「安心・安全」「ウエルビーィング」という言葉の流行の意味するもの

 

菅(すが)を典型とする政治家はじめ行政官、企業広報担当者がスパイ防止法も国軍も核抑止力もない日本において「安心・安全」と平気で言う心理的背景。

世間一般の人間が、総じて安定した所得、安定した家族生活、楽しい消費生活、職業生活への満足に浸り、人生に自足して暮らしているという深く強い実感。

 「安定した所得、安定した家族生活、楽しい消費生活、職業生活への満足に浸り、人生に自足して暮らしている」そうした大衆からの満足と支持を得るには、後は「安心と安全」の保証に尽力しているのだと思わせることが、政治家の地位、行政官の立場、企業広報担当者の立場を維持する条件だと考えている。

 そしてこれは現状に自足する怠惰な思考を意味するとともに、案外、真実を衝いた態度かもしれない。いつの時代にもある怠惰な態度でありながら、時代はその怠惰な態度に見合う本当に「太平楽」な時代かもしれないのだ。

 well-beingウェルビーイング概念の多用もこの風潮に属する。

すなわち、社会は総じて満足した生活を送れている状態、幸福な状態、充実した状態になっている」とおおっぴらに言っても頭がおかしいと思われなくて済むと当人に信じられている。

 これが1960年代なら、満足した生活を送れるはずはなく、少しでも人間らしい生活に近づくためには、非合法活動の大きな犠牲を払ってでも、反政府活動をして、国民に打倒自民党の意識を知らしめねばならず、それが良心ある人間の態度だと彼ら1960年生まれまでの青年の多くには信じられていた。

Well-beingウェルビーイング)とは、「幸福」のことで、心身と社会的な健康を意味する概念。定訳はなく、満足した生活を送れている状態、幸福な状態、充実した状態などの多面的な幸せを表す言葉である。瞬間的な幸せを表す英語Happinessとは異なり、「持続的な」幸せを意味するのがウェルビーイングだ。

現在54歳で1990年に東大卒、昭和43年生まれ、第一生命経済研究所の村上 隆晃によると、

何事にも積極的でチャレンジを恐れない「未来志向派」、リスク回避的で行動に二の足を踏みがちな「消極派」、現状を肯定的に捉え、自己効力感も持ち合わせる「マイペース派」、4つの考え方でどちらともいえないが多い「無関心派」の4つである。

つまり、ウエルビーィング概念、安心・安全概念を違和感なく発する世代にとって、もはや幸福は心理的コントロールによって達成しうるのであり、経済的には満ち足りた世界が実現してしまった、と考えられているの。

1.労働生産性明治維新以来、今日まで一貫して「上昇し続け」ている。

2.平均就学年数 が上昇し続けた。

 

上記のように、解決策が政治変革ではなく、個人の「考え方のコントロール」次第で「持続な幸福感情は達成できる」すなわち、「理想社会はすでに実現した。あとは個人の考え方次第だ」という態度を社会的におおっぴらに言っても大丈夫だろう思える人間が増えてきたことを意味する。

筆者の村上が東大を卒業した当時、日本はどういう状況であったかといえば、

海外旅行など日本人の年間出国者数が1000万人を突破し、成田空港で行われた記念行事 景気拡大、「岩戸」を抜いて史上2位に

総選挙で自民安定多数獲得、社会躍進

東欧の自由選挙で旧共産党の惨敗相次ぐ

 

これらは単に出版と思想表明の場というより、執筆なり編集行為がそのまま反政府運動をふとこる彼らにとって人生の意味そのものだった。

 1990年になると、大学を卒業したこのころから大学を卒業した者たちは、「ホットドッグプレス」「ポパイ」「電通」「野村投資顧問」「野村総研」に入社。

2000年以降になると

2000年以降になると

野村総研 三菱総研 日本総研、三菱UFJリサーチ みずほ総研 第一生命保険、他100社にもおよぶ経済研究所が乱立する。

これは日本の偏差値上位大学卒業生が、戦前戦後初期とは一変して、生涯、政府転覆を目的とする思想営為と社会調査をまったくリンクさえる意識が無くなったこと、そして自己保身と身過ぎ世過ぎの空虚な思想を拵えることを生涯の営為することと引き換えに高収入を得ることが出来るようになったことを意味する。

