スペイン内戦からスターリンの対日戦争計画まで

ソ連ヤルタ協定の日本に関するルーズベルトとの密約、およびポツダム会議におけるこの密約内容の再確認をしたことを正当化の根拠にして、「連合国に味方した」とソ連国民に説明。(チャーチルはこの密約が米国国民に知らされないままソ連の対日参戦に口実を与えたことから、協定に加わった事を恥じた。が、いずれにしてもそれは、ルースベルトの不祥事であり、当時の英米の国力差からして、ルーズベルトを強引に叱責できる者などだれもできなかった、という意味のことを言っている。)

 ソ連ヤルタ協定で、ルーズベルトに「ソ連が参戦して米国の将兵の損失を抑えてあげるから、その代わり、千島列島をソ連に「引き渡せ」と要求。だが、スターリンは、8月9日時点で、米国がもはや戦争疲れしていること、さらにソ連との戦争に転じる覚悟はないとにらんで、一気に北海道占領を企図していた。

 北海道占領を命を賭して阻止したのが、8月18日から21日の占守島の戦い(しゅむしゅとう)の戦い。この戦闘はソ連軍の北海道侵攻を躊躇させるに足るものだったが、日本将兵は21日に降伏、シベリア強制労働に向けて連行された。

 ソ連は日本軍がすでに戦闘行動停止命令を発した16日から9月1日までの間、「連合国降伏文書調印の前日」まで、ソ連の権益を図るために日本居留民を殺戮し、日本将兵シベリアにむけて連行し続けた。

 

欧州戦線に戻る。

1939年9月1日、ヒトラーは、ポーランドからダンツィヒまでのポーランド回廊を奪還して、ポーランド回廊に住むドイツ人の利益を高揚させる行動に出る。ヒトラーの望みはソ連征服だったが、その前にソ連をだまして独ソ不可侵条約を結んだ上で、ポーランドに侵攻した。

 8月23日不可侵条約→9月1日、ポーランド侵攻

 2日後、英国、フランスがドイツに宣戦布告。なぜ英国が宣戦布告したかと言えば、ドイツがベルサイユ体制を破棄したからであって、ドイツの侵略が英国・フランスに向かうと考えたからではない。

 さもなければ、英国、フランスはドイツがヒトラーが結局はソ連を倒し、そのあと、英国・フランスに向かうはずだから、独ソ共同で英国・フランスに向かってくる事態よりも前にドイツを抑え込もうとして、まずフランスが返り討ちにされて、恐怖にまみれた英国が米国の親英派に頼ったということが考えられる。

 米国国民の中で、特段、親英派でもない国民、その意を受けた議員たちは欧州戦線不介入の立場を持っていた。

 

 与党民主党もまた、欧州戦線へ米国が参戦して米国国民の息子たちを戦線に送ることに反対だった。1940年9月の段階で米国第一主義員会が、独ソ戦を模様眺めして、米国は非介入であるべきという見解が多数派だった。

 

 米国の取るべき選択肢は次のようなものだった。

 ソ連とドイツを戦わせるだけ戦わせて、二つの全体主義一党独裁(なおかつ権力分立の仕組みのない危険な国家)を共倒れさせる。あるいはできるだけ疲弊させる。

 もうひとつは、ドイツ一国を英米フランスソ連の共通の敵と規定して、米国も参戦し、ドイツを降伏させ、ベルサイユ体制に引き戻す。

 後者であれば、当然、ソ連の戦後権益の要求を呑むオプションも加わることになる。

 当時、米国の多数派は、ドイツにもソ連にも無関心で、ドイツもソ連も悪魔だと考えていたわけではなかったという理由で孤立を支持していたのだが、米国内には、ソ連社会主義を強烈に支持する進歩主義勢力も確実に存在した。

 彼らにとってドイツがソ連に向かって英国の安全保障が安定すればそれでいいというわけにはいかず、ソ連社会主義の希望として守る必要があった。

 

 こうした進歩的考えを持っていた米国少数派知識人の一人にルーズベルトも含まれていた。それは決して民主党政権の多数派ではなかった。

 この親ソ連進歩主義知識人たちは、米国の「多党制・私有財産の積極肯定・普通選挙制・権力分立制」の諸原則に鈍感で、貧困労働者の救済には敏感であったといえるだろう。

 

 ルーズベルト政権の進歩主義者(親ソ社会主義シンパ)たちは、米国の労働組合を擁護すると同時にソ連社会主義(インターナショナル)との友好を積極的に肯定していた。

 ドイツナチズムは、インターナショナルな労働組合を否定して、民族資本主義に立つという意味で相容れない勢力だったのである。この時点でユダヤホロコーストへの対抗意識があるわけではない。

 

 特段米国進歩派が慧眼を持ってナチズムの凶悪性に気づいていち早く対抗姿勢に出たというにしては、彼らは共産主義の凶悪性についてまったく無防備だった。

 倒した後で明らかになったナチズムの凶悪性は、米国国民の自負心と戦争の意義を自覚させたが、米国はナチズム掃討の過程でソ連を強大化させる条件を与えてしまったことに後に気づく。

 

 米国の指導層は常軌を逸するほどの愚者ではない。彼らは日本が先に米国に対して攻撃するように、まず、蒋介石を強力に支援。日本は植民地解放理念と国内の反資本主義的理念の台頭から、毛沢東よりも、より英米と結託する蒋介石を憎悪する勢力が勝っていた。

 その勢力のひとつが、朝日新聞記者たちであり、近衛文麿の側近、風見章である。

 近衛文麿自身が確信的共産主義者で敗戦革命を狙っていたのか、それとも、共産主義シンパ性と対米戦争という無理筋を回避しようとする迷いの中で右往左往していたのか、確定できる証拠はいまだにない。

 確固たる愛国者ではなく、侵略思想の持主でもなかったことは確かだろう。

 英米に対する反感を持ち、あとは、英米にぶつかって疲弊した後にソ連と組んで社会主義化したかったか、さもなければ、英米に対する反感を持ちつつも米国との戦争の無謀にすくんでいた、かといって経済復興の策も皆目わからないという不安におびえていたかのどちらかなのである。

 ルーズベルト達米国の少数派は、間違いなくソ連と米国が労働者に優しい国家として協調しうると信じていた。つまり、米国・蒋介石ソ連の穏健な進歩主義勢力が国際社会の新時代の主役になると錯誤していた。

 ところが、実際には、ソ連蒋介石を認めず、毛沢東金日成を立てて資本主義そのものを大真面目に破壊してきた。

 このソ連共産主義が大真面目な世界共産主義の輸出という戦略を実行に移す意思も能力もあることに気づいたのは、ルーズベルトの死後であり、米国は1945年8月18日のソ連の千島侵攻あたりから、なにかおかしいと気づきはじめ、1950年6月15日の北朝鮮軍13万5千の南朝鮮への侵攻ではじめて対ソ連観が全く間違いであったことに気づく。

 なぜなら、朝鮮戦争にいたって、それをソ連北朝鮮・中国のなすがままにしておけば、とんでもない勢いで、アジア全域が共産化して、共産主義国だけの貿易体制が完成して、もう一度米国の経済は大恐慌に陥ることは目に見えているからだ。

 最低でも朝鮮の半分、日本、台湾、ベトナムを資本主義国家にしておかねばならない。

 世界の警察というのは、米国のやけくそのような表現であり、日本からすれば米国に対する褒め殺しだった。

 米国は日本の満州権益を認めてソ連のアジアへの影響力にふたをして置く役割を持たせておくことを怠って、日本を破壊したために、その後、アジアから東南アジアにかけてのすべての軍事負担を用意し、米国の青年の生命を朝鮮・ベトナムで失うはめになった。

 このあまりに大きな失策は直視するにはあまりに大きな失策だったから、米国は凶悪極まりないナチスを倒した、日本のミリタリズムを抑え込んで日本国民に民主主義を教えたと言い張るしかなかった。

 もちろん、米国国民は、日本に民主主義を教えたというには、あまりにも国内に人種差別が残存していたことを知っていたし、フィリピンを植民地にしていた過程で、フィリピン人20万人を、不本意にもゲリラ掃討の過程で犠牲にしたという過ちを犯していたことも自覚していたのである。

 

 こうしてお互いの過ちを言わず語らず、歩み寄っていく中、日本の左翼勢力は、ソ連全体主義勢力の凶悪性に触れず、アメリカの格差と過ちのみを日本国民に伝えようと情熱をこめて邁進してきた。

 

 トルーマン政権もまたスターリンの狡知に敗北したと言っていい。

 スターリンは米国の広島・長崎への原爆投下を知ってもひるまなかった。

 米国は民衆の選挙によって政権を維持しているから、ソ連が中国・欧州・朝鮮を共産化させても、原爆だけは使用できない。使用すればかならず、米国のジャーナリストが政府を批判し、政権は国民の支持を失う。政権を失う恐怖に米国の政権は耐えられない。

 したがって、米国は原爆を使わない戦争しかできない、それならば、ソ連は対抗できる。

 朝鮮・中国・ベトナムにやらせて、米国の青年をあわてさせればよい。

 

 日本もまた、多くの青年が、日本国内で共産主義の夢をみるだけ見て勝手に内ゲバを起こしてバタバタとして死んでいき、ソ連

 

 

1917年ロシア革命

1919年 共産主義インターナショナル設立。(別称 コミンテルン

      実際には、ロシア国家中心の新興帝国主義で、世界の後続共産主義国家を傘下に納めて、ロシア国家の利益を図るものだったが、多くの者は、共産主義の理念を真理であると錯覚した。巨大な新興カルト宗教=詐欺の始まりと言っていい。

1919年 アメリカ共産党(非米国国籍の東欧系ユダヤ人主体)党員6万人規模

      1920年アメリカ司法当局は共産党員を一斉検挙。

1921年 イタリア共産党設立

       コミンテルンはドイツ共産党に人事圧力介入

1922年 日本共産党設立

1923年 コミンテルンはドイツ共産党にドイツ革命を指導。

1924年 レーニン死去 49か国の共産主義者がモスクワに集結

      この動きに米国共和党が関心を向け始める。

1928年 アメリカ共産主義者同盟設立

1929年 大恐慌始まる。

1930年 アメリカ共和党ソビエト共産党のアメリカおよび世界各国に対する内乱指導の態様に危機感を抱いて、フィッシュ委員会を設立して米国におけるソ連共産党と国内の共産主義者の関係を調査。

      ロンドン海軍軍縮条約

      日本の企業倒産相次ぐ。

1931年 スペインでボルボン王朝崩壊王族が追放される。

      日本の関東軍、陸軍参謀本部に逆らって、満州事変を起こす。

1932年 経済恐慌の中、ルーズベルト大統領に就任。

      日本で、反米マルクス主義研究者でアナキスト大川周明、海軍将校らが、計画経済への国家改造を企図して、立憲政友会、首相らを襲撃。

1933年 ナチス政権によるドイツ共産党弾圧とソ連へのナチス侵攻予測に危機を抱いたアメリカの共産主義者たちが、アメリカ労働総同盟共産党員を大量加入しはじめる。

1933年1月 ヒトラー首相に就任。

1933年11月 ルーズベルトソ連を承認。

        ソ連のリトビノフがアメリカでアメリカだましの「アメリカの政治に関与しない」発言をして、その実、これを機にアメリカ政府職員のうち、1949年までに3千名以上のスパイを送り込む。

※1953年には、ソ連に共鳴する共産主義者は9千名に上り、履歴書不実記載などで辞職に追い込まれた。

アメリカの反ソ連政治勢力の影響力急低下。

スターリンが駐ソ米国大使を歓迎。

アメリカ国内に米ソ友好組織を設立。

 

1934年 スペインで右翼政党と左翼政党が対立を深める

1936年 スペインで左翼政権成立保守派の将軍らが、逆襲に転じて、フランコ将軍が国家元首に就任。

      このスペイン内戦にアメリカの共産主義者が左翼勢力に加勢することを通じて、アメリカ国内の共産主義思想の普及に利用する。

1936年 日本で激しい経済不況下、226事件起こる。

 

 特にルーズベルト政権時代にアメリカに政策に大きな影響を及ぼした共産主義者は、

国務省の東欧部のロバート・ケリー、ジョージ・ケナンらはソ連に対して懐疑的だった。

1933年7月、国務省東欧部は、ルーズベルトに「ソ連は米国国内の共産革命を誘導している」と警告を発するが、ルーズベルト国務省東欧部を遠ざけ、なんの対策も取らなかった。

