太宰治 「嘘」の意味

 太宰治は落語全集を読みふけった後、落語の手法を取り入れて繰り返し同じ方法で短編を書いた時期がある。

 

 「走れメロス」の

「ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」

 勇者は、ひどく赤面した。

 

 中島敦の最後まで緩みのないすべてに意味があり、最後にダメ押しする書き方と違って、このラストは、ちょうど落語の落ちがじつはしばしばとってつけたようなものであって、けっして話の全体を締めくくる「決め手」ではなく、単に最後にちょいとくすぐって終わりましたという意味しかないように、あまり意味はない。

 

 では、なぜそういうくすぐりを太宰は入れたかと言えば、太宰は人一倍、せっぱつまった心情で生き続けたため、自己の暗い心情を他人にも、自分にも隠したかった。

 あるいは、そういう切羽詰まった心情の太宰からすれば、一般的な「小説」にかならずある描写がムダなものに思えるのだが、それを否定すれば、自分の得手な小説自体を否定しまうから、ムダな描写のある小説の構造を肯定せざるを得ない。

 

 ならばそのムダをうまくやってみせるしかないことになる。うまく洒落た終わりにするのが、太宰の工夫のしどころになったが、当然洒落た終わりが目的であって、本当のモチーフと関係ないというのは、落語の落ちと同じである。

 

 太宰は遠いふるさと青森に行く15時間余もある列車旅行が嫌いであった。乗ってる時間が無駄で無駄で何の意味があるのかと苦しみの種であった。生きることの無意味を耐えることの苦痛と似ているのが帰郷の列車旅行の時間だった。

 

 21歳の時に共産党の使いパシリから逃亡し、すぐにその夜知り合ったばかりの女性と三日後には鎌倉の海で自殺を図るが、女だけが死んで、自分が生きるという死ぬよりもつらい生き地獄を生きるはめになった。からっとした心映えでユーモアが自然に湧いてくるというわけにはいかない。

 

 「走れメロス」は、「王様」こそが太宰の心の自画像であって、メロスは作り物のキャラクターだ。血濡れた陰惨な心をもてあましているのは、「他人に猜疑心を募らせ「殺す」王様こそ現実的な存在で、王様はメロスとちがって血を流して生きている。 実際に結果的に「殺したと同じような事をした」太宰は親兄弟に心配をかけたが「死ぬような心配」なら、「殺す」ことと似ている。

 

 そこから始まってどんどん本当のモチーフから離れて行って、メロスの心の動きに興趣を感じて乗って書いていったから、メロスの物語になってしまったが、最初の動機は王様の心への太宰の共感なしには着手されなかった。

 

太宰の「嘘」のラスト「お嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」というのも、この手法と同じであって、いかに上手(じょうず)に落とすかに太宰の芸術的な工夫が賭けられた。

よくよく考え抜いて何度も書き直して落ち着いたと思えるが、すべては「じょうずに洒落ていると言えるかどうかに賭けられたラストだ。

 

 この「嘘」は「語り手」が「筆者の太宰治自身であるかのように読めるように書いてある」。

 だが、それはトリックで、実際には筆者の心情とラストの語り手「私」の「私は微笑した」は、まったく別物なのである。

 現実の筆者太宰は微笑なんかしていないし、おそらくこの話はすべて架空であり、当然「私」も架空である。

 太宰の体験を「私」として再現しているのではない。

 

 では、「嘘」の物語で太宰自身の本当の心情にあたっている部分は何なのだろうか。

主人公格の語り手「小学生時代の名誉職」は、「遠縁の圭吾」の嫁が、嘘をついたのだと怒っているのだが、実は、この嫁が「嘘」ついて隠し通した「嘘」と、「バレた嘘」は違うのである。

それが太宰の読者への「饗応」である。

そこを理解しないとこの作品を読んだことにならない。

嫁のついた嘘とは、「脱走した夫がいるのに、いないと言った」、その「嘘」ではない。

 

ではどんな「嘘」なのか。

 

「なんぼ馬鹿なんだか」は、「名誉職さん、あんたどれだけ馬鹿なの?そんなことに首を突っ込んで、走り回って大騒ぎしてくだらない、ばかじゃないの?」という意味なのだ。その嘘がこの名誉職は気がつかない。

 名誉職はだまされて「馬鹿なんだか」が「脱走したこと」だと思い込んでいる。

では、なぜラストに名誉職の話を聞いた(太宰という前提の・・・じつはこれも嘘)話者は、その「嘘をついたという脱走者の嫁さんは」「あなたを好きなんじゃないですか?」と言ったのか?

 

「なんぼ馬鹿なんだか」は、「名誉職、あんたどれだけ馬鹿なの?そんなことに首を突っ込んで、走り回って大騒ぎして」・・・とは、「冷笑ではなく、やさしく、憐れんでいる」ように話者は感じた、という意味である。

「やさしく、憐れんでいる」のは、好きだから、という皮肉なのだ。

多くの読者はわかるまいが、仕方があるまい。

 

もちろん、現実にそういう会話はなかったので作り話であるから、太宰治の心は「オレはそんなことに首を突っ込んで、走り回って大騒ぎする奴は大嫌いなんだ」というものだ。

 ところで、名誉職の奥さんが、この嘘をついた「遠縁の嫁さん」を嫌ったのは、なぜか。

 腹の中と違うことをいう女だと見抜いてどんな腹の中なのかわからず、薄気味わるかったのだが、作品では、太宰は、読者が「本当に好きだったのかもしれない」と思うように誘導して、そこから抜け出す饗応をしている。

 

日韓基本条約と朝鮮人強制連行

韓国政府発行「韓日会談白書」40頁

「韓日間の請求権問題に賠償請求を含ませることはできない。」

「請求権は、領土の分離分割にともなう財政上および民事上の請求権である。」

(民事上の請求権とは「預貯金」などのこと)

 

巨額の資金を供出したのは、「経済協力資金」の意味である。

 

サンフランシスコ平和条約では、韓国が半島に残した日本人の財産を処分したことを承認した。しかし、北朝鮮に残した日本の財産の処分については、承認していないので、日本から北朝鮮への請求権は残っている。

 

 1995年村山富市参院本会議における発言

日韓併合条約は当時、法的に有効に締結された。」

 

※これに対して韓国は妄言として反発。

なぜならば、韓国では日韓基本条約締結に際して、日本政府が「1910年の併合条約は(1945年以降の現在は)もはや無効」と発言したのをとらえて、韓国国会で外務部が「日本は1910年の併合条約ははじめから無効と認めた」と言い張ったからである。

しかし、韓国は国際法上、賠償請求権はないとした。

 

 請求権の内容

  • 証券
  • 通貨(預貯金のこと)
  • 徴用された「韓人」の未払い給与
  • 徴用された「韓人」が空襲等で被害を受けた場合の補償
  • 「恩給」の権利がある場合
  • 「韓人」事業所法人が半島に所在して、その支店が日本に所在する場合の財産

など。

 日本側から、韓国に請求する債権については、サンフランシスコ平和条約において放棄を承認したが、北朝鮮に対する日本側の請求権については、日本は、日本側の請求権放棄の承認はしていない。

 1992年ひとりの元慰安婦女性が下関郵便局を訪れ、戦中の貯金を支払うよう求めた。調査したところ、2万6千245円であったが、これは当時家が数軒買える額だった。日韓協定の請求権には、未払い預貯金が含まれる。韓国政府が一括して受け取っているので、法により貯金請求権はすでに消滅していた。

朝鮮人強制連行」とは、1939年の「朝鮮人内地移送計画」のことである。

この内地移送計画の前年、日本には朝鮮人人口は80万人あった。(1909年は790人)終戦時は200万人。

 

朝鮮人強制連行」とは、1939年の「朝鮮人内地移送計画」のことである。これは「募集」「官斡旋」「徴用」のことである。つまり「連行」とは誇張比喩表現にしかすぎない。該当者は引き揚げ希望者として全員帰国した。在日のルーツは誇張表現「連行」=「募集」「官斡旋」「徴用」と無関係。

 だからこそ、姜尚中編著「在日一世の記憶」には「職を求めて来日した朝鮮人およびその親戚を頼ってきた記憶が大半なのである。そしてわずかに、「募集」「官斡旋」「徴用」として来て、そのまま自由意志で残った人の思い出がある。

 

 決定的なのは金正恩政権が金正日政権を継承している政権で、韓国と違って前政権に対する糾弾政権ではないということだ。金正日大韓航空機爆破テロと拉致問題の指揮責任者であり、金正恩はこれを解決しようとしていないのだから、ならず者国家である。ならず者国家は核抑止力を持つ資格はない。

 

 村山富市参院本会議で併合条約は合法だと答弁したように、併合なのだから、植民地ではなく、当時朝鮮人は法的に「朝鮮地域の日本人」なのだから、「徴用」「募集」「官斡旋」は、(当時の日本人の徴兵が「強制連行」ではないと同じく)「強制連行」には該当しない。あくまでも誇張比喩なのである。

朝鮮の差別 世界の差別

姜尚中編「在日一世の記憶」によると、来日前の朝鮮半島庶民は通常、日本人を「倭奴ウェノム」という習わしだった。そして2013年海老蔵主演「利休にたずねよ」では、利休が朝鮮女性に「日本は蛮族」と言う場面がある。

 

以下は小名木善行「悪逆と非道 李承晩は蛮族の酋長」

「国内に産業らしい産業はなく、国は貧しく国民は飢え、その劣悪な環境から、平均寿命は二十四、五歳。主な輸出品目は、支那に献上する女性だけ。国内では両班と呼ばれる貴族が横暴の限りをつくしていた。ひらたくいったら未開の野蛮国です。」

「平素から人種の平等を唱える日本が、隣にある「未開の蛮族」を押し付けられたのです。欧米のように奴隷支配するなら話は簡単ですが、それをしたら日本の主張する「人種の平等」は噓になってしまいます。であれば、併合し蛮族を教育して近代国家人に仕立て直すしかない。そうすることで有色人種も人であることを立証するしかなくなった」

 ロシアのニコライ2世は、皇太子の時に日本に来訪されたとき、津田三蔵に切りつけられて以来、日本人を「猿」と呼んで嫌悪するようになった。

 