源義仲(木曾義仲)と巴御前

  1. 一騎当千の女武者、巴御前は、源義仲の妾とも側室とも云われる。

  2. 源平盛衰記によると巴の父は中原兼遠かねとお。

  3. 巴は当て字であり、正しい漢字は不明であり、本当の名も不明。

  4. 平家物語では「便女」(召使の女)とされた。

  5. 平家物語木曾の最期の冒頭にともえが登場する。

  6. ともえと山吹という二人の召使の女を伴っていた源義仲

  7. 山吹のみ、病気のため、京に残る。

  8. ともえは「色白で黒髪長く、容顔まことにすぐれた美女」であり、同時に「大鎧を着て、大太刀を持って、馬上からの弓術もうまく、馬から降りて太刀さばきもすぐれた一人当千の女武者」だというふうに描写された。

  9. 敗勢の仲、鬼神のごとき戦いをしてなおも生き残るともえに、源義仲

  10. 「おまえは女だ。だからもはや戦わなくてもよい。どこへでも行くがいい。おれはここらで討ち死にしようと思うから。」

  11. 「自害も覚悟しているが、おまえがいては「木曾殿は戦に女を連れていた、見苦しいやつだと侮られもしよう。だから、もうどこへでも行くがいい」とともえに告げたとされる。

  12. これに対してともえは

  13. 「ああ、もっと強い敵と戦って死にたいものだ」と答えて義仲の言葉を右から左に聞き流して取り合わなかった。

  14.  そこへ武蔵の国、御田八郎師重おんだはちろうもろしげが三十騎で来た。

  15.  ともえは御田八郎師重にとびかかり、馬からひきずり落として首を切ってしまい、鎧、兜を脱ぎ捨てるや、さっさとその場を立ち去り、その後、ともえがどこに行きどう暮らし、いつ亡くなったかは誰も知らない。

  16. 吾妻鏡には一切登場しないので、平家物語の作者が、なぜともえという不思議な女武者の存在を書いたのか、謎が残る。

  17.  また源平盛衰記では、畠山重忠が追撃すると、義仲も反撃し、半時ほど戦った。

     そこへ現れたのが一騎の武者。

     弓も太刀も強く、馬を走らせながら攻めかかってくるので、さすがの畠山軍も引いてしまう。

     重忠が家臣の榛沢成清に誰かを問うと、

     「義仲の乳母夫・中原兼遠の娘でともえという女です。

     義仲の四天王と呼ばれた樋口兼光今井兼平の兄弟で、義仲の妾となり、戦では不覚を取ったことがないという恐ろしい者です」

     と答えた。

  18. 重忠は、ともえを捕虜とするため軍を引き返させて、巴に近づき、弓手の鎧の袖に手をかけたが、

     ともえが馬に一鞭あてて鐙を蹴ると、鎧の袖は引きちぎれた。

     「これは女ではない。

     鬼神の振舞いである。

     このような者に矢でも射籠められて永代に恥を残さぬよう引くに過ぎたる事なし」

     として退却し、

  19. という場面がある。

  20. 袖が実際に引きちぎれるわけがないのだから、畠山の態度もフィクションであろう。

  21. となると、ともえの実在自体が疑わしいところがある。

  22.  吾妻鏡には板額はんがくという女武者の存在が記されている。

  23.  どうやら板額という女武者は実在したらしく、ともえは板額をモデルにしたフィクションか、それとも板額もともえも共に実在したが、多少、ともえの活躍を誇張して書いたか、その辺のところはよくわからないが、後世、木曾義仲源義仲)はともえ御前と呼ばれる豪傑女武者を従えて戦ったというイメージが完全に定着している。

  24.  これは本当かもしれないし、ともえらしき女性が木曾よしなかの育ての父の娘におり、つねにつき従っていたという事実だけが本当で、ともえが女武者だというのは板額はんがくをあてはめたフィクションが、史実と大衆に信じ込まれたケースなのか、それとも源平盛衰記平家物語の書くほどの豪傑レベルの武者ではないにせよ、女武者には違いなく、やはり凛々しい女武者の姿は当時の武士たちに深い印象を残したということなのか。

 

源頼朝について 2

源頼朝と北条らの決起

以仁王令旨の後、以仁王後白河上皇側の源頼政が宇治平等院の戦で平氏に敗死する。

続いて頼朝は

信頼を寄せていた土肥実平岡崎義実、天野遠景、工藤茂光、加藤景廉、佐々木盛綱らをひとりずつ呼び寄せ、それぞれにおまえを一番信頼し頼りにしているのだと伝え、彼らの奮起を促す。