 

 日本は1931年から1941年まで14回におよぶ首相交代を繰り返しており、強力で、一定の方針を持つ政権とは言えなかった。また、日本もまた、米国同様、朝日新聞記者、近衛内閣市民機関、内閣書記官長をはじめ、重要スタッフ、民間活動家が新思想であるマルクス主義社会主義計画経済に左右を問わず、かぶれている者が多かった。

 

 ソ連が米国の援助を受けつつ1千6百万人の犠牲を払って、ドイツを敗北させたのは、ユダヤ人のホロコーストを知っていて、正義に燃えて戦ったわけでもなんでもない。

 ルーズベルトスターリンは1千6百万人を犠牲にしても降伏しなかっただけの事である。当時、ヒトラーは、反共産主義とベルサイユ体制の破壊者で、経済復興に長けた異能の政治家にしか見えていなかった。

 

 1936年9月、英国の当時、元首相という立場だったロイド・ジョージヒトラーソ連共産主義よりも信頼して、ドイツのベルヒテスガーデンで会談。

 皮肉なことに、ヒトラーは他国を搾取してドイツの経済を復興したのではなく、アメリカからの投資資金とフォード自動車の資本導入で経済を好転させた。

 奇妙なことに、ナチスは経済不況を打開するために、他国へ侵攻したのではなく、経済復興した後で、侵攻した。

 1936年の時点でナチスドイツは、政権を取った年に600万人だった失業者を100万人まで減少させた。

 

 英国のハリファックス卿が、ヒトラーオーストリアチェコスロバキアダンツィヒに関わる領土変更を容認する言質を与えたのは、1937年11月19日である。

 

 しかし、この経済復興もおそらくはギャンブルに勝ったまでの事で洞察力が優ったわけでもあるまい。ヒトラー共産党を弾圧したが、それは正しかったと言える。

 ヒトラー共産党を弾圧した理由は、第一次世界大戦のドイツ敗北とその後のドイツ、オーストリアの体験した悲惨な生活が、ドイツ共産党がドイツ敗戦革命をしようとしたからだと信じていたようだ。もうひとつ、やっかいな確信は、ソ連ユダヤ人、東欧のユダヤ人が共産主義革命によって、ユダヤ支配を確立しようとしているという認識で、これが性急な庶民ユダヤ人の命をも奪う政策につながっていった。

 ヒトラーは1937年までに、経済政策の成功に自信を得た後、さらに、憎むべき共産主義政権を倒して、その行きがけの駄賃で、ロシアの資源を獲得しようという野心を抱いた。

 スターリンはドイツの国力に震撼して、米国の支援を受けて、ドイツからの攻撃に耐え忍んでドイツを倒した後は、欧州に強力な反共政権は消滅し、米国もまた、共産主義に甘く、だましやすいのだから、ヒトラー後に、バルト三国、東欧、満州、モンゴル、日本、朝鮮を共産化してロシアの支配下に納めるつもりだったろう。

 

 1937年10月5日、ルーズベルトはシカゴの湖岸道路記念式典の演説で、日本、ドイツ、イタリアとの戦争をすでに決意している意思を示している。

 

 スペイン内戦におけるドイツのゲルニカ攻撃と日本の満州国建国、シナ事変の状況を非難している。

 このルーズベルトの発想は、日本の小田実大江健三郎、べ平連、進歩的文化人と類似している。つまり、ルーズベルトには、ソ連共産主義の脅威という観念がまったくなく、国務省東欧部の言うソ連の工作などまったく関心外だった。

 

 スターリンは、まず独ソ不可侵条約を結んで、ドイツをポーランド奪取のために、英国・フランスと戦わせる条件を提供する。独ソ不可侵条約を結べば、かならずドイツはポーランド奪取を実行に移し、その前に英国がポーランド独立を保証していることから、英独戦は不可避である。この英国のポーランド独立保証は、ルーズベルトが米国大使を通じて、チェンバレンに圧力をかけて生まれた政策で、スターリンがドイツと不可侵条約を結びさえすれば、ドイツの開戦決意は必至だった。

 では、なぜスターリンはドイツにポーランドに侵攻させ、英仏と戦うように仕向けたのか。

 おそらく、英仏資本主義国家群が危機に陥る状況になれば、米国が参戦すると踏んだのである。しかも、ソ連は米国と交戦しなくて済み、ヨーロッパ最強の反共国家のとどめを米国が刺してくれる。

 

 ロシアが旧ロシア領土を奪回し、さらに拡張するには、確実にドイツを崩壊させねばならない。そのためには、アメリカの力が必要だった。

 

 スターリンにとって好都合なことに、アジアの不倶戴天の敵、日本をシナの蒋介石一派がルーズベルトと組んで、日本を敵視していることで、日本をアメリカが倒してくれれば、日本という邪魔者なしに、毛沢東を支援できる。

 

 スターリンはまず英国にバルト三国のロシア編入を要求。それがかなえられれば、ドイツと不可侵条約を結ばないつもりだったが、英国はロシアの申し出を拒否した。

 そこで、まず先にドイツと英国・フランスを衝突させれば、ドイツの方が優位だから、ドイツ優位に傾いた情勢に米国が介入して、最終的には、ドイツを壊滅させる決め手になるはずだと考えていた。

 

 もうひとつ、スターリンにとって独ソ不可侵条約が得なのは、この協定を結んだとたん、日本はソ連との決着を躊躇せざるを得なくなるということだ。軽々しく、日本がソ連と交戦すれば、ソ連はドイツとの二正面作戦の懸念がなく、日本と交戦できる。

 こうして、日本にソ連との交戦を躊躇させている間、中国共産党の国民党に入ったスパイが、日本軍への挑発を繰り返していた。

 スターリンは、日本が独ソ不可侵協定を見て、ノモンハン紛争を停止したのを見届けて、二日後、ポーランド東部、バルト三国フィンランドを占領開始した。

 

 この時、英仏はソ連ポーランドバルト三国フィンランド占領に沈黙した事をポーランド人はその後、深く憤ったろう。ソ連は、ナチスの仕業にみせかけてポーランド人将校を含む2万1857人を秘密処刑して、戦後ポーランドの復興を阻止しようとしたとされる。

 

 英国とドイツの戦争は膠着状態が続き、もともと、ドイツは英国に関心がなく、ロシアの資源がほしかったので、ソ連侵攻に転じる。

 

ルーズベルトの思惑は大きく分けて二つあった。

  • 欧州および国内の戦争特需で国内の産業を活性化させること。
  • 日本の領土を削減してシナ大陸の権益を得て、蒋介石国民党とともに、共同開発すること。その際、ソ連は「一国社会主義」として協調できるはず。

結果として、前者は100%目的を達成し、後者はソ連を見誤ったために、日本のシナ権益を奪った部分をすべてソ連傘下の中国共産党北朝鮮に奪われた。

 その地政学的変化は東南アジアの共産勢力の増長を呼び、アメリカの青年たちは、北朝鮮ベトナムで地獄を見ることになる。

 しかし、やがて自由主義共産主義を経済発展の礎として機能し始めて、ソ連は国民に見限られて、崩壊することになる。北朝鮮もまた、自由が僅少であるゆえに、他国の発展に寄生するしかない。

 中国は、米国がルーズベルトの遺した負の遺産であるアジア全域の共産化に手を焼いたあげく、ソ連の孤立化の代償として、中国に資本を投資した結果、予想を超える経済力がつき、朝鮮半島全域、東南アジア、台湾を支配する意欲を示している。

 

 日本はあまりに長い親ソ親中思想の瀰漫の影響から抜け切れず、生命至上主義の錯誤から抜けられないでいる。

 

 英仏はルーズベルトの圧力とそそのかしによって、ポーランドをドイツの不当な侵略から守ると宣言したのだが、実際は、ポーランドにドイツとの妥協を進めるべきだった。それをしなかったために、ポーランドという英国と関係のない国を守るといったために、ロンドンは空襲を受けるはめになった。

 

 これと同じことが、日本の大東亜戦争の理由、アジアの植民地解放という大義にも言える。正義を主張しているように見えるが、自国の安全保障と無関係な理由で、国民三百万人を犠牲にしたことになってしまう。

 少なくとも、そういう大義は無用で、不当な米国の不当な経済封鎖に抵抗する、と言えば済むところを、解放闘争を掲げて、理念を掲げた戦争に突入してルーズベルトに応戦の口実を与えてしまった。

 

 それは大きな国力差からして、朝日新聞、非コミンテルン共産主義者の思うつぼの日本破滅の戦争突入だった。

 

ルーズベルトソ連を一国社会主義の労働者に優しいだけの福祉国家と錯覚したのは、ニューヨークタイムズのモスクワ特派員のフェイクニュースによって米国のリベラルの多くがだまされたこと、恐慌によって資本主義に自信を失っていたこと、スペイン内乱におけるファシスト政権と人民戦線の戦いという図式を取って、ピカソ、欧米知識人が義勇軍としてソ連共産党の側の陣営に属したことから、共産主義善玉観にはまり込んだ可能性がある。

 

 ジョージ・オーウェルソ連批判の著書「動物農場」は1945年8月17日刊行、「1984」は1949年刊行。オルダス・ハックスリーの「素晴らしき新世界」は1932年だったが、ソ連批判として普及し得なかった。

 

 

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日本終戦史録

1944年7月 サイパン陥落 東條英機総辞職

小磯国昭内閣

「聖戦完遂」「制空権を奪われる」

1944年7月ホノルル司令部

ルーズベルトマッカーサー将軍・ニミッツ提督

 

フィィリピンを奪回せよとマッカーサールーズベルトに3時間説得。

 

10月10日 ニミッツマッカーサーの沖縄周辺諸島攻略開始。

 

1945年2月6日 マッカ―サー、ほぼマニラを奪還

2月19日、ニミッツ、タラワ・硫黄島。などで激戦。

日本軍になかった火炎放射器。戦車の脆弱性

 

同じころ、2月、ヤルタ会談ルーズベルトチャーチルスターリン

当時、英国チャーチル共産主義国を嫌悪していたが、すでに英国の国力は衰退して、当面の敵、ドイツを破壊するまでは、ソ連・米国の意向を重視せざるをえない立場だった。

 ヤルタ会談はドイツ・バルト三国ポーランドにおけるソ連の意向をルーズベルトが受け入れ、チャートルがしびしぶ同町する形でおこなれた。

 また、蒋介石ソ連のアジアへの権益が強化されれば、中国共産党、その他アジアのあらゆる共産主義勢力に力を与えるので、、反対したが、ソ連に好感を持っていたルーズベルトスターリンに、南樺太の返還、千島の返還を認めるから、対日参戦せよ。と要請した。

 

 ほぼ同時期に近衛文麿が上奏した「近衛上奏文」は非常に意図測りがたく、不可解な内容で、またこの上奏文に対して「もう一度戦果をあげてからでないと中々話は難しい」と天皇が言ったと侍従長が書き残しているのも、にわかに信じたがたいほど意図が見えにくい。戦果があがれば、降伏のきっかけはさらにむずかしくなろう。」

 天皇の個人的戦争意欲を強調しようとしたねつ造が疑われる言葉である。

 仮に本当に天皇が言ったとして、「戦果があったから、もうこのへんでやめよう」などということがあろうとは考えられない。

 

 10月11日、大和沖航空戦

3月9日、10日東京大空襲 12日・19日・5月14日名古屋大規模空襲 大阪3月13日大空襲

 

B29爆撃は当初シナの成都から出撃して八幡製鉄所を目標にしていたが、マリアナ諸島を区略して航空基地を建設し、ここから1944年10月10日沖縄、11月29日東京空爆訓練 1945年1月20日、ルメイ少将就任。空爆技術、飛躍的に向上。

3月9日、10日東京大空襲

大阪・神戸・名古屋含め、全国200都市に空爆

3月17日、硫黄島陥落。

3月26日 沖縄諸島慶良間島上陸

ハーグ陸戦法規による占領

4月5日 小磯内閣 蒋介石との和平工作に失敗。

     ソ連が日本に対し、日ソ中立条約を延長しないと通告

     小磯内閣総辞職。

4月7日から硫黄島の戦闘機がB29を護衛しつつ空爆

4月8日 米国統合参謀本部は九州上陸を計画。

※日本は(超大国米国と交戦するには、統合参謀本部にあたるものがないという重大な欠陥を抱えていた。陸軍海軍を統御する参謀本部は存在せず、連絡会議あるいは指導会議のみだった。これは、対アジア・ロシアには通用しても、圧倒的戦力の米国には大きな欠陥であった。

