テロ等準備罪と日本人共産主義者の残虐性

日本共産党中核派革マル派の暴力性

中核派革マル派の考えの本質

 

革マル派の基本的発想

森茂「現代革命の条件」革マル派1969年

「既成の国家権力を打倒していくことにおいて決定的に重要なことは、その主体の革命的組織化であり、ソビエトの強固な組織化である。暴力はこの革命の主体が革命を遂行する過程において発揮する機能なのである。」

「街頭武闘とテロをするのではなく、組織を固める」

※組織を固めて、政権を奪取したその後に、激烈に財閥家、資産家、大地主、反対知識人を処刑する、という意味。

 

 中核派の基本的発想

革マル派は、「革命は困難である→革命は当分やってこない」として、革命を先の事、対岸の事として、党組織によりどころを求め、無限の未来に追いやっている。」

 

 「そのときにおける諸情勢と力関係の下で最も焦点となっており、ぶち破らねばならない階級戦の環を探り当て、大胆不敵に戦闘しぬき、その成果を職場や地域に結実させ、生産点における直接の反乱も可能な現実的力関係を創造し、最終的には一斉武装蜂起に立ち上がる」

 

 以上のような考えのもとに、彼ら極左集団、すなわち、資本主義市場経済の完全否定のために、政権を奪取しようとする集団は、「沖縄基地闘争」「反原発」「9条護憲」を行っている。

 民進党共産党、に混在して、である。

 

 NHK、TBS,テレビ朝日の姿勢の気持ち悪さは、そのスタッフがそれぞれに、民進党シンパ、共産党シンパ、革マル派中核派創価学会員などが混在しているゆえの気持ち悪さなのである。

 

 またどのコメンテーターにせよ、朝日新聞毎日新聞の社説を反芻しているタイプ、民進党共産党シンパ、革マル派中核派創価学会員なのか、判然としない。というのは、民進党共産党シンパ、革マル派中核派創価学会員は、護憲、反戦という点では、みな、結論は同じだからである。

 

 1984年8月4日 海老原俊夫東京教育大学三年生虐殺事件

 4日早朝、新宿更生年金病院玄関前に上半身裸の撲殺された若い男の死体が転がっていた。検死したところ、角材、鉄パイプ、金槌、で殴打され、キリのようなものでついた跡が20カ所以上あった。両眼ともつぶされていた。

 被害者は革マル派の活動家で、中核派の学生集団にリンチを受けて殺害されたのである。

 戦前の特高の拷問でも数例しかない虐殺でも、これほどの残虐なやり口ではない。

 共産主義者平和運動、平和主義、9条護憲の活動の裏面にはこのような残虐行為におよぶ心情をふとこっているのである。

 

 日本共産党の「民青」の暴力性も際だっていた。暴力闘争を放棄して、議会制民主主義に参加すると言っている共産党は、国民の知らないところで、凄惨な暴力事件を起こしていた。

 

 「文藝春秋」1969年3月号

全共闘学生座談会」

「(東京大学の)「民青」のリンチは凄惨ですよ。私のしっている人は、夜の12時半につかまって、4時間もやられた。もともとほっそりしている人が、顔の原形をとどめないくらいにふくれちゃった。」

 右翼学生がここまでするだろうか。やくざ極道でさえ、これほど残虐でないかもしれない。

 革マル派もまた、反戦連合の学生が革マル派の邪魔だというので、「テロ」をしている。

 1975年8月号月刊「現代」稲垣真美「続全共闘活動家はいまこうしている」

「学内で鉄パイプで殴られ、蹴られたりして、肋骨を二、三本折られた後、トラックに載せられて半分意識不明のまま、気がついたら埼玉県の狭山の山道を走っていた。

 いっしょにテロられた仲間は、一人一人道路わきに放り投げられ、最後はぼく一人です。そしてぼくも山中に捨てられた。」

 

 同じ時、テロを受けた女子学生はその後、自殺した。

 

 北野武監督「アウトレイジ」さながらの暴力性である。

 むしろ、中核、革マル日本共産党の青年部の暴力性のほうが、実際には凄惨なのではないか。

 

