8月13日ツィートの2
1.樺山紘一 東京大学教授 南京虐殺100万人説紹介者。現代用語の基礎知識1996年に、南京大虐殺の犠牲者数は100万人と記入。 NHK人間大学に出演
2.水島朝穂 早稲田大学教授 水際侵攻阻止のための、浮遊式地雷に反対。 攻撃ではなく、専守防衛でも反対。 赤旗常連。 NHKコメンテーター
北朝鮮狂いの作家小田実まこと 「北朝鮮の人びと」昭和53年2月 潮出版社 263ページ「北朝鮮の生活水準は、中国の二倍だ」 258ページ「息子を後継者とすることに対する他国の無責任な批判」 265ページ「平等、飢えの問題を自分なりのやり方でかなりのところまで解決している社会だった。」
辛淑玉と漫画家の石坂啓 「日本人は侵略されても殺されろ。私は親族が中国籍なんです。」
1978年生まれの成城大学講師、神子島健は、岩波書店「世界」2014年9月号で、「日本は過去の戦争への反省に基づく強固な平和主義のゆえに戦争をせずにきたが」と書いた。 韓国に米軍基地があれば、朝鮮戦争は起きていないのである。北朝鮮が「これは手強い」と思うからだ。
福島原発事故の設計者本人が、米国ゼネラルエレクトリックの社員当時、わたしが、設計を間違えて、脆弱に作ってしまった。申し訳ないと語った。 日本だけが悪いように大騒ぎした日本社会。
NHKの韓国中心史観 ディレクターが日本共産党系だからこういうことをやらかす。韓国ファンタジードラマをこき交ぜる。 実際には「古墳」ではなく、天皇の墳墓。
8月13日のツィート
GHQのソ連スパイハーバート・ノーマンはケンブリッジ大学留学中、共産主義に感化され、インド人学生に共産主義勧誘を行った。NHKはハーバート・ノーマンに関するドキュメンタリーから、ケンブリッジ大学のソ連スパイの件、ノーマンの親友はスペイン内戦に参加して戦死した、件をカットした。
「1984」は、逆ユートピアのディストピア小説だが、荻原浩の「ワンダーランド急行」も興味深いディストピア小説だ。 けったいな宗教が蔓延した社会。AIがSNSに微小に拡散された個人情報をかき集めて、噂話を自動で記述してネットに流すという状況をChatGPTが話題になる前に小説化している。
同じ宣教師の息子でも、ハーバート・ノーマン反日共産主義者。ライシャワーは親日。 ジョン・ダワー教授は、日本の軍国主義はアメリカに影響されたものという反米反日を書き、共産主義のハーバート・ノーマンを擁護した。
ケンブリッジ・ファイヴ事件 英国の大物5人組ソ連スパイ 1950年代に露見してソ連に亡命した。 英国諜報機関「MI6」のワシントン支局代表がソ連のスパイだった。ミッションインポッシブルはこれを参考にしている。没後、ソ連で国葬された。 一人は王族。
この赤ん坊を放り投げて銃剣で刺殺するプロパガンダを誰が証言したかというと、華僑の蕭文虎という人物のたったひとつの証言による。しかも、蕭文虎を日本に招待したのが、「南京大虐殺」本の著者藤原彰の弟子である林博史。 林博史は『日本軍性奴隷制を裁く』というプロパガンダの著者である。
元大阪市長、平松邦夫がMBSプロデユーサーと協力して、MBSアナウンサー時代にやらかした「南京大虐殺プロパガンダ」 こんなふうに、マスゴミは国民を扇動していた。
China史ノート 2 高祖本紀 劉邦
「小名木 始皇帝」と動画サイトで検索すると、「始皇帝の一族は日本に来ていた」「始皇帝が目指した理想の国家」という動画が出てくる。 冗談ではない。暴虐の始皇帝が日本と関係があってたまるものか。 始皇帝は儒者を生き埋めにして殺し、書物を焚書。 酷法に文句を言うと、一族皆殺しした。
劉邦の言葉は、史記「高祖本紀」に書いてあるので、一般論として伝えられるイメージがわかる。 「この地の(地域の顔役)・長老たちは、秦の過酷な法に苦しめられてきた。法を非難する者は一族皆殺しになった。盛り場で立ち話しているだけでも、処刑された。私は殺人は死刑、傷害犯強盗犯は処罰する。
劉邦の言葉は、史記「高祖本紀」に書いてあるので、一般論として伝えられるイメージがわかる。 「この地の(地域の顔役)・長老たちは、秦の過酷な法に苦しめられてきた。法を非難する者は一族皆殺しになった。盛り場で立ち話しているだけでも、処刑された。私は殺人は死刑、傷害犯強盗犯は処罰する。