また、これでは、ファシズムにならない。)

4月12日 ルーズベルト急死

ルーズベルトは原爆について副大統領と情報を共有しないという大きな失策を犯す側面がった。また、ハルノートについて議会に公開しておらず、終戦後、ソ連と敵対し始めた共和党に激しく糾弾されることになった。

 ルーズベルトの対ソ連融和政策はその後のソ連の世界覇権に有利な条件を作り出したので、米国共和党政権はルーズベルトを暗愚の大統領と糾弾し続けた。

一方、米国のリベラル勢力はルーズベルトソ連を擁護し続け、日本の再軍備に強い警戒感を持ち続けて今日にいいたる。

5月7日 ドイツ、無条件降伏

 ドイツの降伏を確認後、日本はヒトラーとその配下ナチス党に相当するファシズム政党は存在していないため、徹底抗戦派と終戦派が激しく対立して迷走したが、戦後、東大の共産党シンパの学派は、「天皇ファシズム」と見当違いの歴史認識を強調し続けた。

5月31日 台北大空襲。 米軍は沖縄県首里市を占領。

6月13日(6日に敗北を覚悟) 沖縄海軍部隊司令官自決

6月23日 沖縄守備軍司令官と参謀長が司令部で自決。

沖縄の民間人の85%の22万2千人は米軍がキャンプと呼ぶ収容施設に収容されて、軍政下におかれた。

※ 5月5日のドイツ降伏から6月8日の御前会議の間、日本の指導層は、

  • ソ連に好条件で日本の領土を差し出して、日ソ共同で米国に交戦を挑むという親ソ連派」(最終的には社会主義陣営に入って、貧困農民を救い農本主義反資本主義体制をソ連との協調で作り、天皇処刑も辞さないという思惑)
  • 「米国との和平を、あらゆる手(特に現時点で戦争当事者でないソ連の仲介)をつかって早急に講じるべし」
  • ソ連派ではないが、国体護持と(英米植民地体制の理不尽への反感)日本人の意地で本土決戦を行うという三者が交錯して、統一が不能なまま非ファシズム状況下、時が流れていった。

7月17日 ポツダム会談

 スターリンは日ソ中立条約を破って参戦する事をするため、英米に再確認した。

懐疑の最中にトルーマンは原爆の実戦配備準備が完了した旨報告を受けて、戦後のソ連の勢力を抑え込む方途を原爆の存在を前提に模索し始める。

 トルーマンは自身も実際には、原爆の実戦結果を見ていないが、途方もない威力というイメージを持ち、スターリンに米国が「かつてない威力の兵器を所有したことを伝えて、暗にスターリンを牽制した。スターリンはすでに米国政権中枢にスパイを入れて原爆を米国が所有したことは知っていたと思われる。

 スターリンは、米国が民衆の選挙によって維持するという重大な弱点を持つことから、一度日本に対して原爆を使用すれば、米国の有権者は、原爆の再使用(対ソ連)をそう簡単には容認しないだろうと予測して、原爆を恐れる事はないと判断したと推測される)

 その後、米国は朝鮮戦争・中国内戦・欧州のソ連介入に対して、原爆再使用が米国国民から容認されることはなく、再使用は政権ダメージが強いと懸念して、共産主義との冷戦に神経をすり減らすことになる。

 米国は原爆を共産国に再使用することを躊躇したまま、共産国の原爆の大量保有が確立されていった。

 この時点でポツダム宣言を起草した米国の対日分析当局者は、日本が「ミリタリズム(先軍政治であると誤認していた)

 ※のちにマッカーサー朝鮮戦争を経験するまでの月日を通して、日本は先軍政治の軍人が強引に侵略を進めたという分析は錯誤であって、ソ連共産主義の脅威ゆえにシナ大陸に進駐していたこと、侵略と断じて日本との貿易を断ったことは、日本の死活問題であったと考え、上院に対日認識の修正を提言する。

 しかし、この時点で米国は米軍将兵多数の犠牲を払った対日戦争の正当性を再考する余裕を到底持ちえなかった。

 

※京都に原爆投下しなかったのは、軍事基地が少なすぎるというのが理由というのが、通説となっている。

空襲は全国200以上の市に対して行われ、空襲の恐怖を体験した人は全国各地にいることになるが、正確には例えば青森県でいえば5市周辺住民、秋田でいえば2市周辺住民以外の市町村の人々は一切空爆の恐怖を知らなかったともいえる。

 

 2011年に日本経済新聞社が調査したところによると、1944年10月10日から1945年8月15日まで続いた都市空爆の犠牲者は、死者約33万人。負傷者数43万人と推定されている。

 

 1945年2月13日から15日にかけて行われたドレスデン空爆は、ドレスデン市民が、最低2万5千人、最高で15万人が死亡した。ベルリン、ライプツィヒドレスデンへの都市爆撃は、少なくとも戦争作戦司令部の意図としては、「早期決着(自軍の将兵の生命・資源消費を抑える)を目標として企図された。」

 8月14日午前会議

 8月14日夜、ソ連は米国に対して北海道の北半分占領の意思を表明。トルーマン政権はこれがヤルタ密約にさえも無いことから、拒絶。

 8月15日終戦詔勅

 鈴木貫太郎内閣総辞職

 8月16日 東久邇宮(くにのみや)内閣

 この時点で吉田茂は、米国資本の招致と科学振興を日本人なら活かせると、希望を見出していた。

 石橋湛山は「米英とともに日本の逆悪と戦っていた」と日記に記した。

そこに、共産主義に併吞されるとか、共産主義との内戦がありうるという懸念は毛ほどもなかった。

 また、片山哲は「社会主義政党を結成しよう」と、早くも米英がソ連スターリンと協調していたという構図が続くものと認識したうえで、社会主義が世の趨勢だと楽観的に考えていた。(西尾末広ら、後の社会党政治家たちも似たような認識だった)

 

 8月28日 米軍先遣隊到着。この時点で米軍はフィリピン、沖縄を6月23日以来軍政下において陸軍は、事実上、交戦を停止していた。そのうえで、8月6日航空軍司令部、広島に原爆投下。8月9日、長崎に原爆投下。

 8月29日、マッカーサーは次の点で思い違いをしていた。

 米国の労働組合ソ連と通じてはおらず利益団体であったが、日本の労働組合コミンテルン共産党、非コミンテルンマルクスレーニン主義者が指導する以外に労働組合を指導できる人材は日本に不在だったが、この矛盾をマッカーサーは楽観視した。

 日本の労働組合は、マルクス・レーニン主義の活動拠点となった。

 警察による弾圧廃止政策は、在日朝鮮人の暴力を擁護する結果になり、戦後に長い負の遺産を残した。また、日本の警察にFBIのような国家的規模に犯罪に対処する操作能力を持たせる機会失わせる元になり、日本に左翼勢力、韓国の左翼勢力が跋扈して、北朝鮮の勢力温存につながり、最終的に北朝鮮の核の脅威となって、米国の安全保障の脅威が生じてきた。日本の過度な弱体化が、後に米国自身の安全保障上のリスクとして米国に跳ね返ってきた。

 マッカーサーミズーリ号における日本の降伏文書の調印式で述べた言葉には、米国の平均的な認識が、ソ連共産主義についてこの時点でまったく無警戒だったことを証明している。

「相異なるイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場で解決され、もはや論争の対象とならなくなった・」この時、マッカーサーが相異なる理論と言って、何を指していたのか、不明である。可能性としては、日本は領土拡張主義で、英米フランスの植民地支配は長い年月をかけて解消されていくから、非民主国による現状変更は不可、というのが、マッカーサーなりの思い込みだったのかもしれない。

 マッカーサーや平均的米国人の誤算は、日本を抑え込んでも、ソ連後進国各国に援助を与えて、武力による現状変更を迫ってくる未来が来ることに気づかなかったこと、

 そして、それは民族自立という正義を立てた、その実ソ連および各国の共産主義者の権力奪取の野望でもあったことだった。

 マッカーサーは、日本の軍人指導層の地位を奪えば、世界の紛争は終わると思い込んでいた。この思い込みは、朝鮮戦争によって、過ちだったことに気づかされる。

 ソ連社会主義全体主義一党独裁政権は、戦後のソ連中心の共産主義国家拡張を目指して、モンゴル、満州・シナ大陸・東南アジア全域・欧州・のすべてを共産主義化する野望を抱いて、日本侵攻を決意。最低でも、朝鮮北部、北海道、樺太・千島列島にソ連の基地おくため、急遽侵攻を開始した。

 

 ソ連ヤルタ協定の日本に関するルーズベルトとの密約、およびポツダム会議におけるこの密約内容の再確認をしたことを正当化の根拠にして、「連合国に味方した」とソ連国民に説明。(チャーチルはこの密約が米国国民に知らされないままソ連の対日参戦に口実を与えたことから、協定に加わった事を恥じた。が、いずれにしてもそれは、ルースベルトの不祥事であり、当時の英米の国力差からして、ルーズベルトを強引に叱責できる者などだれもできなかった、という意味のことを言っている。)

 ソ連ヤルタ協定で、ルーズベルトに「ソ連が参戦して米国の将兵の損失を抑えてあげるから、その代わり、千島列島をソ連に「引き渡せ」と要求。だが、スターリンは、8月9日時点で、米国がもはや戦争疲れしていること、さらにソ連との戦争に転じる覚悟はないとにらんで、一気に北海道占領を企図していた。

 北海道占領を命を賭して阻止したのが、8月18日から21日の占守島の戦い(しゅむしゅとう)の戦い。この戦闘はソ連軍の北海道侵攻を躊躇させるに足るものだったが、日本将兵は21日に降伏、シベリア強制労働に向けて連行された。

 ソ連は日本軍がすでに戦闘行動停止命令を発した16日から9月1日までの間、「連合国降伏文書調印の前日」まで、ソ連の権益を図るために日本居留民を殺戮し、日本将兵シベリアにむけて連行し続けた。

 

欧州戦線に戻る。

1939年9月1日、ヒトラーは、ポーランドからダンツィヒまでのポーランド回廊を奪還して、ポーランド回廊に住むドイツ人の利益を高揚させる行動に出る。ヒトラーの望みはソ連征服だったが、その前にソ連をだまして独ソ不可侵条約を結んだ上で、ポーランドに侵攻した。

 8月23日不可侵条約→9月1日、ポーランド侵攻

 2日後、英国、フランスがドイツに宣戦布告。なぜ英国が宣戦布告したかと言えば、ドイツがベルサイユ体制を破棄したからであって、ドイツの侵略が英国・フランスに向かうと考えたからではない。

 さもなければ、英国、フランスはドイツがヒトラーが結局はソ連を倒し、そのあと、英国・フランスに向かうはずだから、独ソ共同で英国・フランスに向かってくる事態よりも前にドイツを抑え込もうとして、まずフランスが返り討ちにされて、恐怖にまみれた英国が米国の親英派に頼ったということが考えられる。

 米国国民の中で、特段、親英派でもない国民、その意を受けた議員たちは欧州戦線不介入の立場を持っていた。

 

 与党民主党もまた、欧州戦線へ米国が参戦して米国国民の息子たちを戦線に送ることに反対だった。1940年9月の段階で米国第一主義員会が、独ソ戦を模様眺めして、米国は非介入であるべきという見解が多数派だった。

 

 米国の取るべき選択肢は次のようなものだった。

 ソ連とドイツを戦わせるだけ戦わせて、二つの全体主義一党独裁(なおかつ権力分立の仕組みのない危険な国家)を共倒れさせる。あるいはできるだけ疲弊させる。

 もうひとつは、ドイツ一国を英米フランスソ連の共通の敵と規定して、米国も参戦し、ドイツを降伏させ、ベルサイユ体制に引き戻す。

 後者であれば、当然、ソ連の戦後権益の要求を呑むオプションも加わることになる。

 当時、米国の多数派は、ドイツにもソ連にも無関心で、ドイツもソ連も悪魔だと考えていたわけではなかったという理由で孤立を支持していたのだが、米国内には、ソ連社会主義を強烈に支持する進歩主義勢力も確実に存在した。