崔洋一監督 北野武主演「血と骨」の内容

 崔洋一監督の北野武主演「血と骨」は、在日朝鮮人が壮絶な家庭内暴力の末に実の娘を自殺に追い込み、妻妾同居で、妻に地獄の思いをさせ、小さな事業をやれば、従業員の日本人を罵倒していじめ抜く。しまいに全財産を北朝鮮に寄付する。まことにすさまじい在日朝鮮人の陰惨な生活を描いた映画である。

慰安婦問題の起源ノート

挺隊協創始者の尹 貞玉は1943年に梨花女子専門学校1年生。

1950年、朝鮮戦争中に米国に留学して帰国後、53年梨花女子大英文科講師に就任。この時代にこのような学費が可能だったとすれば、親日のかなり裕福な家の娘だった。尹 貞玉は、嘘をついて「裕福な独立運動家の牧師の娘」と言っている。

尹 貞玉は1945年、始めて慰安婦が存在した事に気付き、二年前、17歳だった時に「看護婦になりなさい」と奨められたことが、慰安婦にさせられそうだったのだと思ったと妄想を語っている。極めて裕福な家庭の娘、 貞玉は、この時点で半島に遊郭があることさえ知らない箱入り娘だったと考えられる。

 1980年55歳、朝鮮総連の仲介で沖縄在住の元慰安婦に会いに行く。

 「人が人に対してこんな仕打ちができるのか」と尹 貞玉は思ったと2013年に語るが、1980年、55歳の時点で尹 貞玉は、ソウルのはずれに遊郭があることを知らなかったのではないかと思われるふしがある。

 

 挺隊協には、創始者の尹 貞玉よりももっと大物がいる。

尹 貞玉より一歳年上の梨花女子大社会学科(講師後教授)の李効再(女)である。1945年梨花女子専門学校で出会い、先に李効再が米国に留学。1947年に米国で再会。二人とも梨花女子大に戻っている。李効再がマルクス主義フェミニズムのオーガナイザーになる。

 

 朴正熙政権、全斗煥政権と続いて米国、日本双方から強力な援助を取り付けて経済成長を続ける韓国に危機感を持った北朝鮮親北勢力は李効再が女性を糾合して反米基地闘争、基地村批判、政府運営のキーセン観光を批判するが、84年から徐々に朝鮮総連との連携を強めて、慰安婦問題に軸足を移して行った

1924年生まれの李効再(女)の弟子から、現在の反日女性政治家が多数輩出している。盧武鉉政権の女性家族省長官も、李効再(女)の生徒だった。

 盟友の金恵媛は尹 貞玉について「世間知らずの温室育ちに見えた」と言っている。貞玉をソウルオリンピック前に済州島YMCAで慰安婦研究を発表させる。

 

 現在、山口二郎が盛んに言っている「慰安婦の存在を否定する人がいる」説の起源は、挺隊協のイ・ナヨンが言う「1990年1月に駐韓大使館の小野参事官が、慰安婦動員の証拠はない」と回答したことを持って、「慰安婦の存在を否定した」と強弁している事を山口が鵜呑みにしたのではないか。

 

 1991年7月に挺身隊協議会、当時研究会は金学順を探し出すのだが、8月15日の解放記念日に合わせて、14日に記者会見する。

 このとき、金学順は「国民が日本にしがみつくのを見ていたら我慢ならない」という興味深い事を言っている。人権問題ではなく、(北朝鮮と対立する)韓国が日本に援助受けて成長するのが、ダメだ、と言っているのだ。

挺身隊問題協議会の第一世代が

1924年生まれ

李効再 (女)

1943年18歳

1925年生まれ

尹 貞玉(ユン・ジョンオク)

1943年17歳

金大中は1926年生まれなので、李効再 (女)尹 貞玉(ユン・ジョンオク)とほぼ同世代である。

 

 

二人とも、1943年には梨花女子専門学校に在学しており、ともに米国に留学しているので、親はかなり裕福な親日派資産家であったと思われる。

※本人は親は裕福な独立運動家と言っているが。

参考までに、

在日韓国人親北朝鮮派)の徐勝(ソ・スン)は、1945年生まれ

その兄弟徐俊植は、1948年生まれ

徐 京植(ソ・キョンシク)は1951年生まれ。

徐 京植が20歳、1971年は、金日成、朴正熙時代。

1972年米国ニクソン、訪中。

盧武鉉は1946年生まれで、ほぼ同世代である。

文在寅(ムン・ジェイン)は1953年生まれなので、親北朝鮮派在日韓国人

徐 京植とほぼ同世代である。

第二世代は、

1953年生まれ

鄭鎭星(チョン・ジンソン)

ソウル大学社会科学大学社会学科卒業、シカゴ大学にてPh‐D取得。徳成女子大学教授を経て、現在ソウル大学教授・同大学社会発展研究 所長。また国|連人権小委員会委員を経て、2008年8月より国連人権理事会諮問委員会委員(副議長)

しかしこの問題の解決のために積極的に活動して国民基金に反対する一番進歩的な日本人の多くが、結局は日本をより良い社会にするためだという同じ動機と理由で活動しているという点に注目する必要がある。軍慰安婦問題で一番進歩的な目標を持った一人であり、韓国の運動にも非常に親密なある知識人は「どうして日本の恥部に触れるこの問題にこれほど深く関与するのか」を問うた著者に対し、「日本を倫理的に一段高い社会にするため」という返事をすぐにしたことがある。

日本軍の性奴隷制度 鄭 鎭星 P.253

 

李効再、尹貞玉、そして約10歳年下の鄭 鎭星が会って、挺身隊問題研究会の責任者は鄭 鎭星が就任して、研究会責任者だった尹貞玉が韓国挺身隊問題対策協議会を立ち上げることになった。

韓国・挺身隊問題対策協議会、Korean council for women drafted for military sexual slavery by Japan

 

2000年、共同代表は、尹貞玉(ユン・ジョンオク)、金允玉(キム・ユノク)、池銀姫(チ・ウニ)

 

 

 

池銀姫

1947年生まれ

ソウルの徳成女子大学の学長

韓国の女性大臣(ジェンダー平等省)2003年~2005年盧武鉉政権

池銀姫は李効再の薫陶を受けた。

1999年に挺身隊問題対策協議会の共同代表として名を売った池銀姫は

2003年に盧武鉉政権でジェンダー平等省の長官に就任。

2006年には、ジェンダー平等省の長官で名を売って徳成女子大学の学長となって、法政大学と学術一般協定を締結した。

2006年に後の代表、尹美香が事務総長に就任している。

2006年5月、韓国左翼政権盧武鉉政権において女性省長官が陸海空軍大佐級以上の将校300名に男女平等教育を行っている。

 

1987年2月に結成した韓国女性団体連合の共同代表経験者、または政策委員経験者が、女性省の一代から三代までを占める。

韓明淑ハンミョンスク1944

池銀姫 1947

張夏真チャンハジン1951

 

第三世代は、

1964年生まれ

尹 美香(ユン・ミヒャン)

1984年に20歳。この時代、1980年には光州事件が起きている。

1983年、大韓航空機爆破事件、ラングーンテロ。1984年は、88年のソウルオリンピックが開催決定してから3年経過している。

1993年に夫とその妹がスパイ事件で摘発され有罪となった。

 

初代挺身隊問題対策協議会の代表の一年先輩で1924年生まれ、朝鮮戦争時に米国留学し終戦時に梨花女子大に戻ってきた韓国戦後フェミニズムの指導者李効再の生徒だった池銀姫が水曜デモを主導し、後に盧武鉉政権の女性家族省長官に就任。盧武鉉政権の最側近が文在寅。両親は脱北者北朝鮮人。

 

1992年10月に始まった水曜デモは、「韓国保守政権」が日本と本格対立すれば、経済破綻に陥ることを見越しての「日本と戦えない保守政権」を国民運動で倒閣しよう、(北朝鮮の言いなりになる政権を作ろう)という運動だった。親北金大中政権成立の6年前に始まった。もちろん、朝鮮総連も協力。

 

現代先進国の社会には、様々な差別が残存し、これをどんな左翼政権も保守政権も解決する方途を実は持たない。だが、少なくとも、保守政権が存続する限り、保守政権だから、差別があるのだと、批判する強力な武器にはなるのである。

たとえば中国も北朝鮮も実際には、激しい女性差別と身分差別が存在する。しかし、これを不問に伏して、複数政党国家の保守政権に、女性差別の未解消責任を激しく突きつけて、政権交代を迫る事は、女性票が大きい以上、十分な力を持つのである。

挺隊協の主張によると、慰安婦像のかかとが地面についていないのは、「韓国政府の無責任さ」を表している。無責任でない韓国政府とは、日本と全面対決して、経済破綻しても、日本に助けを求めるな、北朝鮮よりも発展するなどまかりならぬ、韓国も北朝鮮と同じ程度にまずしくなれという意味である。

野中広務小泉純一郎小沢一郎はそれぞれ犬猿の仲。加藤の乱野中広務は抑えた。だが、これらの人物、皆、9条護憲、親北朝鮮派ではないか。これで自民党改憲できたはずもない。改憲できない、国防軍のない日本が半島を敵に回すのは危険極まりないから、韓国を助けなければならない。アホな日本。

日本は韓国、北朝鮮を突きはなして、つまり貧乏にさせて、半島まるごと、貧困軍事国家として対峙するために、日本の国防軍創設が急務である。
そうしない限り、寄生され、世界にプロパガンダを広められても北朝鮮危機を気にして韓国を支援せざるを得なくなる。国防軍を持って韓国を日本から離すべき。

物事には順序というものがある。自衛隊国防軍にする事さえ日本の政治状勢では極めて大きな課題。これを達成する前に核を保有できるはずもない。自衛隊国防軍にすれば、それだけでも劇的にその後の進展が見込めるが、核武装のためにために是が非でも9条2項を廃止国防軍規定をと言わねばならない。