その他はいったん秦の法令は廃止します。」 つまり、「秦の法治主義」なるものは、先制強権政治で、劉邦はこれを(古代China史書においても)強く認識していた、ということを意味する。 昨今、日本では詐欺が横行している。日本史・アジア史を講演してのうのうとカネを荒稼ぎする者もいる。
China史ノート 1 列伝 3 趙 奢(ちょう しゃ)
参政党顧問の小名木氏は秦の始皇帝が
法治主義、項羽が自由主義、劉邦が人治主義で、以後Chinaは人治主義だという。
中国共産党一党独裁、そして中国人の国民性に低劣な点がある事実はともかく、
以上のような見方は間違いである。
史記列伝に言う、趙 奢(ちょう しゃ)は、
紀元前280年の趙に法意識があったことを示す。
趙 奢(ちょう しゃ)の逸話は、徴税官であった趙 奢(ちょう しゃ)が、税金を払わなかった(恵文王の弟)平原君の配下の者を裁判所に訴え、訴えられた者は死罪になった。
平原君が王族であることを笠に着て、趙 奢(ちょう しゃ)に向かって激怒し、殺そうとすると、
「私は法に則っただけです。法が守られなくては国は繁栄せず、法を軽んじれば国は衰退します。そして王族であるあなたが法を守らなくては、一体誰が守るものでしょうか」
と答えて平原君をうならせた。
また、明の朱元璋は法に則り、数万人を粛清している。
つまり、法によって殺すことが共産主義的な絶対権力・法治主義の表れ。
China史ノート 1 列伝 2 伍 子胥(ご ししょ)
起源前522年頃、楚の太子、建は、父に追われて鄭国に亡命した。鄭国は歓待したが、建は、晋に行った。 晋王は「建よ、鄭国はおまえを信用している。おまえはもう一度鄭国に行き、鄭国の政策に関与して、わが晋と呼応して動け。晋が鄭国に攻め入れば、鄭国は滅びる。」と言い、建は、鄭国に戻る
建と晋の策謀は、太子建の従者の密告によって、鄭国の知るところとなり、殺害されてしまう。 この時、建についていた伍 子胥ご ししょが、逃亡して呉に行き、将軍となり、呉王を補佐して、楚を敗北させ、父の仇敵である平王の墓を暴いて死体を鞭で打つことによって、復讐を遂げる。
伍 子胥ご ししょが太子の建と楚を逃亡した理由は、父が楚の平王に父と兄を処刑されたからだった。
「(古代歴史家)トゥキディデスの罠(The Thucydides Trap)」海上交易を抑える経済大国としてアテナイが台頭し、陸上における軍事的覇権を事実上握っていたスパルタとの間で対立。30年不戦条約をしたが、ついに戦争になる。新興国が先進国に挑む危機として米中対立を捉えている見方。 対して中国は他のトップはともかく、少なくとも毛沢東は三国志や資治通鑑をしきりに読んでいたとされる。
春秋左氏伝、史記で最も三大逸話とされるのは、「趙氏孤児」、「伍 子胥(ご ししょ」「越王勾践こうせん」(どれも近年長編ドラマ化された)これがテーマが同一で、「奴隷的境遇に陥り、20年以上の長い月日を、復讐の念を忘れずに生き抜き、ついに最後に復讐を遂げる」という物語で共通している。
「日暮れて道遠し」というのは、学問業績をものにするには、寿命は長いという意味ではなく、「復讐を遂げるには、老い先短く、急がねばならず」 復讐相手の仇敵が死んでしまったなら、墓を暴いて死体を出して、鞭でうちのめし、これで復讐を果たしたことになる、というのが、「伍 子胥」の逸話である。
Chinaにも、やりすぎだと否定する論もある。だが、司馬遷は、若き日に絶望自殺しかねなかったのに、復讐の念を忘れずに生き抜いて遂にし遂げたのは傑物だったと評価する。
China史ノート 1 列伝 管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)
司馬遷は管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)を人間像を比べる形で記述した。
管仲(かん ちゅう)は知恵者で浪費家、晏 嬰(あん えい)は人格者で倹約家と評価した。
しかし、この列伝の魅力は、管仲(かん ちゅう)の友人関係にある。
管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)が友人だったというのではなく、
管仲(かん ちゅう)には鮑叔という友人がいた。