 彼らにとってドイツがソ連に向かって英国の安全保障が安定すればそれでいいというわけにはいかず、ソ連社会主義の希望として守る必要があった。

 

 こうした進歩的考えを持っていた米国少数派知識人の一人にルーズベルトも含まれていた。それは決して民主党政権の多数派ではなかった。

 この親ソ連進歩主義知識人たちは、米国の「多党制・私有財産の積極肯定・普通選挙制・権力分立制」の諸原則に鈍感で、貧困労働者の救済には敏感であったといえるだろう。

 

 ルーズベルト政権の進歩主義者(親ソ社会主義シンパ)たちは、米国の労働組合を擁護すると同時にソ連社会主義(インターナショナル)との友好を積極的に肯定していた。

 ドイツナチズムは、インターナショナルな労働組合を否定して、民族資本主義に立つという意味で相容れない勢力だったのである。この時点でユダヤホロコーストへの対抗意識があるわけではない。

 

 特段米国進歩派が慧眼を持ってナチズムの凶悪性に気づいていち早く対抗姿勢に出たというにしては、彼らは共産主義の凶悪性についてまったく無防備だった。

 倒した後で明らかになったナチズムの凶悪性は、米国国民の自負心と戦争の意義を自覚させたが、米国はナチズム掃討の過程でソ連を強大化させる条件を与えてしまったことに後に気づく。

 

 米国の指導層は常軌を逸するほどの愚者ではない。彼らは日本が先に米国に対して攻撃するように、まず、蒋介石を強力に支援。日本は植民地解放理念と国内の反資本主義的理念の台頭から、毛沢東よりも、より英米と結託する蒋介石を憎悪する勢力が勝っていた。

 その勢力のひとつが、朝日新聞記者たちであり、近衛文麿の側近、風見章である。

 近衛文麿自身が確信的共産主義者で敗戦革命を狙っていたのか、それとも、共産主義シンパ性と対米戦争という無理筋を回避しようとする迷いの中で右往左往していたのか、確定できる証拠はいまだにない。

 確固たる愛国者ではなく、侵略思想の持主でもなかったことは確かだろう。

 英米に対する反感を持ち、あとは、英米にぶつかって疲弊した後にソ連と組んで社会主義化したかったか、さもなければ、英米に対する反感を持ちつつも米国との戦争の無謀にすくんでいた、かといって経済復興の策も皆目わからないという不安におびえていたかのどちらかなのである。

 ルーズベルト達米国の少数派は、間違いなくソ連と米国が労働者に優しい国家として協調しうると信じていた。つまり、米国・蒋介石ソ連の穏健な進歩主義勢力が国際社会の新時代の主役になると錯誤していた。

 ところが、実際には、ソ連蒋介石を認めず、毛沢東金日成を立てて資本主義そのものを大真面目に破壊してきた。

 このソ連共産主義が大真面目な世界共産主義の輸出という戦略を実行に移す意思も能力もあることに気づいたのは、ルーズベルトの死後であり、米国は1945年8月18日のソ連の千島侵攻あたりから、なにかおかしいと気づきはじめ、1950年6月15日の北朝鮮軍13万5千の南朝鮮への侵攻ではじめて対ソ連観が全く間違いであったことに気づく。

 なぜなら、朝鮮戦争にいたって、それをソ連北朝鮮・中国のなすがままにしておけば、とんでもない勢いで、アジア全域が共産化して、共産主義国だけの貿易体制が完成して、もう一度米国の経済は大恐慌に陥ることは目に見えているからだ。

 最低でも朝鮮の半分、日本、台湾、ベトナムを資本主義国家にしておかねばならない。

 世界の警察というのは、米国のやけくそのような表現であり、日本からすれば米国に対する褒め殺しだった。

 米国は日本の満州権益を認めてソ連のアジアへの影響力にふたをして置く役割を持たせておくことを怠って、日本を破壊したために、その後、アジアから東南アジアにかけてのすべての軍事負担を用意し、米国の青年の生命を朝鮮・ベトナムで失うはめになった。

 このあまりに大きな失策は直視するにはあまりに大きな失策だったから、米国は凶悪極まりないナチスを倒した、日本のミリタリズムを抑え込んで日本国民に民主主義を教えたと言い張るしかなかった。

 もちろん、米国国民は、日本に民主主義を教えたというには、あまりにも国内に人種差別が残存していたことを知っていたし、フィリピンを植民地にしていた過程で、フィリピン人20万人を、不本意にもゲリラ掃討の過程で犠牲にしたという過ちを犯していたことも自覚していたのである。

 

 こうしてお互いの過ちを言わず語らず、歩み寄っていく中、日本の左翼勢力は、ソ連全体主義勢力の凶悪性に触れず、アメリカの格差と過ちのみを日本国民に伝えようと情熱をこめて邁進してきた。

 

 トルーマン政権もまたスターリンの狡知に敗北したと言っていい。

 スターリンは米国の広島・長崎への原爆投下を知ってもひるまなかった。

 米国は民衆の選挙によって政権を維持しているから、ソ連が中国・欧州・朝鮮を共産化させても、原爆だけは使用できない。使用すればかならず、米国のジャーナリストが政府を批判し、政権は国民の支持を失う。政権を失う恐怖に米国の政権は耐えられない。

 したがって、米国は原爆を使わない戦争しかできない、それならば、ソ連は対抗できる。

 朝鮮・中国・ベトナムにやらせて、米国の青年をあわてさせればよい。

 

 日本もまた、多くの青年が、日本国内で共産主義の夢をみるだけ見て勝手に内ゲバを起こしてバタバタとして死んでいった。ソ連の手を煩わせず。

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日本の戦争とは何だったのか 2

「広島の原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」について作者の広島大学教授雑賀忠義は「この過ちの主体は広島市民」「広島市民が軍国主義、戦争に加担するという過ちをして、反省し、死者に謝罪したのだ」と明言した。

 (日本を経済封鎖した米国ルーズベルト政権が日米戦争の責任者だというパール判事への反論として)

 この雑賀忠義の考えは間違っている。戦争責任というのは、政府最高決定会議の当事者にあるのであって、その国の国民が開戦責任を死者に反省するなどでたらめもはなはだしい。

 どんな戦争も一義的に「政府最高決定権力者」そこに大きな影響力を及ぼした諮問機関の知識人、マスメディアにあり、もし、広島に碑文が書かれるとすれば、ソ連に対抗することなく、シナに向けて軍事侵攻のかじを切ったメディアの主要メンバー、諮問機関の知識人、政府要人の名前を書き連ねるべきで、市民の名のもとに謝罪するなどとんでもない。

 むしろ、メディア、諮問機関知識人、政府要人の名をはっきり書いてこそ、末代まで過ちを刻印される責任のある仕事をしているのだという事を現代の政治家、知識人に自覚させることができるというべきなのだ。

 実際、広島市民が過ちを犯したというが、当時広島市民は原爆というものが世の中にあるという事実を知る由もなかった。雑賀教授の言う広島市民の過ちとは、戦争そのものに反対しなかったという責任になる。

 だが、当時、戦争に反対する政治党派は、共産党以外にはなかった。しかも、戦争に反対する理由は、ソ連を防衛するための、反戦であって、共産主義者ソ連に攻撃を仕掛けるのでなければ、仕掛けて日本が自滅するのを望んでいたから、日本国民のとるべき選択は、膺懲シナを叫ぶ朝日新聞を買わないという事くらいの事しかできなかったのが、実情である。

 そして、朝日新聞が膺懲シナを扇動するとき、それにだまされないことがどれほど至難のわざであることか、そんな至難の技ができなかったからといってそれを過ちだなどということはできない。

 当時最も重大な罪を犯した当事者は、近衛文麿、元マルクス解説者で、書記官長の風見章、ソ連と通謀した朝日新聞記者の三者だと言っても過言ではない。なぜなら、彼らは自分自身は身を痛める立場でないにも関わらず、多くの人々を死地に出し、その家族を塗炭の苦しみに追い込んだからである。

 日本のとるべき選択は、ドイツがソ連に侵攻した時、日本もソ連に侵攻してソ連共産主義を崩壊させ、ドイツに対しては英米に任せるべきだった。そして、アメリカのフィリピン独立の流れと同様、日本は徐々に朝鮮、台湾を自立させ、切り離しつつ、英米・欧州との貿易を持続させていくのが懸命だった。

 この時、朝鮮に王族を戻して大韓帝国に戻すように交渉して、英米日共同で韓国を支援するようにしてやれば、今のようにひねこびた民族主義親北朝鮮に領導された反日プロパガンダはなかった。

 1945年以降の日本人のゆがみは、米国の大半が共産主義への共感と決別したにもかかわらず、日本の知識人だけが、ソ連派、中国派、北朝鮮派という形で強い肩入れを行ったということにある。

 もうひとつは、英国、フランス、米国は、自国と利害の対立する外国に対して、謝罪、支援を行った例はないが、日本に限って、奇異にも「韓国という産業上の競争相手になる国」に巨額の援助を続け、法的便宜を図ったという事である。

 特に対韓関係で日本が犯した大きな過ちは、米国の場合、欧州からの移民受け入れは後に「米国国家」に総体として貢献する米国国民を形成することになったが、日本の在日韓国人知識人の場合、ロシア系米国人、ポーランド系米国人、ユダヤ系米国人とちがって、日本国家そのものの破壊イデオロギー、歴史ねつ造プロパガンダの発信者として猛威をふるったという事実である。

 たとえば在日韓国人映画脚本家の李相日は、米国映画「許されざる者」を曲解して日本版にリメイクして、「少数民族アイヌを虐待した」という物語をこしらえあげて誇張している。

 富岡幸一郎の「大東亜戦争の「義」とはなにか」によると、竹内好は「近代の超克」とは、「明治以来の日本の近代化=西洋化そのものがはらむ分裂と混乱を直視しようとする課題であることを主張しようとした」と言う。

 だが、そうだろうか。これが疑問であるのは、竹内好中国共産党共産主義になんら抵抗感を持たなかったという事である。

 富岡幸一郎大東亜戦争が西洋列強の植民地支配に対する抵抗だったというが、そういうなら、ロシアマルクス主義のレーニン・スターリン毛沢東金日成ホーチミンポルポトも、西洋列強の植民地支配体制を破壊しようとした、と言って言えなくもないから事態は単純ではない。

 「西洋近代の超克」も、「大東亜の戦い」も、「自存自衛」、「アジアの解放のための義戦」これらすべては、スターリン毛沢東金日成らのアジアの共産主義者の言い分にあてはめてあてはめることは不可能ではない。

 富岡幸一郎は何のことはない、竹内好のいう「日本侵略論」に同意して、「(大東亜共栄圏が)アジア諸国民のナショナリズムを承認した上での理念とはならなかったことを思えば、(多少とも、良心的な植民地支配ではあったにしても)竹内好のいう「大東亜戦争の二重構造」は否定できない、という。

 富岡幸一郎は「あの戦争がアジアの民としての日本人がどうしても戦う必要のあった戦争であった」というが、それを言うなら、やはり、ロシア人、シナ仁、朝鮮人ベトナム人カンボジア人他、各国の共産主義戦争もそういう事になってしまわざるを得ないと言える。

 富岡幸一郎は一見、反自虐史観派であり、チャンネル桜に頻繁に出演し、また産経新聞正論紙上に論文が掲載されているので、「謝罪派ではない」かのようであるが、実際は「近代日本のアジア戦略が帝国主義植民地主義に傾き、統治と戦火によって多大な苦難と被害を与えたことをはっきりと謝罪すべきであろう」と書いている。

 ※平成18年10月別冊正論大東亜戦争日本の主張

 これは非常に奇妙な主張である。なぜなら、「富岡幸一郎は戦いの義を語って同時に謝罪すべきであろう」と言うのだが、そんな芸当がありうるだろうか。

 富岡幸一郎の言うとおりにすれば、次のような矛盾が生じる。

  • 実は「国家」「国民」が他国あるいは、自国の国民に「苦難」と「被害」を与えたことのない「国家」「国民」は世界各国をさがして、ほとんど無きに等しい。強すぎ、そして、薄情であることにおいて、逆に弱すぎ、ふがいないことにおいて、自国の弱い者を見捨てたり、他国の弱い者を蹂躙したことにない国は指摘することは不可能に近いのである。