 こうして最初に起こした戦が、 三島大社の祭礼の日伊豆国目代であった山木兼隆への襲撃 であった。

 

 頼朝は伊豆を出て土肥実平の所領であった相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)まで移動。そこで頼りにしていた三浦一族の到着を待った。

 続いて石橋山の戦いがあり、ここで頼朝勢は敗走する。

 平氏大庭景親3000騎。頼朝側は300騎。真鶴付近の石橋山で陣を張り、景親を迎え撃つ体制

平氏方の伊東祐親があらわれ、頼朝側は北の景親軍、南の祐親軍に挟まれた。

三浦一族の軍勢は増水した酒匂川に阻まれ、進軍できなかった。

岡崎義実の子・佐奈田義忠も討ち死にした。

 

戦場を脱した頼朝は土肥郷の椙山(すぎやま)まで逃げ延びた。

実平が、各々逃げ延び再起を図る際に再び集まることを提案し、郎党たちは各地に散った。

頼朝は景親と祐親の軍勢をやり過ごすため、「しとどの窟(いわや)」に身を潜めた。

景親軍の梶原景時は窟に隠れる頼朝を見つけたが、なぜか梶原景時は、景親に頼朝がいないことを伝え、立ち去った。景親軍、祐親軍がいなくなってから頼朝は真鶴岬から船で房総にむかった。

梶原景時は、頼朝を見逃した功績により鎌倉幕府の要職に就いた。

安房の国に上陸した頼朝らは領主長狭常伴を討ったことが功を奏して、たちまち房総、武蔵、秩父の有力一族を傘下に入れ、二か月後にはかつての父義朝と兄義平の本拠地、鎌倉に着いた。

甲斐源氏武田信義・信光、北条時政らが鉢田の戦に勝利。

この軍と合流して静岡の富士川平維盛と戦い、勝利する。

北に兵を返して、常陸の佐竹秀義討伐に向かい、ここで奥州藤原秀衡に頼っていた異母弟の義経が参戦する。

佐竹秀義を討つことはできなかった。

四国、伊予、甲斐、信濃、美濃、鎮西の各地源氏が蜂起する中、翌年、清盛が病没した。

以後、清盛の死後、平氏は清盛の五男、重衡が総大将となり、源平合戦が続く。(清盛の後継は三男宗盛)

平重衡以仁王の配下であった源行家を墨俣川で破り、美濃・尾張を奪取。

河内源氏で頼朝の従兄弟にあたる信濃源義仲木曾義仲信濃、上野、越後を制圧していった。

このころ、頼朝は平宗盛との和睦を後白河上皇に提起するが、宗盛は拒絶する。

政子が頼家を出産した。

平氏がたについていた源義広志田義広足利忠綱を現在の栃木近辺で破り、頼朝はついに坂東全域を支配下に収めた。

 源義仲木曾義仲も頼朝も従兄弟であり、以仁王令旨を受けて反平氏に立ったのであつたが、義仲は平氏がたについた叔父の義広をかばったために、頼朝と関係が悪化。

 義仲の嫡子、義高を鎌倉の頼朝長女大姫の婿にして和解した。

 頼朝勢力は平氏追討の第一を頼朝、第二を義仲と合意した。

朝廷は既に平氏を見限り、頼朝、義仲ら源氏に平家追討の命を下し、義仲は破竹の勢いで平氏に勝利、京に入った。だが、義仲は皇位継承に介入したことが上皇と廷臣の反感を買った。

で、上皇、朝廷に頼朝上洛待望論が生まれる。

頼朝は奥州藤原秀衡と取り逃がした佐竹秀義の南下を懸念していることを理由に、上洛を断った。

朝廷からの東国自立を主張する上総広常を頼朝は梶原景時に討たせた。

 一方、義仲は朝廷からの頼朝討伐命を望んだが、討伐の命は出ず、苛立った。

 頼朝は義仲が自身を敵視していることを察し、義仲討伐を決意、弟の義経に義仲討伐を命ずる。

義仲は後白河上皇鳥羽天皇を幽閉して頼朝追討の宣旨を出させ、頼朝追討を既成事実として朝廷の席を占めようと賭けに打って出る。

 征東大将軍となった源義仲義経と激突して敗死。

義仲の嫡男で頼朝の娘、大姫の夫であった義高は女装して逃亡したが、四日後、入間川で殺された。

こうして義仲と頼朝の内紛は義仲討伐で落着し、朝廷の鎌倉在の頼朝への信任感情は膨らんでいった。

 少年時代に頼朝助命に尽力したのは、池禅尼であった。池禅尼は清盛の実父、平忠盛の後妻で清盛の継母であった。池禅尼の断食しての口添えで、清盛は頼朝処刑を思いとどまった。