この鮑叔との友情が生き生きとしている。
「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとして、かえって彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を非難しなかった。
私はが仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。
私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。
公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて殉死できず、辱めを受けた。だが鮑叔は黙っていた。 父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」
鮑叔は、管仲(かん ちゅう)が危機に陥った時、「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒の2人で十分です。しかし天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言って、管仲(かん ちゅう)を救った。
鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。
斉の領土を21郷に分けた。
物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農漁民の生活を安定させた。
管仲は「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と言ったとされる。
孔子は『論語』で、管仲は暮らしぶりが贅沢だったと非難したことがある。
世評は鮑叔は人を見る目がある傑物だと讃えた。
管仲は斎の名宰相なのだが、その百年後、晏平仲嬰が現れる。
晏 嬰(あん えいとも言われる。同じく斎の名宰相。
身長は135㎝ほどで低身長ではあった。
管仲は有能、内政外交に成果をあげ、なおかつ豪奢な生活をしたが、晏 嬰(あん えいは、とにかく、質素な暮らしぶりだった。
(国家)を第一に考えて恐れず諫言を行い、人民に絶大な人気を博し、君主は彼の意見を重視した。質素を心がけること極端で、肉が食卓に出ることが稀だった。また狐の毛皮服を、30年も着ていたといわれる。
霊公の王妃は男装趣味があり、町の女性はこれを真似して、男装の女性が流行った。
霊公は禁止しようとして、禁令を出したが、収まらなかった。
晏 嬰は、「牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります」言って王妃の男装を止めさせた。
「牛頭馬肉」が、後に「羊頭狗肉」になった。
ただし、見かけを飾って内実をごまかすことが羊頭狗肉の意味だから、意味は変容している。
司馬遷は晏 嬰を尊敬した。
史記は、徳川家康が駿府の文庫に蔵していた図書に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえるように、史記原書は膨大であり、一般読書人向けの書物として出版されている「史記」に完全版はなく、皆、抄出本のみである。
また、China古代の状況を知るため貴重ではあっても、人間群像を文学的な感銘とともに、受け取るという意味では、一部の抄出本でも十分だともいえる。
全部読まなければ気が済まないとなると、結局積読になってしまい、昧読せずに終わってしまいかねない。
一海知義; 田中謙二 『史記 中国古典選』〈朝日選書〉 全3巻、朝日新聞社、1996年。ISBN 4022590033。
大木康 『司馬遷 現代語訳 史記』〈ちくま新書〉筑摩書房、2011年。抜粋版
小川環樹; 今鷹真; 福島吉彦 『史記列伝』 全5巻、岩波文庫、1975年。ワイド版岩波文庫、2015-2016年
小川環樹; 今鷹真; 福島吉彦 『史記世家』 全3巻、岩波文庫、1980・1984・1991年。
貝塚茂樹; 川勝義雄 『史記列伝』〈中公クラシックス〉 全2巻、中央公論新社、
2001年。抜粋版
のように、多くは抜粋版である。