 それは、朝鮮人といえども例外ではない。朝鮮人が戦争を起こしたために、中国の兵士、国連軍各国の兵士がどれほど地獄の体験をしたことか。また、その後、韓国は国内の共産主義者狩りの過程でただ反政府的傾向のある者とその家族をも殺害したし、北朝鮮もまた、反政府的傾向のある者を処刑し、餓死させた。

 要するにこの世界で、無辜の民衆に謝罪しなくて済む無罪の国家など存在しないのである。

 実際には世界中の国家がそれぞれの国の罪業について自覚して、苦難を与えた人々に(仕方がなかったとか、一縷の「義」もあった、という説明とともに、)「謝罪する」などということはありえない。

 にもかかわらず、富岡幸一郎の言うように日本が謝罪するならば、結局はそれは、世界中が、日本の過誤、謝罪事実を深く、はっきりと認識はするが、彼ら自身の過ちは意識しないという結果にしかならない。なぜなら、世界各国に各国それぞれの過ちを教え、謝罪を推奨するなどということは馬鹿げた徒労だからだ。

 少なくとも、日本人がアジア諸民族に対して謝罪するべきだというなら、その時、謝罪されたアジア諸民族は、何者かに対して謝罪するべき罪業はあるのか、ないのかという問題に言及しなければなにも言ったことにならない。

 宣戦の詔書の「今や不幸にして米英両国とキンタンを開くに至る。洵(まこと)にやむを得ざるものあり、あに朕の志ならんや」という一節は、富岡幸一郎は「この言葉によって昭和天皇は消極的だったが、軍人が無謀な戦争に突入したという見方がある」と言うが、そんなことはない。事実は、「軍人」「新聞記者・文学者・民間文学者・学者などの知識人」「非軍人の政府要人」「政党人」などの政治活動総体が戦争責任の主体なのであって、昭和天皇が「あに朕の志ならんや」と言ったから「軍人が悪い」などということにはならない。

「あに朕の志ならんや」などは、常に戦争は「本当はやりたくないけれども、やむをえない」と立憲君主ならずとも、古今東西誰もが言うものなので、この一節に重い意味を持たせるべきではない。

 富岡幸一郎は戦争責任を「日本人自らが問うべき」という言い方をしている。

 が、大事なのは、「天皇の戦争責任」とか、「軍部・軍国主義の過ち」「日本人自ら」ととらえるのではなく、知識人としての「軍人」「新聞記者」「作家」「帝大教授」「政党政治家」「宗教団体指導者」の相互影響力。

そして、首相、書記官長、外務大臣、 海軍大臣陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部長と言った政府組織の指揮権、意思決定権者の責任が問われるべきなのであって、「日本人自ら」などという架空うの責任を問うても意味がない。

 なぜなら、意思決定権者でもなければ、命令権者でもない国民は結局のところ、なぜ戦争するのか、本当のところ理解できぬまま、ただ招集されたそのあとに無理にでも理由を自己自身に納得させたというのが実態だったからである。

 だが、現に影響力のあった新聞に実際に執筆していた新聞記者は自分の記事がどのような影響力を持つのか、また、大学教授は論壇で発表する主張がどのような影響を社会に与えるのか、熟考する責任も、結果に対する倫理的責任もあった。

 これは「国民が戦争の犠牲者」だという意味とは違う。

 「国民が戦争の犠牲者で、為政者が加害者だ」という見方は、次のような陥穽がある。

  • 「政府および政府の一機関である陸軍、海軍という為政者」以外の国民、すなわち「アカデミズムおよびジャーナリズムひいては作家などの文化人」こそが、政府と陸軍、海軍を使嗾して、戦争に誘導していった場合がある。その場合は、戦後思想が、「政府権力を監視すれば、国民の被害を回避できる」という発想は無効であることは言うまでもない、ということである。

  • もうひとつ、政府権力に対抗する政治党派が外国の国家権力と連携して、当該国家の戦争計画に誘導介入する場合がある。

たとえば、日本の場合、コミンテルン共産党と非公然の日本共産党とまったく独立した行動をしていた共産主義者がスパイとして日本政府中枢に入り込んで重要情報をゾルゲに流していたわけだが、こうした国内の政府要人とは、別の一民間マスメディアの記者が外国の国家権力と通謀して、諜報活動によって、日本を戦争に向けて誘導したという事実がある。

 この場合も、言うまでもなく、マスメディアの役割は、現在の国家権力政府与党の不正を監視し、告発することが国民の利益になる、という発想は無効ということになる。

  • むしろ、反政府権力の政治党派とその意図的誘導こそが、国民を苦難のどん底に陥れた真の犯罪者であったとすると、その真実が理解されておらず、政府と軍部が凶悪であった、と思い違いしているのなら、ますます同じ悲劇が繰り返されることになる。

  • すなわち、「政府権力を監視する」という名のもとに、当該国家の防衛を妨害し、他国の侵略を誘致して、国民を苦難のどん底に陥れるということである。

 大東亜戦争において、ソ連は「日本共産党」と「非コミンテルン系の労農派マルクス主義者」の二大共産党党派が存在し、ソ連は時に人民戦線戦術を指導して、両派の共闘を指令していた。が、実はその後の歴史は、この二大共産主義政治党派に属さないし、一切の党派的活動もしていないがしかし、まぎれもない超一流の共産主義知識人で新聞記者という立場で、秘密裡にソ連と交渉していた者がいたことがわかっている。

 そうした尾崎秀美のような人物が、長年、公安当局に捕縛されないまま、風見章、近衛文麿の方針に強く関与し、なおかつ新聞記事を通して世論形成に重要な役割を果たしていた。

 現代もまた、一般国民がその正体を知りえぬ立場、まさかあの人物がという人間が、政府要人に対して新聞の誤情報、プロパガンダによって自分たちに都合のいい政策に誘導し、あるいは都合の悪い政策は中止するよう、誘導して、国民の利益を害していないとどうして言えよう。

 大東亜戦争の際は、ソ連への攻撃は回避し、シナ膺懲が共産主義者によって、世論が誘導され、政治家、軍部の南進派がこれにのって増長した。

 間違いなく、大東亜戦争の下手人は、マスメディアの中の優秀な共産主義知識人記者だった。それなら、現在も、北朝鮮、中国から国民の目をそらさせて、反米主義を煽り立てて、有力野党議員に力を与えているのは、マスメディアかもしれないのである。

 この懐疑を失わせるものこそ、「政府権力=国家悪説」であり、「軍存在悪説」「国民全体の責任」の三つである。

 歴史上、まちがいなく存在した事実であるにもかかわらず、忘れられている事実とは、「新聞記者と外国国家権力のエージェントが通謀して、意図的に記事を書き、政府要人、軍人、国民世論を誘導した」という事であり、海軍軍令部のウソ発表を新聞が鵜呑みして発表したなどというのは、ある狡猾な意図を持った共産主義知識人の隠された意図から見れば軍部は手のひらで踊らされていたにすぎないのである。

 つまり、わたしたちは、反権力か否かを真理の基準とするのではなく、「権力を奪取しうる位置にある野党勢力と、これを教導する知識人の全体主義思想」と、「現に与党である政府権力の担当者を教導する知識人の思想」の両方を常に懐疑的に見続ける必要があって、現行の政府与党に影響を与える知識人も、現行の野党政治家に影響を与える政治家も、どちらであっても、外国の全体主義勢力と通謀している場合がありうることを考慮しなければならない。

 だからこそ、現実に日本の戦後史では、三木、宮沢喜一海部俊樹小沢一郎河野洋平小泉純一郎鳩山由紀夫細川護熙羽田孜(つとむ)、加藤紘一野中広務二階俊博といった改憲を党是とする自民党国会議員の有力者こそが、中国共産党という一党独裁反自由義体制を擁護する外交政策、談話を繰り返してきたのである。

 近代国家のイデオロギーは紛れもなく、以下のような人々によって社会は誘導されていると言ってよいだろう。

  • 大手新聞社の新聞主幹・編集委員・記者・特派員記者(大手テレビメディア報道番組制作会社のプロデューサー・ディレクター・記者)

  • メディア担当者に理論的基礎を与える外国思想の輸入者である東大・京大の大学教授

  • メディアが選択するコメンテーターの発言に影響を受けた世論

(コメンテーター自身は、新聞主幹・編集委員・大学知識人の見解の焼き直し)

D.世論とメディアをバランスよくピックアップして、反体制派につくか、体制派につくかをうかがう政治家

 この四者こそが、思想の主人公で、これらの思想の主人公によって国民世論は誘導されているに過ぎないといえる。

 国民それぞれは、自分個人の「人生の主人公」ではあるが、「社会の主人公」ではない。社会の主人公の条件とは、自己の社会的見解の表明が、他者に影響を及ぼしうる手段を保持し、実行しているかどうかにかかっている。

 たとえば、佐藤優創価学会の機関紙、印刷物にコメントを求められ、創価学会メディアの広告に掲載されて、会員の多くが読む著書を公表して、創価学会会員にある見解を持たせることで、社会の中で、他の個人よりも多くの影響力を行使しているのだ。

 富岡幸一郎は中国が日中国交回復の際に主張した論法「戦争責任は一部の軍国主義者、A級戦犯、にあり、日本の一般国民に罪はなかった」という論理が、その後、A級戦犯の合祀された靖国神社への首相の参拝に中国が介入する論拠になったが、この中国の論理は、米国のGHQが占領下の日本人にすり込んだものと同じもので、中国の論理と日本人の論理、GHQの論理は一致して、「戦争責任は一部の軍国主義者、A級戦犯、にあり、日本の一般国民に罪はなかった」ということになる、と言う。

 だが、この富岡幸一郎の主張は、韓国知識人が自分自身の力ではいっこうに「慰安婦を売ったのは、慰安婦の親であり、慰安婦をだましたのは、かなり多くの朝鮮人慰安婦だが、にもかかわらず、日本人にすべての責任を押しつけててんとして恥じない無能」と同様、米国GHQに対して、事態の真相にたどり着けぬみずからの不明をなするつけている。

 米国のせいにしようと誰のせいにしようと、富岡幸一郎があの戦争の真の責任者をこれと名指しできないで、「国民すべて」「国家の体勢」(徳富蘇峰の引用)としか言えないのだから、何のこたえにもならない。

 陸軍参謀本部の高級将校たちに戦争の論理を与えたのは、北一輝であり、大川周明であり、そうでなければ、密かに読まれた河上肇マルクス共産党宣言で、それは英米の植民地支配を暗に批判する意味内容を持っていた。

 そして、近衛文麿木戸幸一、風見章、三木清らもまた、日本共産党に入党しなかったり、転向しながらも、つまるところは、マルクスに共鳴するか、河上肇を通して共産主義に共鳴し、大資本家を擁する欧米資本主義国家を憎悪していたことにかわりはない。

 その根は、日本主義でもなんでもなく、ヨーロッパの時の先端思想であったマルクス主義にほかならなかった。

 日本の戦争の真の下手人は、北一輝大川周明という二人のマルクス主義の日本版の思想家の影響を受けた軍人、そして河上肇というマルクス翻訳家の薫陶を受けた政府中枢の近衛文麿、風見章。そして、昭和研究会日本共産党転向組だが、共産主義を否定する論理を持たないゆえに、英米資本主義への対抗心旺盛な当代第一級の知識人。そして、異才の孤立した共産主義者朝日新聞の敏腕記者尾崎秀実らが、八面六臂の活躍で日本の最高指導機関を戦争決定へと誘導していったのである。

 

 

 

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日本の戦争とはなんだったのか

昭和12年7月7日 シナ事変

対米英開戦決意は、ドイツがソ連共産主義を危機に陥れた後である。

その後、日本は蒋介石が米英に支援されていることを知りながら、あえて蒋介石をつぶしにかかる。つまり、蒋介石政権との交戦が長期化すればするほど、英米との対立が深刻化することを知りながら、蒋介石政権との対決を深刻化させて行った。

