源義仲(木曾義仲)と巴御前
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源平盛衰記によると巴の父は中原兼遠かねとお。
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巴は当て字であり、正しい漢字は不明であり、本当の名も不明。
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平家物語では「便女」(召使の女)とされた。
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平家物語木曾の最期の冒頭にともえが登場する。
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ともえと山吹という二人の召使の女を伴っていた源義仲。
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山吹のみ、病気のため、京に残る。
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ともえは「色白で黒髪長く、容顔まことにすぐれた美女」であり、同時に「大鎧を着て、大太刀を持って、馬上からの弓術もうまく、馬から降りて太刀さばきもすぐれた一人当千の女武者」だというふうに描写された。
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敗勢の仲、鬼神のごとき戦いをしてなおも生き残るともえに、源義仲は
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「おまえは女だ。だからもはや戦わなくてもよい。どこへでも行くがいい。おれはここらで討ち死にしようと思うから。」
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「自害も覚悟しているが、おまえがいては「木曾殿は戦に女を連れていた、見苦しいやつだと侮られもしよう。だから、もうどこへでも行くがいい」とともえに告げたとされる。
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これに対してともえは
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「ああ、もっと強い敵と戦って死にたいものだ」と答えて義仲の言葉を右から左に聞き流して取り合わなかった。
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そこへ武蔵の国、御田八郎師重おんだはちろうもろしげが三十騎で来た。
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ともえは御田八郎師重にとびかかり、馬からひきずり落として首を切ってしまい、鎧、兜を脱ぎ捨てるや、さっさとその場を立ち去り、その後、ともえがどこに行きどう暮らし、いつ亡くなったかは誰も知らない。
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また源平盛衰記では、畠山重忠が追撃すると、義仲も反撃し、半時ほど戦った。
そこへ現れたのが一騎の武者。
弓も太刀も強く、馬を走らせながら攻めかかってくるので、さすがの畠山軍も引いてしまう。
重忠が家臣の榛沢成清に誰かを問うと、
「義仲の乳母夫・中原兼遠の娘でともえという女です。
義仲の四天王と呼ばれた樋口兼光・今井兼平の兄弟で、義仲の妾となり、戦では不覚を取ったことがないという恐ろしい者です」
と答えた。 -
重忠は、ともえを捕虜とするため軍を引き返させて、巴に近づき、弓手の鎧の袖に手をかけたが、
ともえが馬に一鞭あてて鐙を蹴ると、鎧の袖は引きちぎれた。
「これは女ではない。
鬼神の振舞いである。
このような者に矢でも射籠められて永代に恥を残さぬよう引くに過ぎたる事なし」
として退却し、 -
という場面がある。
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袖が実際に引きちぎれるわけがないのだから、畠山の態度もフィクションであろう。
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となると、ともえの実在自体が疑わしいところがある。
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吾妻鏡には板額はんがくという女武者の存在が記されている。
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どうやら板額という女武者は実在したらしく、ともえは板額をモデルにしたフィクションか、それとも板額もともえも共に実在したが、多少、ともえの活躍を誇張して書いたか、その辺のところはよくわからないが、後世、木曾義仲(源義仲)はともえ御前と呼ばれる豪傑女武者を従えて戦ったというイメージが完全に定着している。
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これは本当かもしれないし、ともえらしき女性が木曾よしなかの育ての父の娘におり、つねにつき従っていたという事実だけが本当で、ともえが女武者だというのは板額はんがくをあてはめたフィクションが、史実と大衆に信じ込まれたケースなのか、それとも源平盛衰記、平家物語の書くほどの豪傑レベルの武者ではないにせよ、女武者には違いなく、やはり凛々しい女武者の姿は当時の武士たちに深い印象を残したということなのか。