 1984年8月14日には、当時中核派の最大拠点だった法政大学に、中核派のヘルメットをかぶった革マル派40人と一般学生をよそおってキャンパスにたむろしていた200人の学生がいっせいに革マル派のヘルメットをかぶって30人の中核派を制圧。

 そのうち、10人の中核派学生を拘束して凄惨なリンチにかけた。

 「手足にキリのようなもので突かれている者もおり、4人が重傷。学生達は電気コードで足をしばられ、後ろ手にしめられて、イスから逆さづり。

 すぐ隣の学生は頭からすっぽり白いビニール袋をかぶせられて目隠しされ、両手から血を出してのたうち回る。」朝日新聞

 1970年には大阪万国博覧会があり、大学の学内では、学生運動が衰退したが、新左翼は過激性を増していった。

 

 極左共産主義者日本共産党共産主義の共産)の爆弾闘争は、

 69年に11件爆発した。

 70年に9件

 71年に37件が実際に爆発している。

 1970年3月31日には、共産主義者同盟赤軍派9人が日本航空351便に乗って、乗務員を制圧して、北朝鮮に行くよう、強要する事件が起きた。

 目的は北朝鮮で革命活動の訓練を受けて日本政府の破壊工作に従事すること。

 実際にその後彼らは、日本人旅行者の拉致を実行した。

 共産主義革命の妄念にとりつかれて、無辜の生活者の一生を北朝鮮に拘束するよう、仕向けたのである。

 1970年12月18日赤軍派が板橋で交番を襲撃して、拳銃を奪おうとする。

 71年2月17日、栃木県真岡市で京浜安保共闘により、銃砲店が襲撃されて、ライフルが奪われて、これが連合赤軍軽井沢銃撃戦に使われる。

 

 71年6月17日 明治公園で開かれていた沖縄返還調印阻止の集会で警官に鉄パイプ爆弾を投げ込み、37人の警官が負傷する。

 

 71年8月22日 麹町の警視総監公舎に時限爆弾を仕掛ける。

 1972年2月19日には、連合赤軍あさま山荘たてこもり事件によって、

 1974年には、「反日武装戦線狼」が東京駅に近い丸の内の三菱重工本社ビルを爆破して、負傷者376人、死者8人が犠牲になった。

 これはアメリカの911同時多発テロが国際貿易センタービルを狙ったと同様、三菱重工という日本の代表的民間企業をねらって、結果として罪のない生活者の命と平穏な暮らしを侵害したのである。

 この時、犠牲になったのは、

51歳の三菱重工主任。

41歳のデザイン会社役員。

38歳のメーカー所長代理。

23歳の会計士事務所事務員

49歳の鉱業会社社員

50歳の三菱重工社員

 こうした犠牲者について、2017年5月のテロ等準備罪法案では一顧だにされず、忘れられた人々になってしまった。

 この事件の公判予定日である1982年10月29日に、当時銀座と新橋の中間にあった南部小包集中局で、、小包の局内搬送中に突然小包が爆発して郵便局職員が片腕を切断する結果となったが、この事件については、三菱重工爆破事件の衝撃があまりに大きかったためか、インターネットで検索しても出てこない。※三菱重工爆破事件の「その他」として記述。

 

 しかし、ひとりの罪のない郵便局員が片腕を失う事になったことは重大である。また、運転助手は内蔵破裂の重傷を負った。

 1975年8月4日、クアラルンプール事件では、日本赤軍が、マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館職員50名を武装して拘束。

 人質にして、日本政府に対して極左テロリストの釈放を強要した。

 1975年9月4日、中核派テロリスト3名が横須賀綠荘で消火器爆弾を密かに製造中に誤爆して、隣室の住民2人を巻き添えにして死亡させた。

 

 1977年9月28日、日本赤軍が、インドのムンバイ空港を離陸したパリ行きの日本航空472便を拳銃、手榴弾で制圧した。ダッカ事件

 妊婦、病人なども含め、多くの罪のない乗客を恐怖のどん底に陥れて、彼らは、要求を吞まなければ、乗客をひとりづつ殺害すると言った。

 要求内容は、16億円と収監中のテロリストの引き渡しであった。

 