産経新聞「正論」元編集長上島嘉朗は「中国大陸の不拡大方針を軍部が無視して戦線拡大に走った」と別冊正論「大東亜戦争―日本の主張」に書くが、事実誤認である。

 この時、シナ方面への強硬策を説いたのは、メディアであり、近衛文麿と書記官長風見章は、軍部の中の戦線拡大派と反ソ派の対立のうち、戦線拡大派を支援した。

 また、上島嘉朗は、答案のわかっている現代から、「父祖たちを裁いてはならない」と言うが、そうではない。「父祖たち」ではなく、当時の「政府要人」「メディア」「政府諮問機関知識人」が裁かれねばならないのである。加害者は彼らであり、父祖たちは、被害者でしかない。被害者でありつつも、個々の兵士はアジアの解放のために尽くした兵士もいれば、ただ日本政府のいわれるままに戦地に行って、飢えたり、流れ弾にあたって死んだり、病死をしいられたのである。(上島嘉朗は「父祖たち」を強調する。だが、多くの日本国民は当時、戦争をなぜするのか、わからず、ただ始まったし、招集されたから、義務を果たしたに過ぎない場合はおおかたである。そこに開戦責任も指揮責任(敗戦責任)もあるはずがない。)

東條内閣

ソビエトのスパイ、ハリー・ホワイト財務次官がハル・ノート作成

東條内閣はハル・ノートを日本国民に公開しなかった。

また、米国も米国国民にハル・ノートを公開していなかった。

これだけでも、日米両国民に開戦責任はないと言っていい。

 当時の戦争責任は次のような者たちにある。

※これに比べれば一応主権を「満州国」のものとした日本軍は国際法に則った行動をしていた。

  • 帝国主義戦争」という奇怪な発想を考え出したレーニン

帝国主義国同士を戦わせて、疲弊した国から革命を起こさせるというもので、まったく反戦でもなんでもない。

  • 日本が満州について米国資本を受け容れなかったという失策に続いて、米国の対日感情が悪化。1913年、日本人に土地の所有権を認めないという「特定民族」を差別する法案を通した米国カリフォルニア州)の失策が重なる。

当時米国建国の既得権層のWASPは、(クリスチャンによる)反ユダヤ、異文化である日本への嫌悪(欧州系移民と日系移民が競合して対立)、反黒人などの感情とWASPにとって暮らしやすい社会を構築するために試行錯誤を重ねていた。

 つまり、野蛮な侵略国日本を理性と善意・民主の米国が裁いたというわけではなく、米国自身が黒人差別、ユダヤ人差別・黄色人差別を抱え、同時にソ連は米国政府に共産主義スパイを送り込む状態だった。

 そして日本もまた、新聞記者たちは、ソ連共産主義を擁護し、シナ膺懲を国民、軍、政府要人に吹き込み、東大・京大の教授たちは盛んにマルクス主義を翻訳出版して、ソ連を肯定的にみる青年を援けた。そのため、日本人は、ドイツがソ連に攻め込んだ時、ソ連を倒して満州から北部方面を制圧すして、米英と協調するという発想をもたなかった。

 7.GHQ言論統制は、これを褒めることはないにしても、非難することはできないのは、その時代、日本もまた、言論統制を行っており、かならずや日本が勝利した場合も言論統制したに違いないことが容易に予想できるのは、日本海軍が大いにウソの大本営発表をやっていたからである。そして、ドイツはもちろん、ソ連も国民に情報統制と洗脳教育を行っていたし、米国よりもはるかにひどい言論統制だった。

 当時米国は、米国国民自身にも、米国の正義を宣伝これ務めたと同時に日本軍国主義の悪を宣伝したが、これは米国の言論の自由原則から、たちまちのうちにほころびる宣伝であった。

 もし、GHQが米国主導のものではなく、ソ連、中国主導のものであったなら、日本の自虐思想はもっとひどいものであったろう。

 8.近衛文麿とそのブレーンの親ソ共産主義者の考え出した反英米思想に発する「大東亜新秩序の建設」は松岡洋祐によって「大東亜共栄圏の確立」という表現に練られて、これは日本人の多くに英米という巨大な国を敵とする事への躊躇を麻痺させる機能を果たした魔語であることは確かであろう。

  • チャーチルは国境をはさんで欧州諸国がありながら、ソ連共産主義に対して強い警戒感を持っており、ドイツが崩壊するやすぐさまソ連の危険性を米国の知識人に喚起したが、日本の首相経験者にはチャーチルほどのソ連警戒感はまったくなかった。

 ※もっともルーズベルトをはじめ、当時の米国人もすっかりソ連について甘い見方をしていたわけで、それには、ニューヨークタイムスの親社会主義派の記者がソ連の悪い話を記事にしなかったということもある。

 が、大戦後、蒋介石政権を支援するつもりだった米国は、ソ連毛沢東を支援して、共産革命を起こそうとしていることに気づいて、もし全世界の共産化が進めば、米国国内の共産党が米国国民の支持を受けるなどという悪夢の始まりになる、とあわててソ連を仮想敵国とみなし、半島と日本をアジア地域における反共の拠点と考えるようになる。

 この米国の政策転換は、日本の企業の自由な活動にパワーを与えることになって、日本国民は繁栄を享受するきっかけを得ることになった。

 

10.そして、チャーチルもまた、過ちを犯していたが、それは大西洋憲章で「領土不拡大・通商・資源の均等解放」「民族自決」と理想的理念を掲げながら、実際には、英国議会において、大英帝国とフランスのすでに持っている植民地は例外と答弁していたのだから、この時点で人類は、「パリ不戦条約」において進歩したが、日本は世界の趨勢に反して武力に訴えた罪があるなどとは言えないし、ましてや第二次大戦後、領土紛争に関連してフランス、英国は戦争をし、ソ連ハンガリーに侵攻しているのだから、パリ不戦条約は日本を戦後日本の知識人(猪木正道加藤陽子)が非難する理由にはなりえない。

  • ソ連は「ソ連国家の拡張主義を糊塗して、世界中の国をソ連傘下に治めることをもくろんで、善意の共産主義者を使って世界各国に共産党を設立させた。それはちょうどポルトガル、スペインの宣教師が世界中に宣教師を送り込んで世界支配を目論んだと同じ事である。この点で、ソ連が日本の「侵略性」を非難する資格はソ連にはない。

 このソ連コミンテルン戦術は、日本共産党という形ではなく、別な形で結実する。それは、日本共産党が存在するゆえに希望を持ちえた河上肇日本共産党に寄付をしつつ、マルクスの翻訳に取り組み、これが近衛文麿三木清をはじめ、陸軍、海軍、新聞記者たちにマルクス主義が浸透していくきっかけを作って、いかに治安維持法日本共産党を摘発しても、非共産党の日本知識人はマルクス主義に強く深く感染して、ソ連を愛すべき人類の未来につながる国、英米フランスは、反道徳の国という観念が固まってしまい、そういう米国財閥の宋一族そのものである蒋介石もまた、もうけ主義の亡者としか見えなくなったのは当然である。

  • 中国共産党もまた、共産党一党独裁体制を確立し、その後維持するために行った政策は、3千万人とも4千万人とも言われる餓死者と無実の獄中死をもたらした点で、日本批判は現在の中国共産党の卑劣な過去と現在の少数民族支配を隠蔽する道具でしかないのは明白だ。

 したがって、中国の主張する日本悪逆論に首肯するふるまいを日本人がするとすれば、それは中国共産党の卑劣性を肯定する所業にほかならない。北朝鮮・韓国についてもこれは同じことで、北朝鮮は言うまでもないが、韓国に対して日本が過剰な拝跪をすれば、韓国人が「光復後」に犯した「済州島虐殺事件」「保導連盟事件」を歴史から抹殺して、日本の非道を世界に向けて発信する資格があるのかと言わねばならない。

 12.日本が日露戦争でロシアに勝利しても、大東亜戦争で英国を駆逐しても、植民地からの独立は、非植民地国が自らの力で勝ち取るべきもので、勇気をもらったというのは、二義的問題である。

 日本が米国に敗北せずに講和しても、敗北して講和しても、米国は現在とあまり変わらない発展をしたろうが、日本が敗北しなかった場合に現在ほど発展したか、はなはだ疑問と言わざるをえない。

 米国人、米国企業との友好的な貿易こそが、日本の発展の原動力となったと思われるのである。

 では、敗北してよかったのだろうか。そうではない。英米と戦争をするのではなく、マルクスという奇胎の思想が人類史に出現した以上、現実の国家に胚胎する前にソ連をつぶし、ヨーロッパに位置するファシズム国家ドイツは英米につぶさせるべきだった。

 そのうえで自由主義国家群の自由貿易を続けて、徐々に植民地を独立させていくべきだったのである。

 日本国民300万人の犠牲、朝鮮戦争ベトナム戦争カンボジア虐殺は、共産主義がロシアにおいて国家として結実して、ロシアの国家資産が世界各国に投入されたことが大きい。

 米国の資力が西側諸国に投入された結果、西側各国は発展し、豊かさを得たが、コミンテルンソ連の支援を受けた国々は、内戦と餓死という悲惨な運命に陥ったのである。

 では、敗けて良かったかと言えば

昭和16年12月8日 米英に宣戦布告

昭和16年12月12日、この日12年7月7日から「大東亜戦争が始まった」と規定する。

昭和18年11月   大東亜会議

昭和20年8月14日 ポツダム宣言受諾連絡

昭和20年8月15日 停戦を日本国民に周知

9月2日降伏

昭和27年4月28日 終戦

 

進歩主義とはなにか

封建制から絶対王制(天皇制)フランス革命明治維新)を経て資本主義へ、帝国主義戦争を経て社会主義革命へという歴史の必然法則理論である。

 

敗戦から4か月後、1946年元日の朝日新聞は米国式言論の自由を謳歌して、スターリンを礼賛した。

 

 敗戦後獄中17年の共産党幹部が刑務所が飛び出してきて、日本共産党朝鮮人たちに迎えられたので、日本人は共産党が革命政党、社会党社会福祉の党と思い込んだ。

だが、実際はソ連コミンテルンに金をもらって指導された人々の作った党か、マルクスの本を読んで社会主義にあこがれた人が指導している党かの違いである。

 

 社会主義が歴史の進歩の最先端だと信じる人の典型が法政大学総長大内兵衛

 彼は科学的社会主義の科学という言葉の意味をわかりやすく示した。

 大内によると科学とは、空想ではなく、実現しうるという意味だった。

 

 1950年代のソ連のエネルギー資源採掘技術による資源確保量も機械生産力も米国の半分程度だった。こんなことならドイツがバルバロッサ作戦でソ連に侵攻したとき、日本はソ連をつぶしにかかればよかったのに。そうすれば、北朝鮮にミサイルを撃って太平洋に沈めるぞと脅されたり、朝鮮人生活保護をしろと迫られることもなかった。

 

 羽仁五郎の説く民主主義とは、多党制は関係なく、「失業、恐慌のないこと、だれもが教育を受けられること、託児所が豊富にあること」だった。米国も日本も失業と不況が絶えず起こり、託児所は慢性的に不足している。ソ連、中国、北朝鮮はすべてがあるらしいのだった。

 

 封建制から絶対王制(天皇制)フランス革命明治維新)を経て資本主義へ、帝国主義戦争を経て社会主義革命へという歴史の必然法則理論が進歩主義だが、フランス革命では、革命政権の徴兵を拒否したヴァンデー地方の人々が数十万人殺害処刑された。

 

 1962年マルクス主義経済学者の野々村1970年には、ソ連の工業力は米国を追い越すだろう」と予測し、日本共産党支持者、社会党支持者は快哉を叫んだが、その後、米国の工業力、技術特許収入を追い越す一党独裁政権は一度も生まれたことがない。

 

 1960年、岩波書店「世界」で当時神奈川県知事で共産主義者長洲一二は「世界市場での価格競争で資本主義は負けるだろう」と言ったが、当たったのは、質の悪い製品の価格競争でのみ、社会主義は勝ったということだった。

 

 進歩主義者はソ連ハンガリー侵攻をうやむやに擁護し、中国の文化大革命天安門事件をうやむやに擁護。北朝鮮の拉致犯罪は行方不明にすぎないのではないかとごまかしてきた。しかし、彼らはそうした非難をかならず真っ先に擁護し、だれの目にも明らかになると、断固として非難すると声高に言うのだった。

 

 今でも高級官僚には、日本共産党党員は少なくないだろうが、労働省婦人課長田中寿美子はそのハシリだった。田中は1964年に岩波新書ソビエトの婦人と生活」を書いて、「私有財産制度を廃止し、搾取のないソビエトでは、キリスト教に凝る母親の養育権を奪って父親の権利とする。資本主義の家庭の危機はもはや解決された。」と書いた。

 