 2012年挺身隊問題対策協議会は「ナビ(蝶々)基金」を始めた。

これは全世界のあらゆる女性が差別と抑圧(貧困を含む)、暴力から解放されて、蝶々のように羽ばたくと言うことを意味する。

 しかし、よく考えてみると、これを現実に実行するには、これを可能にする政権が成立するか、あるいは、そのような政権は現実に存在しないという前提のもと、(つまり実現しないとわかりつつ)理想を訴え続けるかの二つにひとつである。いまだかつてマルクスレーニン主義政権がこれを実現した例はないし、フェミニズムを完全実施する政権は保守政権ではあり得ないし、マルクスレーニン主義政権でも、フェミニズム完全実施の例はない。

 あるのは、もし共産党が政権をとれば、フェミニズムを完全実施しますよ、という空手形だけなのだ。

 「韓国社会がハルモニ達に対してきちんとした態度を取るようにしなければならない」(尹 美香(ユン・ミヒャン)

とは、「韓国人すべてが、「日本と戦おうとしない政府を否定し、日本と戦う政党を支持するようなる」という意味である。・それは当然、経済危機には、日本に救ってもらうな、という事を意味し、北朝鮮が日本と貿易してもいないのに、韓国が日本と貿易をするな、北朝鮮を見下すほど、発展してはならぬ、という事を意味する。

 すべてはこの本音を隠すために、「平和への願い」=「日本との不仲覚悟で日本に謝らせろ」があり、「戦争と女性の人権確立の願い」=「日本との不仲覚悟で日本に謝らせろ」がある。

 「慰安婦の女性の苦痛を治癒させよ」=「日本との不仲覚悟で日本に謝らせろ」という意味なのである。

 「日本軍慰安婦問題解決運動の主要課題は「責任の帰属」を明らかにする作業だ。」挺身隊問題対策協議会 イ・ナヨン

 国際連帯活動により認めさせる、ということは日本の保守勢力を国際包囲網で追い詰め、日本の北朝鮮、韓国双方への贖罪派を政権につかせて、反北朝鮮反韓国勢力の動きを抑えさせて、北朝鮮との融和姿勢を取る韓国に資金提供させるという意味である。

 国際包囲網の具体例

  • 全世界に慰安婦像を建設して、各国良識派市民団体の対日謝罪要求を強める。

  • 国連の対日批判を強める。

  • 著名な人権活動家と連帯する。

  • 以上によって、日本人の多数派を謝罪贖罪派の政党を支持する世論に誘導する。

  • 親北朝鮮派韓国を支持し、反北朝鮮派韓国を支持しない日本に誘導する。

2016年10月から翌年11月まで岩波書店が韓国人挺隊協のイ・ナヨンに長期連載させ、在日の梁澄子に日本語訳させた「慰安婦問題の歴史」は、「あくまでも日本政府に責任を帰属させるのだ」「80年代まで運動が無かったのは、韓国保守政権のせいだ」と言っている。責任は韓国人遊郭と親にある。

挺隊協のイ・ナヨンが岩波「世界」で言っていた。
慰安婦運動支援者に「何のために慰安婦抗議に参加するのか」と聞いたら、「日本をいい国にするため」と異口同音に言う。違う、被害者の痛苦を癒やすためだ、と喧嘩する。だから、日本に合意賛成派が多いのだという。
TBSサンモニもその手の「いい国」派か

「日本は悪い国だったが、いい国に変わらねばならない」としたのが、俗流左翼の根本である。マスメディアの姿勢がそれ。だがそうではない。近隣国にマルクス・レーニン主義民族主義、絶対国民情緒に毒された国があって、日本人の国益を脅かしていることに備えがはなはだ不足していることが問題なのだ。

韓国人は朝鮮民族は善玉、日本民族は悪玉という観念が国民に全面的に浸透している。だから、北朝鮮と融和しうる感覚、核は韓国向けではないと信じる感覚が生じる。将来にわたって非常に危険な連中である。

前から、韓国は日本に来るべきじゃなかったし、これからも来させないのが正しい。思えば盧武鉉が来日したときは、正直、俺は無知だった。盧武鉉は挺隊対協幹部を女性省長官にしていたのだが、まるで無知だった。

統一原理教会は、韓国民族をイスラエルとしている。 なぜ統一原理教会が日本の保守政治家に反共運動をアピールしたかというと、親北団体の挺隊協と左派政党、労働組合がいかに反日を騒ぎ立てても、韓国に対する経済・技術援助を反共の名のもとに、やめさせないためである。これにひっかかたのが中曽根

「純粋デモクラシーは、歴史を紐解けば、これほど政治における偽りは他に類をみない。古代デモクラシーでは市民自身が議会に参加するが決して良き政府を持ったことがない。その性格は専制であり、その姿は奇形である」(ハミルトン)

1993年、挺隊協(その総本山は梨花女子大)のマルクス主義フェミニズム理論家たちは、マニラ会議に30人の女性活動家を送り込み、東アジア女性フォーラムを組織しようと提案。そこに、朝日新聞松井やよりもいた。中国からは、共産党直属の全国婦女連合会。こうして北京女性会議が開かれた。

1943年時点で18歳だった李効再が梨花女子大のすべての左翼運動の原点となった。挺隊協の初代代表はこの李効再の一歳年下。1999年、李効再が日本政府に効果的圧力を加えるために、国連人権委員会を使えと考え出した。
米国帰りの李効再門下の申惠秀が李効再を国連の広報委員長に会わせた。

1996年のクマラスワミの「軍事的性奴隷制報告」は、朝鮮労働党の協力によって北朝鮮に訪問して行われた。クマラスワミは強制収容所における女性虐待について何の関心も示さなかったことになる。この報告書は国連人権委員会で鵜呑みにされ、全会一致で採択され、出席者の良心を大いに満足させた。

 国連人権委員会は報告者の報告をいちいち疑ったり、検証しないのが慣例といえるだろう。この特性にのっとって、戸塚悦郎は挺隊協にスリランカの弁護士クマラスワミを紹介し、性奴隷が規定事実であるかに誘導していった。
これを挺隊協幹部のイ・ナヨンは、トランスナショナル運動だと自画自賛する。

挺隊協活動は梨花女子大出身の政治活動家たちにとって、国会議員、女性家族省長官から高級スタッフに就任し、やがては教授、学長にまでなりうる登竜門になった。  梨花女子大、ソウル大学の女性活動家達は保守政権を倒し、また、保守政権を復活させないために死力を尽くすようになった。

挺隊協のイ・ナヨンは言う。「米軍基地村」「性売買」の順で、研究し次に「慰安婦問題に出会った」と。最初は、北朝鮮が統一の最大の障害としてきた、米軍批判が絡んでいる運動だったが次に朝鮮総連への風当たりが強くなって来たとき、矛先を慰安婦に転換したのである。オリンピック阻止として始まった

挺隊協の理論家フェミニズム理論家イ・ナヨンは、挺隊協運動の親北朝鮮的性格を次のように語っている。「東アジアの冷戦体制下でフェミニストの視点で境界を越える」と。つまり、北朝鮮と韓国の対立関係を、両国および全世界の女性の敵として、日本を標的にして共闘する、と。 

日本共産党の戦術は、国民が自衛隊は必要と認めている世論に逆らうのを控えて、9条2項で自衛隊を縛って置くこと。

当時、韓国は国民に知らせなかったのではなく、賠償をとったどーと嘘を言った。当時の左翼野党と学生は、その程度の賠償で済むかーと大騒ぎして政府を批判した。
日本からぶんどった金を開発に使ったという意識を韓国人は持った。
韓国政府はこのとき、個人補償をそこから出すべき事を、当時、隠した。

岩波書店「世界」2017年10月号で挺隊協の理論的指導者イ・ナヨンは、在日の梁澄子の日本語訳によって、次のように書いている。「慰安所」内での強姦、暴力、遺棄殺害等の犯罪を行った軍人たちと天皇ら主要人物」と。日本市民は政治的責任を負うと。これをぬけぬけとアーレントを引用して語る。

 挺隊協のイ・ナヨンは「世界」2017年10月号で、「日本と韓国のアイヒマン親日派)はまだ捕らえられていない」と書いている。非常に危険な考え方で、挺隊協がカンボジアポルポトと同様の親日派と日本人の大量殺戮を願望していることは間違いない。

挺隊協のイ・ナヨンらは、病的な視野狭窄に陥って、両班支配の過酷さも、北朝鮮の開戦責任も保導連盟事件も、済州島4.3事件もすべて忘却して、ただこの世界のあらゆる罪という罪を「慰安婦」が「強姦」「遺棄殺害」されたのだという架空の妄念に執着して、戦いの決意をしている。

挺隊協の指導者イ・ナヨンは、「具体的な犯罪事実を摘示し、過ちを犯した者達を自身の行為に体面させる」と言っている。
吐いた唾を呑まないようにしてもらおう。「具体的な犯罪事実を摘示」できるものかどうか。それは半島の遊郭と同じものなのだから。

 一般に慰安婦問題は賠償ではなく、謝罪だという表現がある。ところが、挺隊協の指導者イ・ナヨンは明確に、「国家が過去に働いた不正義に対する責任および賠償を提供する責任を持たずに、植民地支配の恩恵を受けてはならない」と書いている。賠償は全地球的な正義を具現するに必須だと。

挺隊協のイ・ナヨンは「全地球的な平和と正義を志向する日本の市民は」とありもしない妄想を抱いている。賠償することによって、東アジアの水平的な連帯が得られる、と。まったく、あり得ない。全地球的平和も水平的連帯も金輪際拒絶したい。

1950年、朝鮮戦争中に米国に留学して帰国後、53年梨花女子大英文科講師に就任。この時代にこのような学費が可能だったとすれば、親日のかなり裕福な家の娘だった。尹 貞玉は、嘘をついて「裕福な独立運動家の牧師の娘」と言っている。

 

尹 貞玉は1945年、始めて慰安婦が存在した事に気付き、二年前、17歳だった時に「看護婦になりなさい」と奨められたことが、慰安婦にさせられそうだったのだと思ったと妄想を語っている。極めて裕福な家庭の娘、 貞玉は、この時点で半島に遊郭があることさえ知らない箱入り娘だったと考えられる。

 1980年55歳、朝鮮総連の仲介で沖縄在住の元慰安婦に会いに行く。

 「人が人に対してこんな仕打ちができるのか」と尹 貞玉は思ったと2013年に語るが、1980年、55歳の時点で尹 貞玉は、ソウルのはずれに遊郭があることを知らなかったのではないかと思われるふしがある。