 この時代に幼児だった世代を含めて以降の世代は、2017年においてもっとも年長な者で50歳である。つまり、2017年の日本とは、50歳から20歳までの社会の中心になっている世代が、共産主義者の暴力性、破壊性について、まったく無知無防備な世代なのである。

 

 日本共産党小池晃は1970年に10歳であったから、共産主義者の暴力性についてまったく実感が無かったと言っていい。

 山尾志桜里は74年生まれなので、共産主義者がどのように暴力的なのかまったく、実感がない世代とっていい。

 辻本清美は60年生まれだから、70年には10歳である。

 ちなみに蓮舫は67年生まれで、70年の左翼の凶暴性をまったく知らない。

 

 玉木雄一郎は69年生まれである。

 有田芳生は52年生まれであるから、74年の三菱重工爆破事件当時、22歳で、18歳には、日本共産党に入党、立命館大学の学生であった。そして、有田芳生は、ダッカ事件のあったその年、日本共産党関連出版社「新日本出版社」に政治的縁故入社している。

 

 有田芳生は、日本共産党員のまま、フリーランスの記者になり、日本共産党員という立場を利して、「朝日ジャーナル」で記事を書き、そのうち、「日本共産党への手紙」というどうでもいい本を編集したことが、日本共産党中央の逆鱗に触れて除名処分を受けるが、統一原理教会やオウム真理教などの俗受けする話題の専門家然として日本テレビ、TBSに重宝されて、これが国民に名前を売るきっかけになって、参議院議員になった。

 

  中核派は「成田空港反対三里塚闘争」「北富士演習場反対闘争」「部落解放同盟」「在日朝鮮人」「在日中国人」「被爆者」「「身体障害者」「フェミニズム」「護憲」「反原発」「沖縄基地反対闘争」等あらゆる反政府運動に介入してきた。

 この手法は、福島瑞穂、辻本清美、日本共産党朝日新聞なども同じ事である。

 興味深い事に「革マル派」も「日本共産党」もソ連を否定しているには変わりがない。共産主義を否定しさる立場からすれば、ソ連を否定しようが否定するまいが、共産主義すなわち市場否定だけでも、とんでもない過ちなのだが。

 「革マル派」は、「日本共産党」が一党独裁の労働者の国家を実現するための暴力統制自体をも放棄したニセの革命党派だと断じた。

 たしかに、日本共産党は、決して一党独裁を目指しません、国民が圧倒的多数の支持を日本共産党にくれる場合をのぞいては、と言っているのだから、革マルにとっては、ありうるはずもない国民の圧倒的多数の支持などというウソを言う時点で日本共産党は詐欺に見える。

 

 そこで、革マル派は、ある程度の規模まで日本全国の労働組合と学生組織を革マル派で固めたら、創価学会公明党を国会に送り込むように、革マル派労働組合国会議員という順で送り込み、過半数を掌握したら、一気に警察権力を掌握して反対派を弾圧して労働者の国家を樹立してしまおうというのである。そのためには、中核派のように、過激な街頭闘争をしていては、労働者が革マルに加入しないから、合法的活動にとどまりつつ、組織を拡大しようとした。

 

 だが、この思惑は、日本の青年層の関心をひかず、いつまでたっても、日本共産党労働組合と旧社会党民社党労働組合のシェア優位のままに、すべての労働組合員が減少してしまうだけの結果に終わり、いまや、街頭デモは旧革マル派の老人元組合員が合法的に行うものだけに収束しつつある。

 

 やがて元革マル派の老人、日本共産党労働組合の老人たちがが寿命を迎えてこの世から消える時、街頭デモはなくなるのでは無いか。あるいは、再び民青から反旗を翻す新種の革命党派があらわれるかもしれないが、それも必ず、「中核派」「赤軍派」のようなテロリズムに走るか、日本共産党イデオロギーの異なる、しかし、合法行動を守る方向に進むしかあるまいと思われる。要するに日本共産党社会党革マルにとって、大きな誤算は、新しい世代の労働者が、なべて「労働組合」を忌避するようになるとは、夢にも思わなかったということだろう。

 

 

 

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