 1977年当時現在(2017年時点)の民進党の前身である旧社会党の指導者だった向坂逸郎の発言。「ソ連人の教養というものはね。日本人と比べ物にならない。はるかに高いです。思想の自由も日本と比べ物にならないほどある」

「政府に反対する自由は絶対ないです。体制に反対するのは裏切りですから」

 

 1977年「諸君」7月号 社会党指導者の向坂逸郎インタビュー

非武装中立は、社会党政権になって、米国の軍事力が社会主義日本を圧迫しても中立なんですか?」「その時になったら、あらためて考えなおす」

 

 1968年「世界」10月号では、ソ連チェコ介入について、2017年の北朝鮮擁護とそっくりな弁護をしている。「軍事偏重は資本主義国が包囲するから不安になった」

「西側が敵視するから、硬直して変革できない」「西側が封鎖するから経済困難になる。制裁を解除するべきだ」

 

 自民党の幹事長、政調会長官房長官防衛庁長官経験者、日中友好協会会長経験者の加藤紘一は、学生時代東大の坂本義和のゼミに属した。坂本義和の持論は、「米国はソ連に対して圧倒的優位だった時に対ソ協調を図ることが可能だったのに協調しなかった」

これに学んだのか、加藤紘一は中国、北朝鮮ODAやらコメ支援やらを送り続けた。

 

 1975年ソ連共産党ヘルシンキ宣言の「話し合い」で米国は軍事費を削減したが、ソ連は軍事費を拡張し続けた。同様に北朝鮮も、米国が軽水炉原発技術や重油を供給すると約束しても、攻撃用核兵器を開発し続けた。

 

 ソ連北朝鮮の大きな相違点。それは、レーガン政権が欧州にパーシング2戦術核と巡行ミサイルを配備、SDI構想を打ち出した時、もはやたちうちできないと悟ったソ連軍部は共産党に従わなくなったのだが、北朝鮮は意気軒高だという点がちがう。

 

 佐藤和夫千葉大学教授は1990年ソ連崩壊が迫ると、「東欧の豊かさ日本の貧しさ」でユーゴスラビアの人々は競争主義から免れ、豊かな社会保障が受けられて幸せだと書いたが、たちまち1991年からユーゴスラビア紛争が始まった。

 

 
1952年の時点で同志社大学教授の蜷川新は「経済往来」8月号に「日本国憲法」は「資本主義を否認している憲法を持つ日本の人民は、ソ連、中国の現に共産主義を実行している国の人民の幸福を祝うべきだ」と書いた。

 

 1955年岩波新書「昭和史」は、朝鮮戦争について「北朝鮮軍が侵略したという理由で韓国軍が38度線をこえ進撃した」と北朝鮮の侵略はデマで、韓国の侵攻が実際であるかのように書いて、朝鮮総連を喜ばせた。実際には、北朝鮮は釜山まで侵攻し、米軍は仁川上陸して反撃した。日本にリベラルは、米国がわざと北朝鮮に侵攻させたのだと信じた。

 

 1973年9月7日札幌地裁長沼基地訴訟判決は「交戦権否認は自衛権をも否認している」として、「侵略国国民の財産没収」をして抵抗すればいい」といってのけた。

 1979年3月森嶋通夫輪舞大学教授は、「他国に侵略されたら、支配されて日本に適合した社会主義につくり変えればいい」と侵略国国民に都合のいい法律が適用されることを想像していないようであった。

 

 1980年9月社会党の石橋正嗣は「攻めるとか攻められるとかいうとげとげしい関係にならぬように努力しつつ非武装になるのです」と言って、その後、社会党は、北朝鮮朝鮮総連との友好関係を強めていったが、日本の植民地の極悪性を喧伝したために、朝鮮人の日本憎悪を助長した。

 

 1982年岩波新書憲法第9条」で小林直樹は、平素、日本は朝鮮人を強制連行したというのが持論であるにもかかわらず、「日本は占領しても日本人の人口が多くて占領しずらい国」と、日本人が逆に強制連行されることはありえないかのように、国防不要論を唱えた。

 

 1893年生まれの柳田謙十郎は1942年には、51歳の壮年。戦時中に「日本軍の将兵たちは弾丸飛雨の中、天皇陛下万歳を唱えつつ安らかに死んでいくことができる」と唱えて喝采を浴びたが、戦後は日本共産党に入党。日中友好協会会長、革新都政を作る会の呼びかけ人になって、戦中戦後通じて喝采を浴びて老後を楽しく過ごした。

 平成3年4月末 海部俊樹首相が謎の演説をする。

この時、すでにサンフランシスコ講和条約を経て50年もの間、武力紛争のかけらもない日本の首相が、いったいなんの意図があったのか、わざわざ事あらためてシンガポールで「アジア・太平洋地域の人々に苦しみを与えた」(アジア・太平洋の人々にとっては三年半)と反省の意を表明する。

 ちなみに、これを聞いたインドネシアの元新聞記者ヤン。ヴィダルは「5百年アジア・アフリカを支配したヨーロッパ諸国が謝罪したことなどないのに、日本の首相が今謝罪する意味がまったくわからない」と首をひねった。

 またこの時点で中国はチベットを植民地支配し、台湾を恫喝し、香港の民主化を弾圧し続けている。にもかかわらず、日本政府は中国と友好条約を結び、友好関係を持続しながらのこの発言である。

 アジア諸国が中国の脅威に対して対抗できるよう、日本の助力を期待しているとき、日本は中国に悪い事をしました、反省しています、中国に対抗してアジア諸国が断固としてスクラムを組むべきこと、そのために日本は技術と資金の援助を惜しまないと意味を含む演説を一切行わなかった。

 

 ヨーロッパにも中国という覇権主義大国にも従属したくないアジアにとって、日本が中国および韓国の反属国になるのは、自国の危機に直結す問題なのである。

 韓国が日本の技術をすべて盗んだ上で軽量機器産業でアジア地域のトップに位置したとき、アジアは韓国の産業、中国の軍事力に牛耳られることになる。

 ましてや、中国・韓国の日本に対する歴史攻撃の詐術によって日本が衰退するならば、その詐術の手口は、台湾、フィリピン、インドネシアベトナムなどの国々にも応用されて、やがてアジア地域は韓国と中国の世紀になるとという悪夢さえゼロとは言えない。

 

 「広島の原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」について作者の広島大学教授雑賀忠義は「この過ちの主体は広島市民」「広島市民が軍国主義、戦争に加担するという過ちをして、反省し、死者に謝罪したのだ」と明言した。

 (日本を経済封鎖した米国ルーズベルト政権が日米戦争の責任者だというパール判事への反論として)

 この雑賀忠義の考えは間違っている。戦争責任というのは、政府最高決定会議の当事者にあるのであって、その国の国民が開戦責任を死者に反省するなどでたらめもはなはだしい。

 どんな戦争も一義的に「政府最高決定権力者」そこに大きな影響力を及ぼした諮問機関の知識人、マスメディアにあり、もし、広島に碑文が書かれるとすれば、ソ連に対抗することなく、シナに向けて軍事侵攻のかじを切ったメディアの主要メンバー、諮問機関の知識人、政府要人の名前を書き連ねるべきで、市民の名のもとに謝罪するなどとんでもない。

 むしろ、メディア、諮問機関知識人、政府要人の名をはっきり書いてこそ、末代まで過ちを刻印される責任のある仕事をしているのだという事を現代の政治家、知識人に自覚させるべきなのだ。

 実際、広島市民が過ちを犯したというが、当時広島市民は原爆というものが世の中にあるという事実を知る由もなかったのだから、雑賀教授の言う広島市民の過ちとは、戦争そのものに反対しなかったという責任になる。

 だが、当時、戦争に反対する政治党派は、共産党以外にはなかった。しかも、戦争に反対する理由は、ソ連を防衛するための、反戦であって、共産主義者ソ連に攻撃を仕掛けるのでなければ、仕掛けて日本が自滅するのを望んでいたから、日本国民のとるべき選択は、膺懲シナを叫ぶ朝日新聞を買わないという事くらいの事しかできなかったのが、実情である。

 そして、朝日新聞が膺懲シナを扇動するとき、それにだまされないことがどれほど至難のわざであることか、そんな至難の技ができなかったからといってそれを過ちだなどということはできない。

 当時最も重大な罪を犯した当事者は、近衛文麿、風見章、朝日新聞記者の三者だと言っても過言ではない。なぜなら、彼らは自分自身は身を痛める立場でないにも関わらず、多くの人々を死地に出し、その家族を塗炭の苦しみに追い込んだからである。

 日本のとるべき選択は、ドイツがソ連に侵攻した時、日本もソ連に侵攻してソ連共産主義を崩壊させ、ドイツに対しては英米に任せるべきだった。そして、アメリカのフィリピン独立の流れと同様、日本は徐々に朝鮮、台湾を自立させ、切り離しつつ、英米・欧州との貿易を持続させていくのが懸命だった。

 この時、朝鮮に王族を戻して大韓帝国に戻すように交渉して、英米日共同で韓国を支援するようにしてやれば、今のようにひねこびた民族主義親北朝鮮に領導された半日プロパガンダはなかった。

 1945年以降の日本人のゆがみは、米国の大半が共産主義への共感と決別したにもかかわらず、日本の知識人だけが、ソ連派、中国派、北朝鮮派という形で強い肩入れを行ったということにある。

 もうひとつは、英国、フランス、米国は、自国と利害の対立する外国に対して、謝罪、支援を行った例はないが、日本に限って、奇異にも「韓国という産業上の競争相手になる国」に巨額の援助を続け、法的便宜を図ったという事である。

 特に対韓関係で日本が犯した大きな過ちは、米国の場合、欧州からの移民受け入れは後に「米国国家」に総体として貢献する米国国民を形成することになったが、日本の在日韓国人知識人の場合、ロシア系米国人、ポーランド系米国人、ユダヤ系米国人とちがって、日本国家そのものの破壊イデオロギー、歴史ねつ造プロパガンダの発信者として猛威をふるったという事実である。

 たとえば在日韓国人映画脚本家の李相日は、米国映画「許されざる者」を曲解して日本版にリメイクして、「少数民族アイヌを虐待した」という物語をこしらえあげて誇張している。

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「許されざる者」と慰安婦問題

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許されざる者

1992年 米国 アカデミー賞作品賞受賞作品

 

この作品の主人公は「登場しない人物」であるという点で非常に特別な脚本である。

 わたしはそう見たのだが、意外に、他の鑑賞者の感想文を見ているとその点語られていないので、書き記しておこうと思う。

 見巧者の町山智浩なら、言及しているかもしれないと思って確認してみたが、やはり言及してはいなかった。 

 イングリッシュ・ボブという高名な賞金稼ぎのドキュメンタリーを書くために随いてきた雑誌のフリーライターが、本で読んだがこのイングリッシュ・ボブさんは、英雄的な人だと思っているから、随いてきたんだ、というと、保安官は「それに書いてあることは、嘘だ。なぜ嘘だとわかるかというと、俺はその場にいたからだ」と実際にあったことを説明する。

 それで、そのフリーライターは、その誰かが書いた記事はフィクションだったことを知る。実はこのシーンがラストの伏線になっていて、作品の最後に「登場しない主人公」である「クローディア」の母が長旅をして、娘クローディアに会いに来るが、すでにクローディアの夫もその子どももクローディアもどこかに引っ越していていない。母は、娘クローディアが病気で死んだことさえわからないまま、帰るわけだが、その時、最後まで疑問でならなかったのが、なぜあの娘がならず者なんかの妻になろうとしたのだろう、不思議でならない、という思いだった、と説明される。(正確には、このクローディアの母は、娘が病気で亡くなったのは人伝てに聞いたが、ただ一人娘の孫に会いたかったのかもしれない)

 なぜ、このクローディアの母が、そういうふうに思うかというと、主人公のウィリアムマニーが「許されざる者」たちに敢然と立ち向かい、闘って、最後に「娼婦を人間らしく扱え」と叫ぶ男だということを目撃していないからであるのだし、その前に、生前の一人娘クローディアがウィリアム・マニーと若き日に出会って話したり、食事したりする時のマニーの態度を見てはいないからである。

 この実際には見ていない場合、人はまったく違う事実を事実と信じ込んだまま、真実は埋もれていく、ということが、すでに保安官とフリーライターの「あの記事は嘘だ。なぜなら、あの場に俺はいて、見ているからだ」という場面が伏線になっている。

 