 

 挺隊協には、創始者の尹 貞玉よりももっと大物がいる。

尹 貞玉より一歳年上の梨花女子大社会学科(講師後教授)の李効再(女)である。1945年梨花女子専門学校で出会い、先に李効再が米国に留学。1947年に米国で再会。二人とも梨花女子大に戻っている。李効再がマルクス主義フェミニズムのオーガナイザーになる。

 

 朴正熙政権、全斗煥政権と続いて米国、日本双方から強力な援助を取り付けて経済成長を続ける韓国に危機感を持った北朝鮮親北勢力は李効再が女性を糾合して反米基地闘争、基地村批判、政府運営のキーセン観光を批判するが、84年から徐々に朝鮮総連との連携を強めて、慰安婦問題に軸足を移して行った

1924年生まれの李効再(女)の弟子から、現在の反日女性政治家が多数輩出している。盧武鉉政権の女性家族省長官も、李効再(女)の生徒だった。

 盟友の金恵媛は尹 貞玉について「世間知らずの温室育ちに見えた」と言っている。貞玉をソウルオリンピック前に済州島YMCAで慰安婦研究を発表させる。

 

 現在、山口二郎が盛んに言っている「慰安婦の存在を否定する人がいる」説の起源は、挺隊協のイ・ナヨンが言う「1990年1月に駐韓大使館の小野参事官が、慰安婦動員の証拠はない」と回答したことを持って、「慰安婦の存在を否定した」と強弁している事を山口が鵜呑みにしたのではないか。

 

 1991年7月に挺身隊協議会、当時研究会は金学順を探し出すのだが、8月15日の解放記念日に合わせて、14日に記者会見する。

 このとき、金学順は「国民が日本にしがみつくのを見ていたら我慢ならない」という興味深い事を言っている。人権問題ではなく、(北朝鮮と対立する)韓国が日本に援助受けて成長するのが、ダメだ、と言っているのだ。

挺身隊問題協議会の第一世代が

1924年生まれ

李効再 (女)

1943年18歳

1925年生まれ

尹 貞玉(ユン・ジョンオク)

1943年17歳

金大中は1926年生まれなので、李効再 (女)尹 貞玉(ユン・ジョンオク)とほぼ同世代である。

 

 

二人とも、1943年には梨花女子専門学校に在学しており、ともに米国に留学しているので、親はかなり裕福な親日派資産家であったと思われる。

※本人は親は裕福な独立運動家と言っているが。

参考までに、

在日韓国人親北朝鮮派)の徐勝(ソ・スン)は、1945年生まれ

その兄弟徐俊植は、1948年生まれ

徐 京植(ソ・キョンシク)は1951年生まれ。

徐 京植が20歳、1971年は、金日成、朴正熙時代。

1972年米国ニクソン、訪中。

盧武鉉は1946年生まれで、ほぼ同世代である。

文在寅(ムン・ジェイン)は1953年生まれなので、親北朝鮮派在日韓国人

徐 京植とほぼ同世代である。

第二世代は、

1953年生まれ

鄭鎭星(チョン・ジンソン)

ソウル大学社会科学大学社会学科卒業、シカゴ大学にてPh‐D取得。徳成女子大学教授を経て、現在ソウル大学教授・同大学社会発展研究 所長。また国|連人権小委員会委員を経て、2008年8月より国連人権理事会諮問委員会委員(副議長)

しかしこの問題の解決のために積極的に活動して国民基金に反対する一番進歩的な日本人の多くが、結局は日本をより良い社会にするためだという同じ動機と理由で活動しているという点に注目する必要がある。軍慰安婦問題で一番進歩的な目標を持った一人であり、韓国の運動にも非常に親密なある知識人は「どうして日本の恥部に触れるこの問題にこれほど深く関与するのか」を問うた著者に対し、「日本を倫理的に一段高い社会にするため」という返事をすぐにしたことがある。

日本軍の性奴隷制度 鄭 鎭星 P.253

 

李効再、尹貞玉、そして約10歳年下の鄭 鎭星が会って、挺身隊問題研究会の責任者は鄭 鎭星が就任して、研究会責任者だった尹貞玉が韓国挺身隊問題対策協議会を立ち上げることになった。

韓国・挺身隊問題対策協議会、Korean council for women drafted for military sexual slavery by Japan

 

2000年、共同代表は、尹貞玉(ユン・ジョンオク)、金允玉(キム・ユノク)、池銀姫(チ・ウニ)

 

 

 

池銀姫

1947年生まれ

ソウルの徳成女子大学の学長

韓国の女性大臣(ジェンダー平等省)2003年~2005年盧武鉉政権

池銀姫は李効再の薫陶を受けた。

1999年に挺身隊問題対策協議会の共同代表として名を売った池銀姫は

2003年に盧武鉉政権でジェンダー平等省の長官に就任。

2006年には、ジェンダー平等省の長官で名を売って徳成女子大学の学長となって、法政大学と学術一般協定を締結した。

2006年に後の代表、尹美香が事務総長に就任している。

2006年5月、韓国左翼政権盧武鉉政権において女性省長官が陸海空軍大佐級以上の将校300名に男女平等教育を行っている。

 

1987年2月に結成した韓国女性団体連合の共同代表経験者、または政策委員経験者が、女性省の一代から三代までを占める。

韓明淑ハンミョンスク1944

池銀姫 1947

張夏真チャンハジン1951

 

第三世代は、

1964年生まれ

尹 美香(ユン・ミヒャン)

1984年に20歳。この時代、1980年には光州事件が起きている。

1983年、大韓航空機爆破事件、ラングーンテロ。1984年は、88年のソウルオリンピックが開催決定してから3年経過している。

1993年に夫とその妹がスパイ事件で摘発され有罪となった。

 

初代挺身隊問題対策協議会の代表の一年先輩で1924年生まれ、朝鮮戦争時に米国留学し終戦時に梨花女子大に戻ってきた韓国戦後フェミニズムの指導者李効再の生徒だった池銀姫が水曜デモを主導し、後に盧武鉉政権の女性家族省長官に就任。盧武鉉政権の最側近が文在寅。両親は脱北者北朝鮮人。

 

1992年10月に始まった水曜デモは、「韓国保守政権」が日本と本格対立すれば、経済破綻に陥ることを見越しての「日本と戦えない保守政権」を国民運動で倒閣しよう、(北朝鮮の言いなりになる政権を作ろう)という運動だった。親北金大中政権成立の6年前に始まった。もちろん、朝鮮総連も協力。

 

現代先進国の社会には、様々な差別が残存し、これをどんな左翼政権も保守政権も解決する方途を実は持たない。だが、少なくとも、保守政権が存続する限り、保守政権だから、差別があるのだと、批判する強力な武器にはなるのである。

たとえば中国も北朝鮮も実際には、激しい女性差別と身分差別が存在する。しかし、これを不問に伏して、複数政党国家の保守政権に、女性差別の未解消責任を激しく突きつけて、政権交代を迫る事は、女性票が大きい以上、十分な力を持つのである。

挺隊協の主張によると、慰安婦像のかかとが地面についていないのは、「韓国政府の無責任さ」を表している。無責任でない韓国政府とは、日本と全面対決して、経済破綻しても、日本に助けを求めるな、北朝鮮よりも発展するなどまかりならぬ、韓国も北朝鮮と同じ程度にまずしくなれという意味である。

野中広務小泉純一郎小沢一郎はそれぞれ犬猿の仲。加藤の乱野中広務は抑えた。だが、これらの人物、皆、9条護憲、親北朝鮮派ではないか。これで自民党改憲できたはずもない。改憲できない、国防軍のない日本が半島を敵に回すのは危険極まりないから、韓国を助けなければならない。アホな日本。

日本は韓国、北朝鮮を突きはなして、つまり貧乏にさせて、半島まるごと、貧困軍事国家として対峙するために、日本の国防軍創設が急務である。
そうしない限り、寄生され、世界にプロパガンダを広められても北朝鮮危機を気にして韓国を支援せざるを得なくなる。国防軍を持って韓国を日本から離すべき。

 

スペイン内戦からスターリンの対日戦争計画まで

ソ連ヤルタ協定の日本に関するルーズベルトとの密約、およびポツダム会議におけるこの密約内容の再確認をしたことを正当化の根拠にして、「連合国に味方した」とソ連国民に説明。(チャーチルはこの密約が米国国民に知らされないままソ連の対日参戦に口実を与えたことから、協定に加わった事を恥じた。が、いずれにしてもそれは、ルースベルトの不祥事であり、当時の英米の国力差からして、ルーズベルトを強引に叱責できる者などだれもできなかった、という意味のことを言っている。)

 ソ連ヤルタ協定で、ルーズベルトに「ソ連が参戦して米国の将兵の損失を抑えてあげるから、その代わり、千島列島をソ連に「引き渡せ」と要求。だが、スターリンは、8月9日時点で、米国がもはや戦争疲れしていること、さらにソ連との戦争に転じる覚悟はないとにらんで、一気に北海道占領を企図していた。

 北海道占領を命を賭して阻止したのが、8月18日から21日の占守島の戦い(しゅむしゅとう)の戦い。この戦闘はソ連軍の北海道侵攻を躊躇させるに足るものだったが、日本将兵は21日に降伏、シベリア強制労働に向けて連行された。

 ソ連は日本軍がすでに戦闘行動停止命令を発した16日から9月1日までの間、「連合国降伏文書調印の前日」まで、ソ連の権益を図るために日本居留民を殺戮し、日本将兵シベリアにむけて連行し続けた。

 

欧州戦線に戻る。

1939年9月1日、ヒトラーは、ポーランドからダンツィヒまでのポーランド回廊を奪還して、ポーランド回廊に住むドイツ人の利益を高揚させる行動に出る。ヒトラーの望みはソ連征服だったが、その前にソ連をだまして独ソ不可侵条約を結んだ上で、ポーランドに侵攻した。

 8月23日不可侵条約→9月1日、ポーランド侵攻

 2日後、英国、フランスがドイツに宣戦布告。なぜ英国が宣戦布告したかと言えば、ドイツがベルサイユ体制を破棄したからであって、ドイツの侵略が英国・フランスに向かうと考えたからではない。

