太宰治 「嘘」の意味
太宰治は落語全集を読みふけった後、落語の手法を取り入れて繰り返し同じ方法で短編を書いた時期がある。
「走れメロス」の
「ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。
中島敦の最後まで緩みのないすべてに意味があり、最後にダメ押しする書き方と違って、このラストは、ちょうど落語の落ちがじつはしばしばとってつけたようなものであって、けっして話の全体を締めくくる「決め手」ではなく、単に最後にちょいとくすぐって終わりましたという意味しかないように、あまり意味はない。
では、なぜそういうくすぐりを太宰は入れたかと言えば、太宰は人一倍、せっぱつまった心情で生き続けたため、自己の暗い心情を他人にも、自分にも隠したかった。
あるいは、そういう切羽詰まった心情の太宰からすれば、一般的な「小説」にかならずある描写がムダなものに思えるのだが、それを否定すれば、自分の得手な小説自体を否定しまうから、ムダな描写のある小説の構造を肯定せざるを得ない。
ならばそのムダをうまくやってみせるしかないことになる。うまく洒落た終わりにするのが、太宰の工夫のしどころになったが、当然洒落た終わりが目的であって、本当のモチーフと関係ないというのは、落語の落ちと同じである。
太宰は遠いふるさと青森に行く15時間余もある列車旅行が嫌いであった。乗ってる時間が無駄で無駄で何の意味があるのかと苦しみの種であった。生きることの無意味を耐えることの苦痛と似ているのが帰郷の列車旅行の時間だった。
21歳の時に共産党の使いパシリから逃亡し、すぐにその夜知り合ったばかりの女性と三日後には鎌倉の海で自殺を図るが、女だけが死んで、自分が生きるという死ぬよりもつらい生き地獄を生きるはめになった。からっとした心映えでユーモアが自然に湧いてくるというわけにはいかない。
「走れメロス」は、「王様」こそが太宰の心の自画像であって、メロスは作り物のキャラクターだ。血濡れた陰惨な心をもてあましているのは、「他人に猜疑心を募らせ「殺す」王様こそ現実的な存在で、王様はメロスとちがって血を流して生きている。 実際に結果的に「殺したと同じような事をした」太宰は親兄弟に心配をかけたが「死ぬような心配」なら、「殺す」ことと似ている。
そこから始まってどんどん本当のモチーフから離れて行って、メロスの心の動きに興趣を感じて乗って書いていったから、メロスの物語になってしまったが、最初の動機は王様の心への太宰の共感なしには着手されなかった。
太宰の「嘘」のラスト「お嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」というのも、この手法と同じであって、いかに上手(じょうず)に落とすかに太宰の芸術的な工夫が賭けられた。
よくよく考え抜いて何度も書き直して落ち着いたと思えるが、すべては「じょうずに洒落ていると言えるかどうかに賭けられたラストだ。
この「嘘」は「語り手」が「筆者の太宰治自身であるかのように読めるように書いてある」。
だが、それはトリックで、実際には筆者の心情とラストの語り手「私」の「私は微笑した」は、まったく別物なのである。
現実の筆者太宰は微笑なんかしていないし、おそらくこの話はすべて架空であり、当然「私」も架空である。
太宰の体験を「私」として再現しているのではない。
では、「嘘」の物語で太宰自身の本当の心情にあたっている部分は何なのだろうか。
主人公格の語り手「小学生時代の名誉職」は、「遠縁の圭吾」の嫁が、嘘をついたのだと怒っているのだが、実は、この嫁が「嘘」ついて隠し通した「嘘」と、「バレた嘘」は違うのである。
それが太宰の読者への「饗応」である。
そこを理解しないとこの作品を読んだことにならない。
嫁のついた嘘とは、「脱走した夫がいるのに、いないと言った」、その「嘘」ではない。
ではどんな「嘘」なのか。
「なんぼ馬鹿なんだか」は、「名誉職さん、あんたどれだけ馬鹿なの?そんなことに首を突っ込んで、走り回って大騒ぎしてくだらない、ばかじゃないの?」という意味なのだ。その嘘がこの名誉職は気がつかない。
名誉職はだまされて「馬鹿なんだか」が「脱走したこと」だと思い込んでいる。
では、なぜラストに名誉職の話を聞いた(太宰という前提の・・・じつはこれも嘘)話者は、その「嘘をついたという脱走者の嫁さんは」「あなたを好きなんじゃないですか?」と言ったのか?
「なんぼ馬鹿なんだか」は、「名誉職、あんたどれだけ馬鹿なの?そんなことに首を突っ込んで、走り回って大騒ぎして」・・・とは、「冷笑ではなく、やさしく、憐れんでいる」ように話者は感じた、という意味である。
「やさしく、憐れんでいる」のは、好きだから、という皮肉なのだ。
多くの読者はわかるまいが、仕方があるまい。
もちろん、現実にそういう会話はなかったので作り話であるから、太宰治の心は「オレはそんなことに首を突っ込んで、走り回って大騒ぎする奴は大嫌いなんだ」というものだ。
ところで、名誉職の奥さんが、この嘘をついた「遠縁の嫁さん」を嫌ったのは、なぜか。
腹の中と違うことをいう女だと見抜いてどんな腹の中なのかわからず、薄気味わるかったのだが、作品では、太宰は、読者が「本当に好きだったのかもしれない」と思うように誘導して、そこから抜け出す饗応をしている。