法を遵守する社会。

(ケルゼンの人定法主義。(正当な手続きによって定められた法は正当)

 「法の支配」とは、

 この場合の「法」とは、「制定法」のことではなく、「慣習法」のこと。

 伊藤正美著1950年「英米法における法の支配」が、「法の支配」のまっとうな解説書。

 

 「法の支配」のある「法治国家」と、「法の支配」なき、「法治国家」がある。

 

 上位法に支配された下位法という法体系がある社会という意味ではなく、

 「慣習法」に支配された制定法

 あるいは「自然法」に支配制約された制定法  ×「自然法は間違い。

 (正しくは、「祖先の叡智として発見される価値」に照らして判定される制定法)

 主権者は「国民」でも「君主」でもなく、「法」であり、その場合の「法」とは、制定法のことではなくて、「慣習と道徳」の下位に憲法も、「国民」も「君主」もある、ということ。

 

 できれば、慣習法を取り入れた憲法が制定法を制約するのが良いが、日本国憲法の場合は、慣習法を取り入れた憲法とはいえない。

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