 さもなければ、英国、フランスはドイツがヒトラーが結局はソ連を倒し、そのあと、英国・フランスに向かうはずだから、独ソ共同で英国・フランスに向かってくる事態よりも前にドイツを抑え込もうとして、まずフランスが返り討ちにされて、恐怖にまみれた英国が米国の親英派に頼ったということが考えられる。

 米国国民の中で、特段、親英派でもない国民、その意を受けた議員たちは欧州戦線不介入の立場を持っていた。

 

 与党民主党もまた、欧州戦線へ米国が参戦して米国国民の息子たちを戦線に送ることに反対だった。1940年9月の段階で米国第一主義員会が、独ソ戦を模様眺めして、米国は非介入であるべきという見解が多数派だった。

 

 米国の取るべき選択肢は次のようなものだった。

 ソ連とドイツを戦わせるだけ戦わせて、二つの全体主義一党独裁(なおかつ権力分立の仕組みのない危険な国家)を共倒れさせる。あるいはできるだけ疲弊させる。

 もうひとつは、ドイツ一国を英米フランスソ連の共通の敵と規定して、米国も参戦し、ドイツを降伏させ、ベルサイユ体制に引き戻す。

 後者であれば、当然、ソ連の戦後権益の要求を呑むオプションも加わることになる。

 当時、米国の多数派は、ドイツにもソ連にも無関心で、ドイツもソ連も悪魔だと考えていたわけではなかったという理由で孤立を支持していたのだが、米国内には、ソ連社会主義を強烈に支持する進歩主義勢力も確実に存在した。

 彼らにとってドイツがソ連に向かって英国の安全保障が安定すればそれでいいというわけにはいかず、ソ連社会主義の希望として守る必要があった。

 

 こうした進歩的考えを持っていた米国少数派知識人の一人にルーズベルトも含まれていた。それは決して民主党政権の多数派ではなかった。

 この親ソ連進歩主義知識人たちは、米国の「多党制・私有財産の積極肯定・普通選挙制・権力分立制」の諸原則に鈍感で、貧困労働者の救済には敏感であったといえるだろう。

 

 ルーズベルト政権の進歩主義者(親ソ社会主義シンパ)たちは、米国の労働組合を擁護すると同時にソ連社会主義(インターナショナル)との友好を積極的に肯定していた。

 ドイツナチズムは、インターナショナルな労働組合を否定して、民族資本主義に立つという意味で相容れない勢力だったのである。この時点でユダヤホロコーストへの対抗意識があるわけではない。

 

 特段米国進歩派が慧眼を持ってナチズムの凶悪性に気づいていち早く対抗姿勢に出たというにしては、彼らは共産主義の凶悪性についてまったく無防備だった。

 倒した後で明らかになったナチズムの凶悪性は、米国国民の自負心と戦争の意義を自覚させたが、米国はナチズム掃討の過程でソ連を強大化させる条件を与えてしまったことに後に気づく。

 

 米国の指導層は常軌を逸するほどの愚者ではない。彼らは日本が先に米国に対して攻撃するように、まず、蒋介石を強力に支援。日本は植民地解放理念と国内の反資本主義的理念の台頭から、毛沢東よりも、より英米と結託する蒋介石を憎悪する勢力が勝っていた。

 その勢力のひとつが、朝日新聞記者たちであり、近衛文麿の側近、風見章である。

 近衛文麿自身が確信的共産主義者で敗戦革命を狙っていたのか、それとも、共産主義シンパ性と対米戦争という無理筋を回避しようとする迷いの中で右往左往していたのか、確定できる証拠はいまだにない。

 確固たる愛国者ではなく、侵略思想の持主でもなかったことは確かだろう。

 英米に対する反感を持ち、あとは、英米にぶつかって疲弊した後にソ連と組んで社会主義化したかったか、さもなければ、英米に対する反感を持ちつつも米国との戦争の無謀にすくんでいた、かといって経済復興の策も皆目わからないという不安におびえていたかのどちらかなのである。

 ルーズベルト達米国の少数派は、間違いなくソ連と米国が労働者に優しい国家として協調しうると信じていた。つまり、米国・蒋介石ソ連の穏健な進歩主義勢力が国際社会の新時代の主役になると錯誤していた。

 ところが、実際には、ソ連蒋介石を認めず、毛沢東金日成を立てて資本主義そのものを大真面目に破壊してきた。

 このソ連共産主義が大真面目な世界共産主義の輸出という戦略を実行に移す意思も能力もあることに気づいたのは、ルーズベルトの死後であり、米国は1945年8月18日のソ連の千島侵攻あたりから、なにかおかしいと気づきはじめ、1950年6月15日の北朝鮮軍13万5千の南朝鮮への侵攻ではじめて対ソ連観が全く間違いであったことに気づく。

 なぜなら、朝鮮戦争にいたって、それをソ連北朝鮮・中国のなすがままにしておけば、とんでもない勢いで、アジア全域が共産化して、共産主義国だけの貿易体制が完成して、もう一度米国の経済は大恐慌に陥ることは目に見えているからだ。

 最低でも朝鮮の半分、日本、台湾、ベトナムを資本主義国家にしておかねばならない。

 世界の警察というのは、米国のやけくそのような表現であり、日本からすれば米国に対する褒め殺しだった。

 米国は日本の満州権益を認めてソ連のアジアへの影響力にふたをして置く役割を持たせておくことを怠って、日本を破壊したために、その後、アジアから東南アジアにかけてのすべての軍事負担を用意し、米国の青年の生命を朝鮮・ベトナムで失うはめになった。

 このあまりに大きな失策は直視するにはあまりに大きな失策だったから、米国は凶悪極まりないナチスを倒した、日本のミリタリズムを抑え込んで日本国民に民主主義を教えたと言い張るしかなかった。

 もちろん、米国国民は、日本に民主主義を教えたというには、あまりにも国内に人種差別が残存していたことを知っていたし、フィリピンを植民地にしていた過程で、フィリピン人20万人を、不本意にもゲリラ掃討の過程で犠牲にしたという過ちを犯していたことも自覚していたのである。

 

 こうしてお互いの過ちを言わず語らず、歩み寄っていく中、日本の左翼勢力は、ソ連全体主義勢力の凶悪性に触れず、アメリカの格差と過ちのみを日本国民に伝えようと情熱をこめて邁進してきた。

 

 トルーマン政権もまたスターリンの狡知に敗北したと言っていい。

 スターリンは米国の広島・長崎への原爆投下を知ってもひるまなかった。

 米国は民衆の選挙によって政権を維持しているから、ソ連が中国・欧州・朝鮮を共産化させても、原爆だけは使用できない。使用すればかならず、米国のジャーナリストが政府を批判し、政権は国民の支持を失う。政権を失う恐怖に米国の政権は耐えられない。

 したがって、米国は原爆を使わない戦争しかできない、それならば、ソ連は対抗できる。

 朝鮮・中国・ベトナムにやらせて、米国の青年をあわてさせればよい。

 

 日本もまた、多くの青年が、日本国内で共産主義の夢をみるだけ見て勝手に内ゲバを起こしてバタバタとして死んでいき、ソ連

 

 

1917年ロシア革命

1919年 共産主義インターナショナル設立。(別称 コミンテルン

      実際には、ロシア国家中心の新興帝国主義で、世界の後続共産主義国家を傘下に納めて、ロシア国家の利益を図るものだったが、多くの者は、共産主義の理念を真理であると錯覚した。巨大な新興カルト宗教=詐欺の始まりと言っていい。

1919年 アメリカ共産党(非米国国籍の東欧系ユダヤ人主体)党員6万人規模

      1920年アメリカ司法当局は共産党員を一斉検挙。

1921年 イタリア共産党設立

       コミンテルンはドイツ共産党に人事圧力介入

1922年 日本共産党設立

1923年 コミンテルンはドイツ共産党にドイツ革命を指導。

1924年 レーニン死去 49か国の共産主義者がモスクワに集結

      この動きに米国共和党が関心を向け始める。

1928年 アメリカ共産主義者同盟設立

1929年 大恐慌始まる。

1930年 アメリカ共和党ソビエト共産党のアメリカおよび世界各国に対する内乱指導の態様に危機感を抱いて、フィッシュ委員会を設立して米国におけるソ連共産党と国内の共産主義者の関係を調査。

      ロンドン海軍軍縮条約

      日本の企業倒産相次ぐ。

1931年 スペインでボルボン王朝崩壊王族が追放される。

      日本の関東軍、陸軍参謀本部に逆らって、満州事変を起こす。

1932年 経済恐慌の中、ルーズベルト大統領に就任。

      日本で、反米マルクス主義研究者でアナキスト大川周明、海軍将校らが、計画経済への国家改造を企図して、立憲政友会、首相らを襲撃。

1933年 ナチス政権によるドイツ共産党弾圧とソ連へのナチス侵攻予測に危機を抱いたアメリカの共産主義者たちが、アメリカ労働総同盟共産党員を大量加入しはじめる。

1933年1月 ヒトラー首相に就任。

1933年11月 ルーズベルトソ連を承認。

        ソ連のリトビノフがアメリカでアメリカだましの「アメリカの政治に関与しない」発言をして、その実、これを機にアメリカ政府職員のうち、1949年までに3千名以上のスパイを送り込む。

※1953年には、ソ連に共鳴する共産主義者は9千名に上り、履歴書不実記載などで辞職に追い込まれた。

アメリカの反ソ連政治勢力の影響力急低下。

スターリンが駐ソ米国大使を歓迎。

アメリカ国内に米ソ友好組織を設立。

 

1934年 スペインで右翼政党と左翼政党が対立を深める

1936年 スペインで左翼政権成立保守派の将軍らが、逆襲に転じて、フランコ将軍が国家元首に就任。

      このスペイン内戦にアメリカの共産主義者が左翼勢力に加勢することを通じて、アメリカ国内の共産主義思想の普及に利用する。

1936年 日本で激しい経済不況下、226事件起こる。

 