 町山智浩は保安官がファシストだというが、そうではない。

 ※町山はファシストを暴力と強圧で支配する者という意味で言っているらしい。

 専制君主のようにふるまっている、とか独裁者のようにふるまっている、という表現のほうが近い。

 この保安官はどういう人物かというと、犯罪行為に対する裁きを下す権限を持っている状態で、その判断に対する批判を暴力を行使して許さない、その上で、その町における地位と自己の人生の安定を確保しているのである。

 ところが、実際にやっていることは、娼婦を人間扱いしないことだ。

 つまり、カッとなっただけで女の顔をナイフで切るような卑劣な行為をした町の男を、半殺しの目にあわせて町から追放するくらいが妥当なところを、何頭かの馬を売春宿の経営者に差し出せ、という罰だけで済ませる。

 憤懣やるかたない娼婦たちはお金を出し合って、賞金を出して、顔を切った卑劣な男を殺してくれ、と依頼を出す。そんな賞金目当てに来た賞金稼ぎによって卑劣な男は殺された、これは保安官にとって自分の治安を差し置いた無法ということになる。

 本来、保安官は賞金稼ぎを許さないというなら、それはそれで賞金稼ぎで殺人を犯した者を追及するべきだったが、感情的になって、賞金稼ぎの名前を隠しただけの男を殺してしまう。だから、「許されざる者」なのである。

 

 「許されざる者」とは保安官で、この保安官がなぜ「許されざる者」なのかというと、「娼婦を人間扱いしていない」ということ。そして「人を殺してもいない男」をそうと「知りながら殺して」いるからである。

 

 もうひとり「許されざる者」がいる。売春宿の経営者である。(ただ経営者だから、許されないというのではなく、その経営者の態度が、女たちをないがしろにしていて、人間扱いしていないというように描かれている。

 

 この映画は、ウィリアム・ビル・マニーが、なぜ女房が亡くなった後も酒も飲まず、友人から、女を買って遊ぼうじゃないかと言われても、いや、俺はいい、死んだ女房に申し訳ないというのか、・・・そんな女性とは、いったいどれほど人間的魅力にあふれる女性だったんだろう、という謎を提示しているのである。

 

 ウィリアム・ビル・マニーは、俺が多少ともまともに生きられるようになったのは、死んだ女房のおかげだ、とも言っている。

 

 顔を切られた娼婦デライラは、自分の顔を切った卑劣な男の殺しを依頼するお礼に、私を抱いてもいいよ、というが、マニーはそんなことしなくていいから、という。

 すると、デライラは、自分が顔を切られていて気持ち悪いからなのかな、と思うそぶりを見せる。

 マニーは、「あっ、そうじゃないんだ。君は顔に傷がついていても、美人だと思うよ。それに他の娼婦も含めて誰かを選べと言われたらきっと君を選ぶと思う。おれがそれを望まないのは、妻に申し訳ないからなんだ」

 

 デライラは驚いて、「そうだったんですか。わたしはいままで、不実な男性ばかり見てきたものですから、気がつかなかった」

 

 マニー「そうだね、不実な男は多いよね」

 

 という会話があり、さらにこの後、デライラは、娼婦の館に帰ってから、仲間達に「あのマニーさんは立派な男だわ。奥さんに申し訳ないから、抱かないって・・・」と言う。

 

 「マニーに奥さんはいないわよ。もう亡くなってる。」

 

 デライラはマニーが帰ってから、奥さんに隠し事をしたり、バツの悪い思いがするのが嫌だというのではなく、亡くなった奥さんを愛し続けてるのだと知って、いったいそこまで、ひとりの男性の誠実さを引き出す女性とは、どんな女性だったのだろうという厳粛な思いになる。

 

 マニーが娼婦たちを人間扱いしなかった許されざる者たち5人を皆殺しにして立ち去る時、デライラの顔がアップになって、畏敬の念さえ浮かぶのは、マニーに対する畏敬の念ではなく、マニーの亡き妻への畏敬の念を示す表情なのだ、という演出が施されている。

 

 娼婦を人間扱いしろ、というウィリアム・ビル・マニーの叫びは、殺した五人のごろつきと遠巻きに見守る町の者たちに向けられている。

 けっして米国という国には向けられない。

 それは国家の擬人化された善悪の悪ではなく、ひとり一人が負うべき倫理だからだ。

 

 ひとつ言っておけば、韓国の慰安婦問題とは、人間の個人倫理の問題を国家の擬人化された善悪問題における悪として抽出して、むしろ問題を矮小化してしまっているのである。

 だからこそ、朝鮮人の親、朝鮮人の売春業者の倫理が、卑劣軽薄にも放擲されて平気なのである。

 この映画は日本映画でもリメイクされたが、日本のリメイクでは、わたしがここで説明した「登場しない人物」が実は主人公だという側面、そして、物事の真実は語られない限り、埋もれてしまうというメカニズムのこと、この二点重要なモチーフはまったく理解されていないようだ。

  この文章を書くにあたって他の複数の映画ブログを確認したが、ほとんどの人は町山智浩氏の解説にひきづられているようである。

 マニー自身が許されざる者という感想が多いのだが、もしそうなら、五人を殺してひきあげるマニーを畏敬の念を持ってみつめる娼婦も許されざる者となり、全員が許されざる者だというなら、およそそれは相対的でそこに善も悪もないというアノミーになってしまう事に気づかない人が多い。

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戦後民主主義とリベラルの敗北

1955年までは日本の産業構造は農業水産業中心であったから、実際には農林水産業従事者は、共産主義思想、政府転覆思想を理解する素養自体がなく、同時に「快楽消費に対する渇望」がなく、ある程度村々の中の生活に充足していた。そのため、普通選挙は、むしろ、現状追認の保守政党が政権を取る結果となった。

 高度成長に入ると、それはそれで農林水産業から第二次産業に移動した人々には、それなりに希望が生まれ、豊かさへの憧れはアメリカ映画、テレビ、音楽がなによりの証拠として作用して、いかに進歩的知識人がソ連は良い国と述べ立てたとしても、現にソ連の豊かさ、華やかさを証明するソ連映画はなかったから、多くの日本人は米国と協調する自民党政権を選択し続けた。

 

 これはやがて自民党の派閥政治、収賄・利権政治の醜悪な側面が鼻につくようになり、1950年代に20代から40代だった人々が40代から60代を迎えて、ちょうど子どもの世代が社会の中枢になった1970年頃から、前世代の日本人の保守性、無教養性、盲従性が嫌悪されるという形で世代間対立が起こるのである。

 

 そして、1970年に20代だった青年達にとっての教祖的役割を果たしたのが、1974年にアメリカがベトナムから全面撤退するまでに活動したベトナム反戦運動小田実

1967年の「万延元年のフットボール」で安保闘争のような政治運動を肯定してみせた大江健三郎の二人であった。

 

 小田実大江健三郎がさらに飛躍的に当時の20代から40代の日本人の心情をつかむには、小田実大江健三郎が賞揚した中国・北朝鮮が事実、輝きを示す必要があったが、そうではないということが、革新派の致命傷になり、ついに共産党社会党連立政権は戦後日本にただの一度も実現しなかった。

 

 ここで、朝日新聞岩波書店日本共産党社会党大江健三郎小田実の使った詐術が、豊かさよりも「平和」「反核」が大事だという発想である。

 

 これは米国の発展とこれに相似する発展を続ける日本について、「核の危機」に覚醒しない、また「核の危機の元凶たる米国」と決別しようとしない日本人は覚醒していないのだという批判を若い世代に対して小田実大江健三郎は突き続けたが、これまた、中国が軍拡を続け、北朝鮮一党独裁制を強化し続けている実態が知られるに連れて、小田実大江健三郎は信頼性を失っていった。

 

 やがて1990年代になると、この時点での20代から40代の日本人の意識は、ソ連崩壊と労働組合役員の管理職への成り上がりという現象が多数見られるようになったことを体感したことから、社会党共産党の自治体議員から国会議員までも、結局は自分一身の政治家としての利益がほしいというのが本音ではないのかという疑念が普遍化していく端緒でもあった。

 

 さらに同時にバブル景気と大衆文化の高揚がみられてきた。

1990年のアメリカ映画「フィールドオブドリームス」「いまを生きる」「オールウェイズ」「ドゥザライトシング」英国映画「マイレフトフット」「マグノリアの花たち」台湾「非情城市」「アイリスへの手紙」「ダイハード2」「バックトゥザフューチャー3」「ゴーストニューヨークの幻」「グッドフェローズ」「トータルリコール」「プリティ・ウーマン」というように、西側資本主義国が精神的な豊かさと経済的豊かさの可能性を持っているのではないかと思わせるに十分な大衆文化の達成を示した。

 

一方日本の大衆文化はこの頃、映画は著しく衰退したものの、大衆歌謡はシンガーソングライターによるヒット曲が爆発的に開花した。

 邦楽年間ヒット曲の上位10曲のうち、歌手と作詞作曲がまったく別の組み合わせである曲は4曲で、過半数はシンガーソングライターという現象が現れ、これは1990年から1994年まで変わらぬ傾向だった。

 これは日本人の経済的な豊かさが、精神的な豊かさに至ったことを意味しており、果たして「革命」が必要なのかどうか疑わしくなったことを意味したのが、奇しくもソ連崩壊の年と一致していたのである。

 

 このような状況で、「平和の大切さ」を訴える戦後民主主義(2017年になって名称をリベラルと自称)は、大きな欺瞞を抱えた思想ではないのかと問われざるを得ない。

 なぜなら、平和とは、ただ「戦争ではない状態」なのであり、人間にとって大事なのは、

 1990年から94年の邦楽ヒット曲の次のような歌い手の世界が表現する細やかな人間世界の洞察がなければ、「平和」それ自体に意味はないという事を若者は実感しはじめるようになっていった。

米米CLUB、LINDBERG、たま、プリンセス・プリンセスTHE BLUE HEARTS長渕剛サザンオールスターズ小田和正中島みゆき浜田省吾荒井由実CHAGEASKAなどである。

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慰安婦・夫婦別姓・福島瑞穂。日本共産党・ソ連

日本共産党ソ連と闘ってきたと嘘をつくが、1949年総選挙で日本共産党は4議席から35議席へと躍進。1946年のベストセラーがソ連のスパイとして処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の妻との書簡集であったから、この頃、共産党支持者の日本人はソ連に通謀する日本人を英雄視していた。

 ノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんは、「小さき人々」と呼ぶ民の声を発掘し、チェルノブイリ原発事故被災者の苦悩を描き。2000年に「小さき人々」をテーマに対談した作家・徐京植さんと16年ぶりに再会し、未来をいかに生きるか、語る。 こうしてNHK徐京植をゴリ押し

米国の現代の価値観では、売春はホワイトスレイブリーである。米国において、韓国人売春業者が「ナゴヤ」だの「日本人女性がいます」などと偽ってマンション売春を行っているのは、明白なホワイトスレイブリーである。在米日本人はぜひ、この件の報道を収集して、米国人に知らしめてほしい。日本の女性人権団体は、韓国人権団体と協力して、ソウル市内に韓国女性の国内から国外に進出するまでのニュース報道の変遷史を交えた記念館を設置して海外観光客と韓国人に広く知らしめて、この恥ずべき現代の性奴隷制度を根絶するべきではないか。国連でも、韓国人権団体と協力して発表するとよい。 

2004年性売買特別法の禁止強化により、韓国人売春婦が台湾に大挙して進出し、台湾で売春に従事する外国人女性たちを追い出し、「売春市場で韓流が流行」と報じられた。2011年韓国MBC放送は、韓国人売春婦が日本、オーストラリア、米国に、10万人おり、韓国政府は困惑しています、と放送。 

カズオイシグロの「私を離さないで」のクローン人間はいわば人為的な種族なのである。夫婦別姓夫婦とその子は、「夫婦別姓」という新法創出の慣習外の人為によって作り出される新しい種族であり、かならず親子関係の希薄な、なおかつ母違い、父違いの兄弟姉妹を持ちがちになる。 

福島瑞穂の言う「事実婚」推奨思想は、イケメン、金余り男の妾好き、(舛添が事実そう)ヤリマン、捨てられ子、親子関係の希薄な人間が大発生。そういう人間でも国家によって高等教育を受けて心情はアナーキー。 これはカズオイシグロの「私を離さないで」のクローン人間の心情で描かれる虚無と同一。

 

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