源頼朝について 2

源頼朝と北条らの決起

以仁王令旨の後、以仁王後白河上皇側の源頼政が宇治平等院の戦で平氏に敗死する。

続いて頼朝は

信頼を寄せていた土肥実平岡崎義実、天野遠景、工藤茂光、加藤景廉、佐々木盛綱らをひとりずつ呼び寄せ、それぞれにおまえを一番信頼し頼りにしているのだと伝え、彼らの奮起を促す。

 こうして最初に起こした戦が、 三島大社の祭礼の日伊豆国目代であった山木兼隆への襲撃 であった。

 

 頼朝は伊豆を出て土肥実平の所領であった相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)まで移動。そこで頼りにしていた三浦一族の到着を待った。

 続いて石橋山の戦いがあり、ここで頼朝勢は敗走する。

 平氏大庭景親3000騎。頼朝側は300騎。真鶴付近の石橋山で陣を張り、景親を迎え撃つ体制

平氏方の伊東祐親があらわれ、頼朝側は北の景親軍、南の祐親軍に挟まれた。

三浦一族の軍勢は増水した酒匂川に阻まれ、進軍できなかった。

岡崎義実の子・佐奈田義忠も討ち死にした。

 

戦場を脱した頼朝は土肥郷の椙山(すぎやま)まで逃げ延びた。

実平が、各々逃げ延び再起を図る際に再び集まることを提案し、郎党たちは各地に散った。

頼朝は景親と祐親の軍勢をやり過ごすため、「しとどの窟(いわや)」に身を潜めた。

景親軍の梶原景時は窟に隠れる頼朝を見つけたが、なぜか梶原景時は、景親に頼朝がいないことを伝え、立ち去った。景親軍、祐親軍がいなくなってから頼朝は真鶴岬から船で房総にむかった。

梶原景時は、頼朝を見逃した功績により鎌倉幕府の要職に就いた。

安房の国に上陸した頼朝らは領主長狭常伴を討ったことが功を奏して、たちまち房総、武蔵、秩父の有力一族を傘下に入れ、二か月後にはかつての父義朝と兄義平の本拠地、鎌倉に着いた。

甲斐源氏武田信義・信光、北条時政らが鉢田の戦に勝利。

この軍と合流して静岡の富士川平維盛と戦い、勝利する。

北に兵を返して、常陸の佐竹秀義討伐に向かい、ここで奥州藤原秀衡に頼っていた異母弟の義経が参戦する。

佐竹秀義を討つことはできなかった。

四国、伊予、甲斐、信濃、美濃、鎮西の各地源氏が蜂起する中、翌年、清盛が病没した。

以後、清盛の死後、平氏は清盛の五男、重衡が総大将となり、源平合戦が続く。(清盛の後継は三男宗盛)

平重衡以仁王の配下であった源行家を墨俣川で破り、美濃・尾張を奪取。

河内源氏で頼朝の従兄弟にあたる信濃源義仲木曾義仲信濃、上野、越後を制圧していった。

このころ、頼朝は平宗盛との和睦を後白河上皇に提起するが、宗盛は拒絶する。

政子が頼家を出産した。

平氏がたについていた源義広志田義広足利忠綱を現在の栃木近辺で破り、頼朝はついに坂東全域を支配下に収めた。

 源義仲木曾義仲も頼朝も従兄弟であり、以仁王令旨を受けて反平氏に立ったのであつたが、義仲は平氏がたについた叔父の義広をかばったために、頼朝と関係が悪化。

 義仲の嫡子、義高を鎌倉の頼朝長女大姫の婿にして和解した。

 頼朝勢力は平氏追討の第一を頼朝、第二を義仲と合意した。

朝廷は既に平氏を見限り、頼朝、義仲ら源氏に平家追討の命を下し、義仲は破竹の勢いで平氏に勝利、京に入った。だが、義仲は皇位継承に介入したことが上皇と廷臣の反感を買った。

で、上皇、朝廷に頼朝上洛待望論が生まれる。

頼朝は奥州藤原秀衡と取り逃がした佐竹秀義の南下を懸念していることを理由に、上洛を断った。

朝廷からの東国自立を主張する上総広常を頼朝は梶原景時に討たせた。

 一方、義仲は朝廷からの頼朝討伐命を望んだが、討伐の命は出ず、苛立った。

 頼朝は義仲が自身を敵視していることを察し、義仲討伐を決意、弟の義経に義仲討伐を命ずる。

義仲は後白河上皇鳥羽天皇を幽閉して頼朝追討の宣旨を出させ、頼朝追討を既成事実として朝廷の席を占めようと賭けに打って出る。

 征東大将軍となった源義仲義経と激突して敗死。

義仲の嫡男で頼朝の娘、大姫の夫であった義高は女装して逃亡したが、四日後、入間川で殺された。

こうして義仲と頼朝の内紛は義仲討伐で落着し、朝廷の鎌倉在の頼朝への信任感情は膨らんでいった。

 少年時代に頼朝助命に尽力したのは、池禅尼であった。池禅尼は清盛の実父、平忠盛の後妻で清盛の継母であった。池禅尼の断食しての口添えで、清盛は頼朝処刑を思いとどまった。

この恩義を忘れなかった頼朝は、池禅尼の実子である平頼盛を特別に御家人として遇した。

後白河天皇の准母、後の上西門院の口添えもあったという説もある。

 義経と範頼は義仲を討った後、朝廷から平氏討伐の勅旨を受けて、一之谷の戦いで勝利。

 西国平定を進めて行った。

 そして6月、頼朝は除目において平氏から一人、平頼盛を特別に図らって、頼盛の荘園を戻した。

続く