 特にルーズベルト政権時代にアメリカに政策に大きな影響を及ぼした共産主義者は、

国務省の東欧部のロバート・ケリー、ジョージ・ケナンらはソ連に対して懐疑的だった。

1933年7月、国務省東欧部は、ルーズベルトに「ソ連は米国国内の共産革命を誘導している」と警告を発するが、ルーズベルト国務省東欧部を遠ざけ、なんの対策も取らなかった。

 

 日本は1931年から1941年まで14回におよぶ首相交代を繰り返しており、強力で、一定の方針を持つ政権とは言えなかった。また、日本もまた、米国同様、朝日新聞記者、近衛内閣市民機関、内閣書記官長をはじめ、重要スタッフ、民間活動家が新思想であるマルクス主義社会主義計画経済に左右を問わず、かぶれている者が多かった。

 

 ソ連が米国の援助を受けつつ1千6百万人の犠牲を払って、ドイツを敗北させたのは、ユダヤ人のホロコーストを知っていて、正義に燃えて戦ったわけでもなんでもない。

 ルーズベルトスターリンは1千6百万人を犠牲にしても降伏しなかっただけの事である。当時、ヒトラーは、反共産主義とベルサイユ体制の破壊者で、経済復興に長けた異能の政治家にしか見えていなかった。

 

 1936年9月、英国の当時、元首相という立場だったロイド・ジョージヒトラーソ連共産主義よりも信頼して、ドイツのベルヒテスガーデンで会談。

 皮肉なことに、ヒトラーは他国を搾取してドイツの経済を復興したのではなく、アメリカからの投資資金とフォード自動車の資本導入で経済を好転させた。

 奇妙なことに、ナチスは経済不況を打開するために、他国へ侵攻したのではなく、経済復興した後で、侵攻した。

 1936年の時点でナチスドイツは、政権を取った年に600万人だった失業者を100万人まで減少させた。

 

 英国のハリファックス卿が、ヒトラーオーストリアチェコスロバキアダンツィヒに関わる領土変更を容認する言質を与えたのは、1937年11月19日である。

 

 しかし、この経済復興もおそらくはギャンブルに勝ったまでの事で洞察力が優ったわけでもあるまい。ヒトラー共産党を弾圧したが、それは正しかったと言える。

 ヒトラー共産党を弾圧した理由は、第一次世界大戦のドイツ敗北とその後のドイツ、オーストリアの体験した悲惨な生活が、ドイツ共産党がドイツ敗戦革命をしようとしたからだと信じていたようだ。もうひとつ、やっかいな確信は、ソ連ユダヤ人、東欧のユダヤ人が共産主義革命によって、ユダヤ支配を確立しようとしているという認識で、これが性急な庶民ユダヤ人の命をも奪う政策につながっていった。

 ヒトラーは1937年までに、経済政策の成功に自信を得た後、さらに、憎むべき共産主義政権を倒して、その行きがけの駄賃で、ロシアの資源を獲得しようという野心を抱いた。

 スターリンはドイツの国力に震撼して、米国の支援を受けて、ドイツからの攻撃に耐え忍んでドイツを倒した後は、欧州に強力な反共政権は消滅し、米国もまた、共産主義に甘く、だましやすいのだから、ヒトラー後に、バルト三国、東欧、満州、モンゴル、日本、朝鮮を共産化してロシアの支配下に納めるつもりだったろう。

 

 1937年10月5日、ルーズベルトはシカゴの湖岸道路記念式典の演説で、日本、ドイツ、イタリアとの戦争をすでに決意している意思を示している。

 

 スペイン内戦におけるドイツのゲルニカ攻撃と日本の満州国建国、シナ事変の状況を非難している。

 このルーズベルトの発想は、日本の小田実大江健三郎、べ平連、進歩的文化人と類似している。つまり、ルーズベルトには、ソ連共産主義の脅威という観念がまったくなく、国務省東欧部の言うソ連の工作などまったく関心外だった。

 

 スターリンは、まず独ソ不可侵条約を結んで、ドイツをポーランド奪取のために、英国・フランスと戦わせる条件を提供する。独ソ不可侵条約を結べば、かならずドイツはポーランド奪取を実行に移し、その前に英国がポーランド独立を保証していることから、英独戦は不可避である。この英国のポーランド独立保証は、ルーズベルトが米国大使を通じて、チェンバレンに圧力をかけて生まれた政策で、スターリンがドイツと不可侵条約を結びさえすれば、ドイツの開戦決意は必至だった。

 では、なぜスターリンはドイツにポーランドに侵攻させ、英仏と戦うように仕向けたのか。

 おそらく、英仏資本主義国家群が危機に陥る状況になれば、米国が参戦すると踏んだのである。しかも、ソ連は米国と交戦しなくて済み、ヨーロッパ最強の反共国家のとどめを米国が刺してくれる。

 

 ロシアが旧ロシア領土を奪回し、さらに拡張するには、確実にドイツを崩壊させねばならない。そのためには、アメリカの力が必要だった。

 

 スターリンにとって好都合なことに、アジアの不倶戴天の敵、日本をシナの蒋介石一派がルーズベルトと組んで、日本を敵視していることで、日本をアメリカが倒してくれれば、日本という邪魔者なしに、毛沢東を支援できる。

 

 スターリンはまず英国にバルト三国のロシア編入を要求。それがかなえられれば、ドイツと不可侵条約を結ばないつもりだったが、英国はロシアの申し出を拒否した。

 そこで、まず先にドイツと英国・フランスを衝突させれば、ドイツの方が優位だから、ドイツ優位に傾いた情勢に米国が介入して、最終的には、ドイツを壊滅させる決め手になるはずだと考えていた。

 

 もうひとつ、スターリンにとって独ソ不可侵条約が得なのは、この協定を結んだとたん、日本はソ連との決着を躊躇せざるを得なくなるということだ。軽々しく、日本がソ連と交戦すれば、ソ連はドイツとの二正面作戦の懸念がなく、日本と交戦できる。

 こうして、日本にソ連との交戦を躊躇させている間、中国共産党の国民党に入ったスパイが、日本軍への挑発を繰り返していた。

 スターリンは、日本が独ソ不可侵協定を見て、ノモンハン紛争を停止したのを見届けて、二日後、ポーランド東部、バルト三国フィンランドを占領開始した。

 

 この時、英仏はソ連ポーランドバルト三国フィンランド占領に沈黙した事をポーランド人はその後、深く憤ったろう。ソ連は、ナチスの仕業にみせかけてポーランド人将校を含む2万1857人を秘密処刑して、戦後ポーランドの復興を阻止しようとしたとされる。

 

 英国とドイツの戦争は膠着状態が続き、もともと、ドイツは英国に関心がなく、ロシアの資源がほしかったので、ソ連侵攻に転じる。

 

ルーズベルトの思惑は大きく分けて二つあった。

  • 欧州および国内の戦争特需で国内の産業を活性化させること。
  • 日本の領土を削減してシナ大陸の権益を得て、蒋介石国民党とともに、共同開発すること。その際、ソ連は「一国社会主義」として協調できるはず。

結果として、前者は100%目的を達成し、後者はソ連を見誤ったために、日本のシナ権益を奪った部分をすべてソ連傘下の中国共産党北朝鮮に奪われた。

 その地政学的変化は東南アジアの共産勢力の増長を呼び、アメリカの青年たちは、北朝鮮ベトナムで地獄を見ることになる。

 しかし、やがて自由主義共産主義を経済発展の礎として機能し始めて、ソ連は国民に見限られて、崩壊することになる。北朝鮮もまた、自由が僅少であるゆえに、他国の発展に寄生するしかない。

 中国は、米国がルーズベルトの遺した負の遺産であるアジア全域の共産化に手を焼いたあげく、ソ連の孤立化の代償として、中国に資本を投資した結果、予想を超える経済力がつき、朝鮮半島全域、東南アジア、台湾を支配する意欲を示している。

 

 日本はあまりに長い親ソ親中思想の瀰漫の影響から抜け切れず、生命至上主義の錯誤から抜けられないでいる。

 

 英仏はルーズベルトの圧力とそそのかしによって、ポーランドをドイツの不当な侵略から守ると宣言したのだが、実際は、ポーランドにドイツとの妥協を進めるべきだった。それをしなかったために、ポーランドという英国と関係のない国を守るといったために、ロンドンは空襲を受けるはめになった。

 

 これと同じことが、日本の大東亜戦争の理由、アジアの植民地解放という大義にも言える。正義を主張しているように見えるが、自国の安全保障と無関係な理由で、国民三百万人を犠牲にしたことになってしまう。

 少なくとも、そういう大義は無用で、不当な米国の不当な経済封鎖に抵抗する、と言えば済むところを、解放闘争を掲げて、理念を掲げた戦争に突入してルーズベルトに応戦の口実を与えてしまった。

 

 それは大きな国力差からして、朝日新聞、非コミンテルン共産主義者の思うつぼの日本破滅の戦争突入だった。

 

ルーズベルトソ連を一国社会主義の労働者に優しいだけの福祉国家と錯覚したのは、ニューヨークタイムズのモスクワ特派員のフェイクニュースによって米国のリベラルの多くがだまされたこと、恐慌によって資本主義に自信を失っていたこと、スペイン内乱におけるファシスト政権と人民戦線の戦いという図式を取って、ピカソ、欧米知識人が義勇軍としてソ連共産党の側の陣営に属したことから、共産主義善玉観にはまり込んだ可能性がある。

 

 ジョージ・オーウェルソ連批判の著書「動物農場」は1945年8月17日刊行、「1984」は1949年刊行。オルダス・ハックスリーの「素晴らしき新世界」は1932年だったが、ソ連批判として普及し得なかった。

 

 

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日本終戦史録

1944年7月 サイパン陥落 東條英機総辞職

小磯国昭内閣

「聖戦完遂」「制空権を奪われる」

1944年7月ホノルル司令部

ルーズベルトマッカーサー将軍・ニミッツ提督

 

フィィリピンを奪回せよとマッカーサールーズベルトに3時間説得。

 

10月10日 ニミッツマッカーサーの沖縄周辺諸島攻略開始。

 

1945年2月6日 マッカ―サー、ほぼマニラを奪還

2月19日、ニミッツ、タラワ・硫黄島。などで激戦。

日本軍になかった火炎放射器。戦車の脆弱性

 