この恩義を忘れなかった頼朝は、池禅尼の実子である平頼盛を特別に御家人として遇した。

後白河天皇の准母、後の上西門院の口添えもあったという説もある。

 義経と範頼は義仲を討った後、朝廷から平氏討伐の勅旨を受けて、一之谷の戦いで勝利。

 西国平定を進めて行った。

 そして6月、頼朝は除目において平氏から一人、平頼盛を特別に図らって、頼盛の荘園を戻した。

続く

作家 西村賢太追悼

西村賢太氏を「破滅型」と評するべきではない。

西村氏は中卒で家出して以後、職を転々として、劣悪な職業環境、人間関係において辛酸を嘗めた。特に17歳から29歳までの間、それはひどいものだった。

この時期を題材にした小説を書いたころの西村賢太氏の現実の生活は、むしろ篤実なまでに貯蓄に努め、貯蓄を田中英光藤沢清造の関連書籍の購入にあてたり、藤沢清造の供養のための旅費にあてたりするなどする暮らしであり、「破滅型」でもなんでもない。

17歳から29歳ころまでの劣悪な職環境と劣悪な人間関係、そしてそうした状況に時に押しつぶされて醜態を繰り返した時期を題材にしたことが「破滅的」に見えるだけなのである。

 それは生涯を貫く「破滅的生き方」とは到底言えない。

30歳以後の職業的にも収入的にも安定して以後は、「破滅的」なことはない。

数年間の同棲女性との不和・諍いもそれくらい世間並みで特別「破滅」とも言えない。

 「破滅型」作家というべきではない。

現代人の流行語「安心・安全」「分断はダメ論」の不愉快

地方議会議員、首長、政治家、企業役員まで、いつのまにか「安心・安全」とやたらに云うようになった。

しかし、日本は国防軍がない。核抑止力がない。

スパイ防止法がない。

「安心・安全」などありようもないのである。

だから、「安心・安全」を期するなど云うべきものではない。

また「分断はいけない」というも同様。

左翼は「政府を倒そう」と云い、「分断はいけない」というべきでなく、保守は「政府を倒して共産主義アナキズム売国に向かう左翼」に対抗するべきなのだが、この責務を直視しないのが、「安心・安全」「分断はダメ論」なのだ。

韓国はなぜ日本よりも発展できないか。

韓国が日本よりも発展できない理由は、大きく差が出た時代の契機は、徳川時代の大名制度だろう。

これで日本は各藩の独立した自助発展・自助努力の余地ができた。

朝鮮半島にはこれがなかったのが、日朝に大きな差が出た。

藩が独自に産業を興す、独自に藩校を作る、独自に欧米に留学させる。どくじに欧米情報を入手する。藩相互に産業競争をする。これが朝鮮になかった。

そして、むしろ日本との交流がない時代は発展は停滞し、日本との交流が強まればつよまるほど、日本に学び、また日本を通して、欧米の文化を吸収することが可能になった。

これはチャイナにとっても言えることだ。

 

平清盛と源頼朝の時代

平正盛白河上皇に土地を寄進して取りいっていた。

そうしたところへ、源義親の素行不良が目立ち始めた。

朝廷は父の源義家に討伐を命じたが、義家は老齢で動けなかった。

平正盛が義親を殺し、朝廷の評判が高くなった。

白河上皇の後押しが強くなり、正盛は但馬守になった。

息子の忠盛も海賊退治をして正盛、忠盛親子は評価が高く

 

なり、鳥羽上皇に武士として初めて忠盛が、朝廷に入っ

た。

こうして武士貴族の家に清盛が生まれた。

白河上皇に仕えていた女性が忠盛の妻になり、清盛が生ま

れた。

 

清盛30歳の時、祇園社という神社で清盛は争乱になり、

 

祇園社の神輿を射貫いた。

神官と争いになる。

神罰が下らないのかということになるので、寺社は激怒す

 

るが、鳥羽上皇のかばいで、罰金で終わる。

 