同じころ、2月、ヤルタ会談ルーズベルトチャーチルスターリン

当時、英国チャーチル共産主義国を嫌悪していたが、すでに英国の国力は衰退して、当面の敵、ドイツを破壊するまでは、ソ連・米国の意向を重視せざるをえない立場だった。

 ヤルタ会談はドイツ・バルト三国ポーランドにおけるソ連の意向をルーズベルトが受け入れ、チャートルがしびしぶ同町する形でおこなれた。

 また、蒋介石ソ連のアジアへの権益が強化されれば、中国共産党、その他アジアのあらゆる共産主義勢力に力を与えるので、、反対したが、ソ連に好感を持っていたルーズベルトスターリンに、南樺太の返還、千島の返還を認めるから、対日参戦せよ。と要請した。

 

 ほぼ同時期に近衛文麿が上奏した「近衛上奏文」は非常に意図測りがたく、不可解な内容で、またこの上奏文に対して「もう一度戦果をあげてからでないと中々話は難しい」と天皇が言ったと侍従長が書き残しているのも、にわかに信じたがたいほど意図が見えにくい。戦果があがれば、降伏のきっかけはさらにむずかしくなろう。」

 天皇の個人的戦争意欲を強調しようとしたねつ造が疑われる言葉である。

 仮に本当に天皇が言ったとして、「戦果があったから、もうこのへんでやめよう」などということがあろうとは考えられない。

 

 10月11日、大和沖航空戦

3月9日、10日東京大空襲 12日・19日・5月14日名古屋大規模空襲 大阪3月13日大空襲

 

B29爆撃は当初シナの成都から出撃して八幡製鉄所を目標にしていたが、マリアナ諸島を区略して航空基地を建設し、ここから1944年10月10日沖縄、11月29日東京空爆訓練 1945年1月20日、ルメイ少将就任。空爆技術、飛躍的に向上。

3月9日、10日東京大空襲

大阪・神戸・名古屋含め、全国200都市に空爆

3月17日、硫黄島陥落。

3月26日 沖縄諸島慶良間島上陸

ハーグ陸戦法規による占領

4月5日 小磯内閣 蒋介石との和平工作に失敗。

     ソ連が日本に対し、日ソ中立条約を延長しないと通告

     小磯内閣総辞職。

4月7日から硫黄島の戦闘機がB29を護衛しつつ空爆

4月8日 米国統合参謀本部は九州上陸を計画。

※日本は(超大国米国と交戦するには、統合参謀本部にあたるものがないという重大な欠陥を抱えていた。陸軍海軍を統御する参謀本部は存在せず、連絡会議あるいは指導会議のみだった。これは、対アジア・ロシアには通用しても、圧倒的戦力の米国には大きな欠陥であった。

また、これでは、ファシズムにならない。)

4月12日 ルーズベルト急死

ルーズベルトは原爆について副大統領と情報を共有しないという大きな失策を犯す側面がった。また、ハルノートについて議会に公開しておらず、終戦後、ソ連と敵対し始めた共和党に激しく糾弾されることになった。

 ルーズベルトの対ソ連融和政策はその後のソ連の世界覇権に有利な条件を作り出したので、米国共和党政権はルーズベルトを暗愚の大統領と糾弾し続けた。

一方、米国のリベラル勢力はルーズベルトソ連を擁護し続け、日本の再軍備に強い警戒感を持ち続けて今日にいいたる。

5月7日 ドイツ、無条件降伏

 ドイツの降伏を確認後、日本はヒトラーとその配下ナチス党に相当するファシズム政党は存在していないため、徹底抗戦派と終戦派が激しく対立して迷走したが、戦後、東大の共産党シンパの学派は、「天皇ファシズム」と見当違いの歴史認識を強調し続けた。

5月31日 台北大空襲。 米軍は沖縄県首里市を占領。

6月13日(6日に敗北を覚悟) 沖縄海軍部隊司令官自決

6月23日 沖縄守備軍司令官と参謀長が司令部で自決。

沖縄の民間人の85%の22万2千人は米軍がキャンプと呼ぶ収容施設に収容されて、軍政下におかれた。

※ 5月5日のドイツ降伏から6月8日の御前会議の間、日本の指導層は、

  • ソ連に好条件で日本の領土を差し出して、日ソ共同で米国に交戦を挑むという親ソ連派」(最終的には社会主義陣営に入って、貧困農民を救い農本主義反資本主義体制をソ連との協調で作り、天皇処刑も辞さないという思惑)
  • 「米国との和平を、あらゆる手(特に現時点で戦争当事者でないソ連の仲介)をつかって早急に講じるべし」
  • ソ連派ではないが、国体護持と(英米植民地体制の理不尽への反感)日本人の意地で本土決戦を行うという三者が交錯して、統一が不能なまま非ファシズム状況下、時が流れていった。

7月17日 ポツダム会談

 スターリンは日ソ中立条約を破って参戦する事をするため、英米に再確認した。

懐疑の最中にトルーマンは原爆の実戦配備準備が完了した旨報告を受けて、戦後のソ連の勢力を抑え込む方途を原爆の存在を前提に模索し始める。

 トルーマンは自身も実際には、原爆の実戦結果を見ていないが、途方もない威力というイメージを持ち、スターリンに米国が「かつてない威力の兵器を所有したことを伝えて、暗にスターリンを牽制した。スターリンはすでに米国政権中枢にスパイを入れて原爆を米国が所有したことは知っていたと思われる。

 スターリンは、米国が民衆の選挙によって維持するという重大な弱点を持つことから、一度日本に対して原爆を使用すれば、米国の有権者は、原爆の再使用(対ソ連)をそう簡単には容認しないだろうと予測して、原爆を恐れる事はないと判断したと推測される)

 その後、米国は朝鮮戦争・中国内戦・欧州のソ連介入に対して、原爆再使用が米国国民から容認されることはなく、再使用は政権ダメージが強いと懸念して、共産主義との冷戦に神経をすり減らすことになる。

 米国は原爆を共産国に再使用することを躊躇したまま、共産国の原爆の大量保有が確立されていった。

 この時点でポツダム宣言を起草した米国の対日分析当局者は、日本が「ミリタリズム(先軍政治であると誤認していた)

 ※のちにマッカーサー朝鮮戦争を経験するまでの月日を通して、日本は先軍政治の軍人が強引に侵略を進めたという分析は錯誤であって、ソ連共産主義の脅威ゆえにシナ大陸に進駐していたこと、侵略と断じて日本との貿易を断ったことは、日本の死活問題であったと考え、上院に対日認識の修正を提言する。

 しかし、この時点で米国は米軍将兵多数の犠牲を払った対日戦争の正当性を再考する余裕を到底持ちえなかった。

 

※京都に原爆投下しなかったのは、軍事基地が少なすぎるというのが理由というのが、通説となっている。

空襲は全国200以上の市に対して行われ、空襲の恐怖を体験した人は全国各地にいることになるが、正確には例えば青森県でいえば5市周辺住民、秋田でいえば2市周辺住民以外の市町村の人々は一切空爆の恐怖を知らなかったともいえる。

 

 2011年に日本経済新聞社が調査したところによると、1944年10月10日から1945年8月15日まで続いた都市空爆の犠牲者は、死者約33万人。負傷者数43万人と推定されている。

 

 1945年2月13日から15日にかけて行われたドレスデン空爆は、ドレスデン市民が、最低2万5千人、最高で15万人が死亡した。ベルリン、ライプツィヒドレスデンへの都市爆撃は、少なくとも戦争作戦司令部の意図としては、「早期決着(自軍の将兵の生命・資源消費を抑える)を目標として企図された。」

 8月14日午前会議

 8月14日夜、ソ連は米国に対して北海道の北半分占領の意思を表明。トルーマン政権はこれがヤルタ密約にさえも無いことから、拒絶。

 8月15日終戦詔勅

 鈴木貫太郎内閣総辞職

 8月16日 東久邇宮(くにのみや)内閣

 この時点で吉田茂は、米国資本の招致と科学振興を日本人なら活かせると、希望を見出していた。

 石橋湛山は「米英とともに日本の逆悪と戦っていた」と日記に記した。

そこに、共産主義に併吞されるとか、共産主義との内戦がありうるという懸念は毛ほどもなかった。

 また、片山哲は「社会主義政党を結成しよう」と、早くも米英がソ連スターリンと協調していたという構図が続くものと認識したうえで、社会主義が世の趨勢だと楽観的に考えていた。(西尾末広ら、後の社会党政治家たちも似たような認識だった)

 

 8月28日 米軍先遣隊到着。この時点で米軍はフィリピン、沖縄を6月23日以来軍政下において陸軍は、事実上、交戦を停止していた。そのうえで、8月6日航空軍司令部、広島に原爆投下。8月9日、長崎に原爆投下。

 8月29日、マッカーサーは次の点で思い違いをしていた。

 米国の労働組合ソ連と通じてはおらず利益団体であったが、日本の労働組合コミンテルン共産党、非コミンテルンマルクスレーニン主義者が指導する以外に労働組合を指導できる人材は日本に不在だったが、この矛盾をマッカーサーは楽観視した。

 日本の労働組合は、マルクス・レーニン主義の活動拠点となった。

 警察による弾圧廃止政策は、在日朝鮮人の暴力を擁護する結果になり、戦後に長い負の遺産を残した。また、日本の警察にFBIのような国家的規模に犯罪に対処する操作能力を持たせる機会失わせる元になり、日本に左翼勢力、韓国の左翼勢力が跋扈して、北朝鮮の勢力温存につながり、最終的に北朝鮮の核の脅威となって、米国の安全保障の脅威が生じてきた。日本の過度な弱体化が、後に米国自身の安全保障上のリスクとして米国に跳ね返ってきた。

 マッカーサーミズーリ号における日本の降伏文書の調印式で述べた言葉には、米国の平均的な認識が、ソ連共産主義についてこの時点でまったく無警戒だったことを証明している。

「相異なるイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場で解決され、もはや論争の対象とならなくなった・」この時、マッカーサーが相異なる理論と言って、何を指していたのか、不明である。可能性としては、日本は領土拡張主義で、英米フランスの植民地支配は長い年月をかけて解消されていくから、非民主国による現状変更は不可、というのが、マッカーサーなりの思い込みだったのかもしれない。

 マッカーサーや平均的米国人の誤算は、日本を抑え込んでも、ソ連後進国各国に援助を与えて、武力による現状変更を迫ってくる未来が来ることに気づかなかったこと、

 そして、それは民族自立という正義を立てた、その実ソ連および各国の共産主義者の権力奪取の野望でもあったことだった。

 マッカーサーは、日本の軍人指導層の地位を奪えば、世界の紛争は終わると思い込んでいた。この思い込みは、朝鮮戦争によって、過ちだったことに気づかされる。

 ソ連社会主義全体主義一党独裁政権は、戦後のソ連中心の共産主義国家拡張を目指して、モンゴル、満州・シナ大陸・東南アジア全域・欧州・のすべてを共産主義化する野望を抱いて、日本侵攻を決意。最低でも、朝鮮北部、北海道、樺太・千島列島にソ連の基地おくため、急遽侵攻を開始した。

 

 ソ連ヤルタ協定の日本に関するルーズベルトとの密約、およびポツダム会議におけるこの密約内容の再確認をしたことを正当化の根拠にして、「連合国に味方した」とソ連国民に説明。(チャーチルはこの密約が米国国民に知らされないままソ連の対日参戦に口実を与えたことから、協定に加わった事を恥じた。が、いずれにしてもそれは、ルースベルトの不祥事であり、当時の英米の国力差からして、ルーズベルトを強引に叱責できる者などだれもできなかった、という意味のことを言っている。)

 ソ連ヤルタ協定で、ルーズベルトに「ソ連が参戦して米国の将兵の損失を抑えてあげるから、その代わり、千島列島をソ連に「引き渡せ」と要求。だが、スターリンは、8月9日時点で、米国がもはや戦争疲れしていること、さらにソ連との戦争に転じる覚悟はないとにらんで、一気に北海道占領を企図していた。

 北海道占領を命を賭して阻止したのが、8月18日から21日の占守島の戦い(しゅむしゅとう)の戦い。この戦闘はソ連軍の北海道侵攻を躊躇させるに足るものだったが、日本将兵は21日に降伏、シベリア強制労働に向けて連行された。

 ソ連は日本軍がすでに戦闘行動停止命令を発した16日から9月1日までの間、「連合国降伏文書調印の前日」まで、ソ連の権益を図るために日本居留民を殺戮し、日本将兵シベリアにむけて連行し続けた。

 

欧州戦線に戻る。

1939年9月1日、ヒトラーは、ポーランドからダンツィヒまでのポーランド回廊を奪還して、ポーランド回廊に住むドイツ人の利益を高揚させる行動に出る。ヒトラーの望みはソ連征服だったが、その前にソ連をだまして独ソ不可侵条約を結んだ上で、ポーランドに侵攻した。

 8月23日不可侵条約→9月1日、ポーランド侵攻

 2日後、英国、フランスがドイツに宣戦布告。なぜ英国が宣戦布告したかと言えば、ドイツがベルサイユ体制を破棄したからであって、ドイツの侵略が英国・フランスに向かうと考えたからではない。

 さもなければ、英国、フランスはドイツがヒトラーが結局はソ連を倒し、そのあと、英国・フランスに向かうはずだから、独ソ共同で英国・フランスに向かってくる事態よりも前にドイツを抑え込もうとして、まずフランスが返り討ちにされて、恐怖にまみれた英国が米国の親英派に頼ったということが考えられる。

 米国国民の中で、特段、親英派でもない国民、その意を受けた議員たちは欧州戦線不介入の立場を持っていた。

 

 与党民主党もまた、欧州戦線へ米国が参戦して米国国民の息子たちを戦線に送ることに反対だった。1940年9月の段階で米国第一主義員会が、独ソ戦を模様眺めして、米国は非介入であるべきという見解が多数派だった。

 

 米国の取るべき選択肢は次のようなものだった。

 ソ連とドイツを戦わせるだけ戦わせて、二つの全体主義一党独裁(なおかつ権力分立の仕組みのない危険な国家)を共倒れさせる。あるいはできるだけ疲弊させる。

 もうひとつは、ドイツ一国を英米フランスソ連の共通の敵と規定して、米国も参戦し、ドイツを降伏させ、ベルサイユ体制に引き戻す。

 後者であれば、当然、ソ連の戦後権益の要求を呑むオプションも加わることになる。

 当時、米国の多数派は、ドイツにもソ連にも無関心で、ドイツもソ連も悪魔だと考えていたわけではなかったという理由で孤立を支持していたのだが、米国内には、ソ連社会主義を強烈に支持する進歩主義勢力も確実に存在した。

 彼らにとってドイツがソ連に向かって英国の安全保障が安定すればそれでいいというわけにはいかず、ソ連社会主義の希望として守る必要があった。

 

 こうした進歩的考えを持っていた米国少数派知識人の一人にルーズベルトも含まれていた。それは決して民主党政権の多数派ではなかった。

 この親ソ連進歩主義知識人たちは、米国の「多党制・私有財産の積極肯定・普通選挙制・権力分立制」の諸原則に鈍感で、貧困労働者の救済には敏感であったといえるだろう。

 

 ルーズベルト政権の進歩主義者(親ソ社会主義シンパ)たちは、米国の労働組合を擁護すると同時にソ連社会主義(インターナショナル)との友好を積極的に肯定していた。

 ドイツナチズムは、インターナショナルな労働組合を否定して、民族資本主義に立つという意味で相容れない勢力だったのである。この時点でユダヤホロコーストへの対抗意識があるわけではない。

 

 特段米国進歩派が慧眼を持ってナチズムの凶悪性に気づいていち早く対抗姿勢に出たというにしては、彼らは共産主義の凶悪性についてまったく無防備だった。

 倒した後で明らかになったナチズムの凶悪性は、米国国民の自負心と戦争の意義を自覚させたが、米国はナチズム掃討の過程でソ連を強大化させる条件を与えてしまったことに後に気づく。

 

 米国の指導層は常軌を逸するほどの愚者ではない。彼らは日本が先に米国に対して攻撃するように、まず、蒋介石を強力に支援。日本は植民地解放理念と国内の反資本主義的理念の台頭から、毛沢東よりも、より英米と結託する蒋介石を憎悪する勢力が勝っていた。

 その勢力のひとつが、朝日新聞記者たちであり、近衛文麿の側近、風見章である。

 近衛文麿自身が確信的共産主義者で敗戦革命を狙っていたのか、それとも、共産主義シンパ性と対米戦争という無理筋を回避しようとする迷いの中で右往左往していたのか、確定できる証拠はいまだにない。

 確固たる愛国者ではなく、侵略思想の持主でもなかったことは確かだろう。

 英米に対する反感を持ち、あとは、英米にぶつかって疲弊した後にソ連と組んで社会主義化したかったか、さもなければ、英米に対する反感を持ちつつも米国との戦争の無謀にすくんでいた、かといって経済復興の策も皆目わからないという不安におびえていたかのどちらかなのである。

 ルーズベルト達米国の少数派は、間違いなくソ連と米国が労働者に優しい国家として協調しうると信じていた。つまり、米国・蒋介石ソ連の穏健な進歩主義勢力が国際社会の新時代の主役になると錯誤していた。

 ところが、実際には、ソ連蒋介石を認めず、毛沢東金日成を立てて資本主義そのものを大真面目に破壊してきた。

 このソ連共産主義が大真面目な世界共産主義の輸出という戦略を実行に移す意思も能力もあることに気づいたのは、ルーズベルトの死後であり、米国は1945年8月18日のソ連の千島侵攻あたりから、なにかおかしいと気づきはじめ、1950年6月15日の北朝鮮軍13万5千の南朝鮮への侵攻ではじめて対ソ連観が全く間違いであったことに気づく。

 なぜなら、朝鮮戦争にいたって、それをソ連北朝鮮・中国のなすがままにしておけば、とんでもない勢いで、アジア全域が共産化して、共産主義国だけの貿易体制が完成して、もう一度米国の経済は大恐慌に陥ることは目に見えているからだ。

 最低でも朝鮮の半分、日本、台湾、ベトナムを資本主義国家にしておかねばならない。

 世界の警察というのは、米国のやけくそのような表現であり、日本からすれば米国に対する褒め殺しだった。

 米国は日本の満州権益を認めてソ連のアジアへの影響力にふたをして置く役割を持たせておくことを怠って、日本を破壊したために、その後、アジアから東南アジアにかけてのすべての軍事負担を用意し、米国の青年の生命を朝鮮・ベトナムで失うはめになった。

 このあまりに大きな失策は直視するにはあまりに大きな失策だったから、米国は凶悪極まりないナチスを倒した、日本のミリタリズムを抑え込んで日本国民に民主主義を教えたと言い張るしかなかった。

 もちろん、米国国民は、日本に民主主義を教えたというには、あまりにも国内に人種差別が残存していたことを知っていたし、フィリピンを植民地にしていた過程で、フィリピン人20万人を、不本意にもゲリラ掃討の過程で犠牲にしたという過ちを犯していたことも自覚していたのである。

 

 こうしてお互いの過ちを言わず語らず、歩み寄っていく中、日本の左翼勢力は、ソ連全体主義勢力の凶悪性に触れず、アメリカの格差と過ちのみを日本国民に伝えようと情熱をこめて邁進してきた。

 

 トルーマン政権もまたスターリンの狡知に敗北したと言っていい。

 スターリンは米国の広島・長崎への原爆投下を知ってもひるまなかった。

 米国は民衆の選挙によって政権を維持しているから、ソ連が中国・欧州・朝鮮を共産化させても、原爆だけは使用できない。使用すればかならず、米国のジャーナリストが政府を批判し、政権は国民の支持を失う。政権を失う恐怖に米国の政権は耐えられない。

 したがって、米国は原爆を使わない戦争しかできない、それならば、ソ連は対抗できる。

 朝鮮・中国・ベトナムにやらせて、米国の青年をあわてさせればよい。

 

 日本もまた、多くの青年が、日本国内で共産主義の夢をみるだけ見て勝手に内ゲバを起こしてバタバタとして死んでいった。ソ連の手を煩わせず。

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