摂関家藤原頼長は不快に思っていた。

鳥羽上皇崇徳天皇の時代であった。

鳥羽上皇崇徳天皇の弟17歳に譲位させたい。

この弟は17歳で死去。

鳥羽上皇崇徳上皇の別の弟、後白河天皇に即位させた。

鳥羽上皇は死去。

崇徳上皇としては、後白河天皇の父ではなく、兄なので、

 

対立して、崇徳上皇についた武士と後白河天皇についた武

士の戦になった。

崇徳側

摂関家藤原頼長

 

頼長の家来であり、同時に清盛の叔父、平忠正源為義

 

後白河側

清盛、頼長の弟で実権のない関白、藤原忠通、妻の兄が後

 

白河の側近で親しかったが、父の為義は崇徳側の源義朝

 

清盛らが勝利。

 

清盛は叔父の忠正を殺し、義朝に父の為義を殺させる。

これで源一族は衰退する。

藤原北家摂関家上皇天皇、平家、源氏の五大勢力の

 

思惑が入り乱れていた時代。

 

天皇崩御、武士の放蕩者への征討などによって状況がう

ねり続ける。

後白河天皇と兄崇徳上皇の争いが激しくなったことか

 

ら、激動が始まる。

一般人の兄弟殺し合いなら、警察に逮捕されて終わるが、

 

最高権力層の争いは止める権力がない。

 

そこでどちらかの武力が疲弊して降伏して決着がつく。

 

つまり、日本の文書に記録の残る「内戦」のひとつ。

 

その後、日本の内戦は一旦徳川政権で終わり、明治維新

最後の大内戦(戊辰戦争・函館戦争・西南戦争まで続く)

になる。

以後は暗殺史・騒乱史・テロ史があり、敗戦革命企図があ

 

り、高度経済成長後は暗殺・争乱・テロが消失していく。

 

ちなみに敗戦革命企図には、大きく分けてふたつの企図勢

 

力があった。親ソ敗戦革命と親英米近代化敗戦革命(マル

 

クス主義ではない共和制民主主義革命)

 

海軍の米内光政、陸軍の阿南惟幾瀬島龍三ら陸海軍のロ

 

シア通と共産主義願望の将軍・参謀レベル

ソ連との内通。

朝日新聞記者・元朝日記者で近衛側近マルクス主義者のソ連との内通。

山本五十六永野修身ら元ハーバード大学留学組の「日本

 

旧体制破壊願望→(英米蒋介石の中国・一体願望」の思

 

惑。

 

 米国を次期社会主義革命国と見て米国の勝利を期待し

 

た、当時の日本共産党員。(彼らはこう願望していただけ

 

で何もしなかった。

 

保元の乱が収まると、後白河権力の内部でトップ争いが起きる。清盛対義朝。

義朝と藤原信頼が組んで清盛・僧侶信西と対立。

信頼は信西を殺すが、清盛は義朝と信頼を殺して決着する。

ついに清盛に表立って対抗できる勢力は消滅した。

清盛は平氏一族に役職をつけていった。

こうして、遺児となったのが、頼朝、義経

源一族・藤原一族を放逐した後に、清盛は太政大臣になり、さらに娘を皇族に嫁がせた。

日宋(南宋)貿易。

 このころになると、後白河上皇の影が小さくなり、後白河上皇は清盛を嫌い始める。

 後白河天皇の第三皇子であった以仁王もちひとおうが、頼朝に「清盛を打て」という意味の令旨を出したころから状勢が流動していった。

 坂東の北条時政の家に逗留していた源頼朝と時政の長男、宗時が懇意になった他、政子が頼朝に恋慕するということもあった。

 政子の弟、14歳ほどの少年義時も頼朝と親しくなっていった。

 後白河天皇の第三皇子であった以仁王もちひとおうが、頼朝に「清盛を打て」という意味の令旨を出したころから状勢が流動していった。以仁王令旨を静観していた頼朝であったが、「源頼政」という人物の動きが契機になって、頼朝は決起を決意する。

平治の乱以後、清盛側について、公卿になった源頼政は、後白河上皇以仁王の清盛への反感に共鳴して、清盛討伐を企図する。

 これが清盛に発覚して、宇治平等院にて敗死する。

たちまち清盛らの源氏勢力掃討の勢いが強まり、伊豆の知行国主が平時忠になる、頼政の孫、有綱への追捕が始まる、北条家への圧迫が強まるなどした。

 こうして北条時政一族、頼朝らは危機感を強め、ついに決起する。